《2024年12月23日 終業式 校長講話》
「理性と良心のもとに命を尊び、世界に平和をもたらす人間へ」
(1)クリスマス直前の教会の祈りから
カトリックの教会では、昨日(12月22日)、クリスマスを迎える直前の日曜日のミサの中で、共同祈願として、次のような祈りを会衆の皆が一緒に唱えました。
「人を傷つけ、命の尊厳と自由を踏みにじる悪の力を退けて下さい。弱者を思いやり、支える人々の輪が力強く広がっていきますように。」
「混迷する世界の中で人が歩むべき道を示して下さい。一人ひとりが神の導きに心を開き、よりよい社会にするために連帯していけますように。」
六甲学院に通う私たちにも、登下校時や学校内の日常生活の中で、弱者を思いやることができなかったり、人を傷つけてしまったりすることはあると思います。そうした自分に気づき、弱い立場の人たちを傷つける側ではなく、そうした人たちを「支える人々の輪」を力強く広げる人になることをめざしたいと思います。また「混迷する世界」の中で、人として「歩むべき道」を見出し、国や民族や宗教や立場を超えて、「命の尊厳と自由」を大切にする「よりよい社会」を創るために、 「連帯」できる人になることをめざしたいと思います。今日の講話では、この2つの祈りとも繋がる、六甲学院の卒業生の集まりの話から、始めたいと思います。
(2)初代校長に叱られた卒業生の体験-理性と良心を持った人間になる
六甲学院の卒業生から生徒時代の体験談を伺うことは、行事や同窓会や講演会などで度々あります。それが、私にとって楽しみでもあり貴重な機会だとも思っています。これまでも、その中で印象に残る話は、朝礼などで紹介したり学院通信に書いたりもしてきました。しかし、年配の方々にお会いしても、初代武宮校長から直接教えを受けた経験を聴く機会は、不思議と殆どありませんでした。それが、11月半ばに名古屋で、卒業生の組織である伯友会の中部地区の集まりがあった時に、武宮校長から直接個人的に叱られた経験を、話して下さった方がおられました。27期の卒業生で現在70歳代の方です。皆にとってはおじいさんの世代かと思います。
その卒業生の話は、今から60年前の出来事になります。その方は子ども時代にはかなりやんちゃだったそうで、中学1年生の時に、クラスメイトに対して、相手の気持ちを察せずに行き過ぎた悪戯(いたずら)をして傷つけてしまったことがあったそうです。それが見つかって、武宮先生から真剣に厳しく叱られたとのことです。自分の心ない行動を諭(さと)す中で、校長は自分に「人間と猿との違いは何だと思うか?」と問いかけられたそうです。皆なら、そう問われてどう応えるでしょうか?
その方は、人間と猿との違いを考えるにはまだ幼くて、何も思いつかず応えられなかったとのことですが、まだ中1のその人に武宮校長は次のように話されました。
「人間には理性と良心がある。人間は、理性と良心をもとに行動するということだ。それができないのなら、猿と同じだ。お前は決して猿になってはいけない。」
60年前にそう諭された70歳代の大先輩は、次のように話しました。「武宮校長から叱られたときのその言葉が、その後の自分の一生の行動基準なっています。『自分は今人間として生きているか、理性と良心のもとに行動しているか、猿になっていないか?』と、常に自分に問いかけ心がけながら、行動してきました。粗暴でわきまえのないところのあった自分が、何とか人としての道を踏み外さずに、これまでまっとうに生きて来られたのは、武宮校長から叱られたこの経験があったからです」。
(3)人として大切にすべき価値観の核(中心軸)をつくる体験
六甲という学校は、その人にとっての一生の拠り処となる中心軸を、在校中の経験の中で与えられる機会のある学校だと思います。27期のこの方の話も、そのことを表す、一つの逸話です。よりよい人になりたいという願いや、自分の弱さを見つめる正直さや、相手から真剣に発せられたメッセージを受け入れる素直さがあれば、今の六甲でも同様の経験をすることは、あるはずです。
今の時代の生徒たちの多くは、ご家族からも小学校の先生からも大事に守られながら育てられてきていると思います。この卒業生が初代校長から受けたような、厳しく叱られる経験は、殆どの人にはなかったのではないでしょうか。生徒によっては、真剣に諭される中で相手の伝えたいメッセージを受け取ることには、慣れていない面もあるかもしれません。また現代は、良いところを褒めて一人ひとりの個性を育てる中で、自己肯定感を育む教育が大切な時代であることも、確かだと思います。ただ、人として大切にすべきことに気づかなかったり、相手の気持ちを察せられずに傷つけたりしてしまう自分に対して、教師や親の言葉の中に、真剣に自分の至らなさを気づかせ、よりよい人間になるためのメッセージが込められているとするならば、それを素直に受け止め、自分の内面にある弱さ・足りなさを見つめ、自分をより良い方向に変えられる人間にはなってほしいと思います。
27期のこの大先輩のように、そうしたことの積み重ねが、人として大切にすべき価値観の核を作る体験につながることは、六甲生にはあるのだと思います。
(4)理性と良心に拠って命・人権・平和を大切にする世界へ
さて、中部地区の同窓会では、そこから話題は自分の恩師との思い出話に移るのかと思ったのですが、同窓会の人たちの話題は思わぬ方向にむかいました。
「理性と良心のもとに行動するのが人間で、そうでなければ、猿であるとすると、今の世界は『猿の惑星』になりつつあるのではないか」というご年配の方の発言から、現在とこれからの世界の在り方についての話題にむかいました。何人かの先輩たちの話の流れは、概ね次のようなものでした。
“コロナ禍前までは少なくとも、世界の人々が平和を願い、戦争のない世界にしてゆこうとしてきたし、環境の課題に国を超えて協力して取り組もうとしていた。人間の命の尊厳や人権や民主主義を大切な価値観として守っていこうという機運は高まりつつあったように思うし、少なくともよりよい方向にむっているように思っていた。それなのに、そうした動きがここ数年ですっかり後退してしまっている。特にロシアのウクライナ侵攻やイスラエルによるガザの民間人への殺戮などにみられるように、命や人権や平和を大切なものとして守るよりも、世界の政治リーダーたちは、理性や良心を失って自国の利益や繁栄をより優先する価値観へと傾いている。それに伴ってヨーロッパや中東の不安定な情勢に、核戦争への危機さえも感じられる。こうした世界になりつつある中で、これからを生きる若い世代のために、自分たちに残された時間はそう多くはないかもしれないが、何かできることはないだろうか?” そうしたことが卒業生たちの話題になってゆきました。
中部地区の同窓会に集まったのは19期から66期までの20名ほどで、私よりも年上の20期代から30期代前半の方々が多く集まられていたのですが、それぞれの方々がグローバルな視野の中で世界を眺める見識を持っておられることに、また真剣に今の世界を憂い、これからのためにできることを模索する姿勢に、六甲学院の世代を超えた卒業生たちの共通の特徴を感じましたし、自然に尊敬の念を抱くことのできた同窓会でした。
(5)核爆弾の悲惨さを語り継ぎ人類の危機を救う方向へ
卒業生方々が指摘されるように、今の地球が人間としての理性と良心を失って「猿の惑星」になりつつあるというのは、本当のことのように思います。そのことに地球の危機を感じて、理性と良心のもとに行動を起こしメッセージを発している人たちに目を向け、その人たちのメッセージに耳を傾けることが、今後の世界を考えるうえで極めて大切なことのように思います。平和を願い、戦争のない世界にして行こうとすること、生命や人権や平和を大切な価値観として守っていこうとすること、そうした方向性を持つ動きに共感し協力してゆくことが、大切なのだと思います。
そうした、これからの世界の方向性を指し示す取り組みの一つとして、今年ノーベル平和賞に選ばれた団体が、日本原水爆被害者団体協議会なのではないかと思います。核兵器がどれだけ悲惨な殺戮をもたらすか、その非人道性を語り継ぎ、核廃絶の必要性を唱えてきた団体です。日本は原子爆弾によって広島で約14万人、長崎で約7万4千人の尊い命が奪われています。68年前に結成された日本被団協の結成宣言には「自らを救うとともに、私たちの体験をとおして人類の危機を救おう」と、その基本精神が記されています。
12月10日のノルウエー・オスロ市庁舎で行われたノーベル平和賞授賞式では、代表の田中煕巳(てるみ)さんは「核のタブーが壊(こわ)されようとしていることに、限りないくやしさと憤りを覚える」「人類が核兵器で自滅することのないように」「核兵器をなくしていくためにどうしたらいいか、世界中のみなさんと共に話し合い、核廃絶を求めていただきたい」と訴えていました。
受賞の背景には、国連のグテーレス事務総長が「核戦争のリスクは過去数十年で最高レベル」と語り、核軍縮を専門とする黒澤満大阪大名誉教授が「ここ数年で核兵器が本当に使われ人類が全滅するかもしれないという危機感が生まれた」と指摘している現実があるのだと思います。今回の受賞理由の中では、核兵器について「何百万人もの人々を殺し、気候に壊滅的な影響を及ぼし得る。核戦争は、我々の文明を破壊するかもしれない」と述べられています。ノーベル委員会の委員長は授賞式で日本被団協が「核兵器が2度と使われてはならない理由を身をもって立証してきた」とその功績を紹介しつつ、「記憶が新たな人生への契機をもたらすこともある」として、核兵器が人類にもたらした悲惨さを新たに記憶にとどめ、次世代へとつないでゆくことの大切さを強調しています。
講話の最初に紹介した祈りにあるように、「人を傷つけ、命の尊厳と自由を踏みにじる」出来事が日常レベルだけでなく国家レベルでも広まりつつある「混迷する世界」の中で、「人が歩むべき道」の一つは、まずは「体験」の記憶を受け継いでゆくことだと思います。様々な立場の違いはあるかもしれませんが、日本被団協の結成宣言に「私たちの体験をとおして人類の危機を救おう」とあるように、唯一の被爆国としての体験を私たちも知ることを通して、核爆弾の悲惨さ・理不尽さと「人類と核兵器とは共存できない」こと、核兵器の使用は人類の自滅に繋がりかねないことを訴え続けることは、これからの世界がより平和的に存続し続けるため、人類の危機を救うために大切で必要なことではないかと思います。
(6)苦しみ傷む世界の人々と共に住み、平和と救いをもたらす生き方
クリスマスの中で祝われる救い主イエスの誕生は、神がこの世界全体をご覧になって、このままではこの世界は救うことができなくなると思われ、具体的な生き方と言葉を通して救いの道を人々に示す人間として、神がご自分の愛する子をこの世界に遣わされたという出来事です。
イエズス会の創立者、イグナチオ・デ・ロヨラは、同様に神がこの世界をご覧になるようにこの世界を見渡して、アジアの貧困の悲惨さとと魂の救いのない状況に目を向け、そこに生きる人々を救うために、自分の最も信頼するフランシスコ・ザビエルをアジアに遣わし、ザビエルは命がけでアジアの様々な地域を巡り、私たちは神にとって大切な存在であることを伝えるために、日本にまでも宣教に来ました。
アルペ神父はそのフランシスコ・ザビエルに憧れて、宣教の地として日本に来ることを望み、広島で原爆を体験して、世界に核兵器が人間にもたらす悲惨さと非人間性を伝えた人物です。そのアルペ神父は、被災地で負傷する人の命を救うために尽くし、後にイエズス会教育のモットーである“Men for Others” を提唱した人物でもあります。
イエス・キリストからイグナチオ、ザビエル、アルペ神父へと受け継がれてきた、この世界をグローバルな視点で見て、この世界をなんとか救えないか、良い方向に変えられないかという思いは、六甲学院の創立にも受け継がれ、卒業生の内にも生きています。先ほども述べたように、この秋に出会った中部地区の同窓会での、卒業生たちの世界への見方や姿勢にも、それは一貫して受け継がれているように思います。
世界の中の傷み苦しむ姿を見て、そこへと向かいその内に共に宿り住み、その中で、悲惨さの最中に苦しむ人を助け救い、人々のうちに平和をもたらす、この“For Others, With Others”の生き方が、私たちに示された「混迷する世界の中で人が歩むべき道」だと思います。始まりは、この世界に暮らす人々の苦しみ傷みを見て、この世界を救いたいと願い、イエス・キリストをこの世界に生まれさせた、神の思いであり、クリスマスの出来事でした。その“For Others, With Others”の道を、その生き方と言葉を通して生涯をかけて示されたのがイエスです。イエスの誕生から、六甲学院創立後の卒業生へと綿々と引き継がれてきたその願いと行動を、私たちも受け継いでゆければと思います。そして、人として理性と良心のもとに生き、危機的な状況に向かいつつあるこの世界に、平和をもたらすために生き働く人になれますように、祈り願いたいと思います。