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校長先生のお話

二学期 始業式 校長講話

《2022年8月29日 二学期始業式 校長講話》

 

前島の対岸の長島愛生園の夏祭りと『生きがいについて』

 

Ⅰ 夏休み中にいただいた「お褒めの言葉」 

 夏休み中に何回か、六甲学院の生徒について「お褒(ほ)めの言葉」をいただくことがありました。

 1つ目は、報徳学園の校長先生からのお電話でした。毎年明石球場で行われている全国高校軟式野球大会で、兵庫県代表として出場した報徳学園の試合に、六甲学院の生徒8名がメガホンを持って制服姿で、自分の学校を応援するかのように一生懸命応援してくれたのが、大変うれしかったというお話でした。試合の相手は昨年の優勝校栃木の作新学院で、報徳は敗れてしまったのですが、六甲の生徒たちの声援が本当にありがたかったと、校長先生が話して下さいました。

 2つ目は、夏休みにおこなった国際交流プログラムの一つなのですが、「大学コンソーシアムひょうご神戸」の「英語村」に中1から中3の生徒の希望者が参加しました。海外からの留学生とのオンライン交流2回、インドからの英語講師を六甲学院に招いての文化交流を1回しました。スタッフの方々から、六甲の生徒たちは他国の文化への関心が高く質問も知的で、中学生の国際交流としてはとても高度で充実したものでした、というコメントをいただきました。講師であったインド人の先生からも、六甲生との交流が楽しく有意義に感じられたようで、六甲生とプログラムを行えたことに、とても感謝して下さっていました。

 3つ目は、現在30歳を少し過ぎた66期の卒業生からのお手紙です。すべてを引用することはできないのですが、大阪で見かけたある六甲生の様子を次のように紹介していました。「8月のある日に現役生のきりっとした姿を見かけ、嬉しく思うことがありました。大阪の市営地下鉄の東梅田駅に着き、乗客がぞろぞろと降りる中、遅れて電車から飛び出し人混みの隙間をしゅっとかけていく学生がいました。彼は私の横を通り抜け、数歩先にいた老夫婦にカバンの忘れ物を手渡していました。ユニクロのTシャツに体操用の短パンというラフな服装でしたが、「ROKKO」と書かれた懐かしいカバンを肩に掛けていたので後輩だとわかりました。短髪に眼鏡、よく日に焼けた彼はあっという間にひょこひょこと急ぎ足で行ってしまいました。その姿を見て、私は深い安堵(あんど)を覚えたのです。それは、今も六甲の生徒が大衆に埋もれることなく紳士的な振る舞いを身に着けていること、その事実に安心しました。」とありました。手紙の終りの方には、「在校生に伝えたいのは、君達のまっすぐな振る舞いを見ているよ、という事です。君達の現在と未来を信じています」というメッセージが添えられていました。

 4つ目は、中学1年生の前島キャンプで、スタッフの方が、いかだ漕(こ)ぎの帰りがかなりの逆風の中、これまでの経験ではこうした風が吹いていると、中学生が漕ぐいかだは出発した桟橋(さんばし)までたどり着かないものが続出するので、エンジンを付けたボートで引いてゆくつもりでいたところ、ほとんどのいかだが自力で帰ってきたことを、感心されていました。そのそれぞれのグループが協力して漕ぐチームワークと体力と、逆風の中をあきらめずに漕ぎ続けた粘り強さと気力とを、褒めていただきました。

 他校を自分の学校のように必死で応援したり、他の国の文化に知的好奇心を持って英語で対話したり、地下鉄で老夫婦が鞄を忘れたことに気づくとさっとそのカバンを手渡しに行ったり、逆風に負けずにチームでいかだ漕ぎをしたり、それぞれに内容は違いますが、六甲学院の学校生活の中で、他者を思って自然に行動に移せる心も、自分の視野を広げようとする知性も、チームで何かを成し遂げる気力や体力も、成長している姿が感じられてうれしく思います。それと同時に、六甲学院の生徒たちを温かく見守って下さり、プラスのメッセージを伝えて下さる方々の存在が何よりもありがたいと思います。こうして私たちに贈られた言葉を励(はげ)みにしつつ、これからも知性・体力・チーム力を必要とする文化祭を初めとした2学期行事に、前向きに取り組み、さらに一回り成長してもらえたらと願っています。

 

Ⅱ 中1前島キャンプで聴いた隣島の花火の音

 私はこの夏期休暇には中1の前島キャンプの後半に付き添ったのですが、個人的に様々なことを考えるきっかけになった出来事は、キャンプファイヤーの最中に前島を隔てた対岸の島から聞こえてきた、打ち上げ花火の音でした。中学1年生はキャンプファイヤーの出し物を見ることに一生懸命でしたので、隣島の花火の音に気づかない生徒は多かったかもしれません。花火大会をしていたのは、私たちがいた前島の北東にある島の一つ、長島です。3年前までは六甲学院が、毎年十数人の生徒を連れて社会奉仕活動に行っていた島です。

 どういう施設があるかというとハンセン病の療養施設「長島愛生園」があります。私たちの月々のインド募金の送金先ダミアン社会福祉センターが、世話をしている患者の方々と同じ病気です。日本では国の政策として、この病気を患(わずら)った人は青少年でも成人でも、それまで一緒に暮らしていた家族と別れ、故郷を離れて本土と離れた島に収容されます。国としてはこうした隔離政策によって、伝染する可能性のある病気の地域での感染を食い止め、患者を一つ所に収容して治療したり、後遺症で体が不自由になった方々の世話をしたりするという目的はあったのですが、病気に罹(かか)った人たちの立場からすると、本人の意思と関係なく病気だとわかるとすぐに家族と故郷から引き離され、一生涯一般社会とは隔絶した島で暮らすことを強いられるという、当事者にとっては不条理な出来事でした。

 インドと同じく日本でも、ハンセン病と分かると家族までもが差別を受ける時代が近年まで長く続いていましたので、家族との関係を断つために氏名も変え、子どもを産み育てることも許されずに、生涯この島の中で暮らさざるを得ませんでした。人権の観点からも問題の多い政策が行われていたと思います。日本には現在、青森から沖縄の宮古島まで国立ハンセン病療養施設が13箇所あり、かつては10,000人以上の人たちが療養し、長島愛生園には小中学校もありました。今は13施設全体を合わせても療養者は1,000人以下になっています。

 

Ⅲ 長島愛生園での社会奉仕活動と「夏祭り」

 六甲学院では、インド募金が始まるのと同時期、40年以上前から宿泊の社会奉仕活動として、生徒と共にこの島を毎年訪れていました。この島で療養している人たちは、すでに病気としては治っているものの、後遺症のために手足が不自由だったり目が見えなくなってしまっていたりする人たちです。そうした人たちの家を訪れたり、島の中の教会で数人の方々と会ったりして、お話を伺い交流してきました。奉仕作業としては、初めのころは園内の草むしりを中心にしていたのですが、まじめな働きぶりと継続的な訪問によって療養者の自治会に信頼されたためでしょうか、毎年夏まつりの盆踊り会場のやぐら組みや高いところの提灯(ちょうちん)の設営をまかされることになりました。初めのころは前島と同じように船で長島まで行っていたのですが、1988年に内陸とつながる橋が架かり、自動車やバスで行き来ができるようになります。開園して58年目で、当時、ハンセン病の施設のある島と自由に行き来できる橋が架ったのは、日本社会として差別克服の一歩を示す画期的な出来事でした。

 会場設営を手伝った夏祭りも、当時毎年のように継続的に行っていた私の印象なのですが、初めのころの参加者は園内の元ハンセン病患者と世話をする職員、看護師、医師が中心でした。それが、美しく迫力のある打ち上げ花火が間近で見られることもあってか、しだいに職員の家族や一般の方々も集まるようになりました。まったく社会とは隔絶した空間のような施設だったところが、園内の療養者と町の人たちとが同じ空間に集まり、六甲の生徒たちを含めて元気な人たちは盆踊りをしたり、祭りの屋台で欲しいものを買って食べたりして、にぎやかな祭りの雰囲気を味わえるようになりました。そして、施設に収容されて療養する人たちも、その方々の世話をする人たちも、街から橋を渡ってくる町民の方々も、皆で打ち上げ花火を見て楽しむようになっていきました。お祭りの会場設営が社会奉仕活動の内容ではあったのですが、自然な形で長い年月の間続いていた差別を、一つ乗り越えるような「場作り」の手伝いをさせていただいてきたようにも思います。

 対岸の花火の音を聞き遠くで開く花火を見たりしながら、コロナ禍でできなかった長島愛生園の夏祭りが今年はできるようになったのだという喜びと共に、今年は六甲学院からは手伝いに行くことができなかった残念さを感じました。これまでの六甲生の中には、インド訪問と同様に長島愛生園でも、弱い立場の方々との出会いの中で様々なことを深く考えたり、そうした立場の方々から不思議と生きる糧や指針となるものを伝えていただいたりした貴重な経験があったからです。社会奉仕の面でも、泊りがけの企画が実施できる状況に1年でも早くなることを願います。

 

Ⅳ 長島愛生園で医師として働いた神谷美恵子の著作から 

 最後に、この長島愛生園と関りのある著書を紹介したいと思います。長島愛生園で療養する方々に寄り添って関りを続けてこられた精神科医に神谷美恵子という方がいます。『こころの旅』や『人間をみつめて』という名著の著者ですが、長島愛生園の人たちとの関りの中で思索した内容を著(あらわ)した『生きがいについて』は、特に読む価値のある本だと思います。次のような文章で始まります。

 「平穏無事なくらしにめぐまれている者にとっては思い浮かべることさえむつかしいかも知れないが、世のなかには、毎朝目がさめるとその目ざめるということがおそろしくてたまらないひとがあちこちにいる。ああ今日もまた一日を生きて行かなければならないのだという考えに打ちのめされ、起き出す力も出て来ないひとたちである。耐え難い苦しみを悲しみ、身の切られるような孤独とさびしさ、はてしもない虚無と倦怠。そうしたもののなかで、どうして生きて行かなければならないのだろうか、なんのために、と彼らはいくたびも自問せずにいられない。」

 こんな言葉で書き始められる本です。六甲学院の生徒は心も体も健康で、こんな思いにはなったことがないという人がほとんどであればそれほど心配ないのですが、長いコロナ禍を過ごす過程でなんとなくこれに近い思いになったことがあるという人がいれば、読んでみるとよい本だと思います。筆者はすぐ後に次のように述べています。

 「いったい私たちの毎日の生活を生きるかいあるように感じさせているものは何であろうか。ひとたび生きがいをうしなったら、どんなふうにしてまた新しい生きがいをみいだすのだろうか。これはずいぶん前から私の思いの中心を占めて来たことがらである。しかしこれを一つの課題として或る衝撃とともに受けとったのは、九年前に瀬戸内の島にある、らい(ハンセン病)の国立療養所長島愛生園に滞在していた時であった。」

 「わざわざ研究などしなくても、はじめからいえることは、人間が生き生きと生きて行くために、生きがいほど必要なものはない、という事実である。それゆえに人間から生きがいをうばうほど残酷なことはなく、人間に生きがいをあたえるほど大きな愛はない。」

 

 本書のはじめ数ページの間に、このような言葉が綴(つづ)られています。長島愛生園の中で出会った人たちを通して、自分の体験とも照らしながら思索した内容が書かれているのですが、不条理な境遇に陥(おちい)って生きる意味を見失った人が、どのように自分と対話し周囲とつながる中で、生きる意味・生きがいを見出し得るか、それは単に長島愛生園の療養者だけの課題でなく、例えば突然平和で平穏だった生活が壊されて戦場となったウクライナに暮らす人々や難民の方々の現在の苦しい思いとも共通することかと思いますし、一生の中でおそらく誰にとっても、どこかで直面する普遍的な課題でもあるのではないかと思います。また、コロナウィルスとの関りも長引き日常化してゆく中で、人間が生き生きと生きること、生きがいを持つことは、改めて着目されるテーマとなるのではないかとも思います。2学期は、こうしたテーマについても、心に留めてもらえたら、と考えています。