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月別アーカイブ: 2024年1月

三学期始業式 校長式辞

《2024年1月9日 三学期始業式 校長式辞》

 

声なき声を聴く―震災・紛争・格差社会で苦しむ人々に耳を傾け行動する人へ

(1) パレスチナ・ガザ地区と能登半島地震―救援の手が届かない事態
 三学期が始まりました。皆さんはどのような冬休みを過ごしたでしょうか?
この冬休み中も、パレスチナのガザ地区では、クリスマスも新年も停止することなく攻撃が続きました。日本では元旦に、石川県能登地方を震源とする最大震度7の地震が起き、発生から一週間が過ぎた昨日までの死者は168人に及び、まだ全容がつかめていません。心を騒がせ心配や不安な気持ちで過ごした新年だったのではないかと思います。
 ガザ地区の紛争による死者は戦闘から3ヵ月経って22,000人を超え、そのうちの7割以上が子どもや女性たちだとのことです。避難生活を送る人々は住民の約85%の約190万人で、避難民のキャンプや病院でも空爆や攻撃が発生しているそうです。こうした紛争や飢餓の地域に入って救援活動をする団体として、世界的に知られているカトリック系の「カリタス」やプロテスタント系の「YMCA」のスタッフたちが、爆撃にあって命を落としているという現実もあります。人道的な配慮の全く見られない無差別な攻撃が続いている中で、食料や飲料水や衣服や医薬品などの支援が必要な人々のところに、ますます援助の手が届かなくなっている状況で、多くの人たちが怪我や感染症に苦しみ、命を落としています。恐らく、報道でも伝えきれていない深刻な状況が今も続いているのではないかと思います。
 能登地方一帯の地震と津波の被災地も、電気や水道が通じず道路も寸断され、崖崩れや倒壊家屋のために、人がいるとわかっていても、救助の手の届かない家屋があります。救援物資を届けようとしても、その地域まで入ることができずに孤立している村落が、数多くあります。一週間以上が過ぎて、被災地に必要な救援物資が集まってきてはいても、本当に必要な人たちの所に届くための手立てが、まだ整っていないのが現状です。
人間の手による紛争と自然による災害の違いはあっても、苦しく困窮している状況の中で、助けを求める声を挙げようにも挙げられない人たちや、声を挙げても救援に対応する人たちには届いていない、あるいは声は届いていても対応する人員や手立てが全く足りていない状況が続いている点では、共通しているように思います。

 

(2)能登半島地震―124時間ぶりに90代女性を救出のニュース
 そうした中で、1月6日(土)には、石川県珠洲(すず)市で、地震の発生から約124時間ぶりに90歳代の女性が救出されたという嬉しいニュースもありました。2階建て家屋の1階が倒壊して下敷きになり、ベッドの上で両足が挟まれていたところ、福岡県警の救助隊が慎重にがれきを取り除いて、助け出したそうです。救助隊は避難所での聞き込みによる安否確認の中で、家に取り残されている可能性が高いと判断して、現場まで行って生存者を助けることのできたケースでした。地域の人と人とのつながりの中で、あの家のおばあさんが避難所には来ていないので家に残されているのではないかという近所の方からの情報と、生存率が格段に低くなる地震発生から72時間を過ぎても丁寧な聞き取りをしつつ、生存者の救助を諦めなかった福岡県警の救助隊の意思があって助け出された命でした。福岡県警にそういう働きができたのは、恐らく2016年に起きた隣県の熊本地震での救援活動の経験が、生かされたからではないかと思います。

 

(3)阪神淡路大震災の経験―学校避難所での友人看護師の働き①
 私は、こうした正月からの能登半島地震の報道を見聞きする中で、29年前に起こった阪神淡路大震災での経験を思い出していました。震災から間もない頃の避難所での個人的な体験です。
 当時、私たち夫婦の友人で看護師をしていた方が、岡本に住んでいました。地震から3日程経ってから電話がつながり、その友人から連絡があって、次に大揺れが来るのが怖くて外に出ることが出来ないという話でした。最初の本震後も震度4から5の余震は度々起こっていたので、心細かったのだろうと思います。その週の日曜日、地震から5日経った頃に他の友人たちと、不安な中で一人暮らしをしているその友人を見舞いに、岡本のお宅まで行きました。私自身は比較的被害の少なかった神戸市北区に住んでいて、被害の大きかった灘区のこの学校に毎日自動車で通っていましたので、近所の人たちが作ってくれたおにぎりやおかず、持ち寄ってくれた衣類や毛布などの物資を、積めるだけ自動車に積んで、通勤の行き帰りに避難所を回って、配ることを始めていました。
 その日も仲間と一緒に、近くにある小学校の避難所に行くことにしていましたので、看護師の友人も誘ってみました。看護師として何かできるならば……と思ったのか、その友人も避難所に行ってみると言ってくれました。個人としては地震の恐ろしさに飲み込まれて心がすくんでしまっていても、看護師として何か人の役に立つならば、という使命感が、塞(ふさ)がっていた気持ちを開かせてくれたのだと思います。
その看護師の友人と岡本駅の近くにある学校に行って、救護所としてけが人が収容されているという理科実験室に入りました。普通の机より広いからか、実験室の机がベッド代わりになっていて、5~6人のけが人や体調の悪いご老人が寝かされていました。一人の老婦人は左足がやけどでただれていました。暖房のない寒い部屋の中で、薄手のパジャマだけを身にまとって、ズボンも濡れていました。震災の精神的なショックも大きい様子でした。看護師の友人が、着替えややけどの手当ての世話をしてくれました。

 

(4)学校避難所での友人看護師の働き②―被災者の声なき声を聴くこと
 このような状態のご老人のいる避難所になった学校に、物資が届いていないかというとそうではなく、その部屋から20メートルほど離れた校舎の廊下には様々な種類の医療品や大人用のおむつなどが山積みされていましたし、体育館の入り口には衣類や下着も豊富に届いており、自由に持って行っていいように並べられてはいました。
 ただ、その老婦人は「寒いのでセーターを着させて欲しい」とも「足が痛くて歩けない」とも「下着を替えたい」とも言えなかったのだと思います。周りの人たちも、その人に気を留めて、その人が何を必要としており、どうしたらいいかを、状況から察して動くだけの余裕も人手もその時にはなかったのかも知れません。看護師の友人が、届いていた物資から必要なものを取り出して、手際よく、やけどの箇所の手当をして包帯を巻き、下着を取り替え体が凍(こご)えないように着替えさせてくれました。やはり、専門的な知識と技能と経験を持っている人が、窮地にある人を助けられるレベルは格段に違うと、その時に思いました。やけどをしていた老婦人の声なき声を察して、その人にとってどうすることが具体的な助けになるのかを的確に判断して、助けることが出来たケースでした。

 

(5)必要なものが必要な人へ届く支援を-被災地の報道と情報の格差
 避難所では物資はあるところには豊富にあっても、本当に必要としている人の所には届いていない歯がゆさを、それ以後も、幾度となく経験しました。阪神淡路大震災から1週間経つと、被災地が都市部ですから幹線道路沿いの小中学校などの避難所には、全国各地からの善意の救援物資が届いています。幹線道路に近ければ報道機関各局の自動車も訪れやすいので立ち寄って、マスコミで報道されれば、一層そこに物資が集まってきます。マスコミ報道で取り上げられやすいそうした場所の限られた一光景から判断して、一週間たった被災地の避難所では、支援物資は十分届いているという報道をします。
しかし、だからといって、必要な人の所に必要なものが届いているかというと、それは全く別の問題です。一番必要としている人の所に着るものや医療品が届いているか、それを使って汚れた衣服の着替えや怪我ややけどの手当ができているかというと、動けない人に必要な物資を届けて世話をする人が居なければ、その物資はあっても活かされず役立っていないことになります。また、今回の能登半島地震と同様に、倒壊家屋が折り重なって、その奥にある半壊した家屋やテントを張って暮らしているような小さな公園などは、気づかれないまま被災者が取り残されていることがあります。そうした所に行きつくと、地震から一週間たっても、避難してきた時と同じ着の身着のままで、靴下も下着も替えることが出来ず、食べるものも底をついているという人たちに出くわしたことが、住吉や岩屋等の地図に名前もないような公園を回っている中でありました。
被害の甚大な場所は、電気もガスも水道もない中で、テレビも見ることができず電話も今のように携帯電話が普及していたわけでもないので、どこにも連絡が通じず、少し歩けば避難所になっている学校があり、そこに衣類や食べ物や応急手当ての医薬品があったとしても、そうした情報が伝わらずに、困難な状態のまま公園で生活している人たちがいました。

 

(6)避難者への物資調達から炊き出し活動へ―世界の格差への気づき
 私自身は先ほども述べたように比較的被害の小さかった神戸市北区に住んでいて、地震から1週間後には近くのコープに品物が並びだしていましたので、勤務の帰り道に学校の避難所や公園の避難者が集まっている所に立ち寄って、必要なものを聞いて、その日持っていればそれを置き、避難所では調達できない品物については、手に入れられれば購入して、できる限り翌日に届けるというような活動を始めていました。
 10日間ほど公園や避難所に物資を配る活動をした後、近所の人や教会の友人と共に炊き出しの活動に重点を置き、料理を手渡すその横で、その時々に必要な物資を配る形にして、次第に長田区や須磨区の学校や公園で、社会奉仕委員の生徒たちにも協力を呼び掛けながら、週に2~3回炊き出しをしていた時期がありました。
 そうした活動をしながら知ったのは、自分の接している現実と報道との大きなずれや、これまでも述べてきた、ある所には豊富に物資があっても必要なところに届いていないという現実、そして、ある人たちは地震によってすべてを失い生活のめどが立たない中で避難所に取り残され、ある人たちはもとの通常に近い生活に早い段階で戻ってゆくという現実です。そうして気づいたのは、こうした現実は世界的なレベルでも同様に、様々な場所で起こっているのではないか、ということでした。

 

(7)格差社会の中で―被災地や貧困地域の現状を知り現場の声を聴く教育
 その後、世界の中の経済格差、富んだ国と貧しい国、都市で暮らす人と農村で暮らす人との格差などを見聴きすると、この震災の避難所や公園での光景を思い出します。今も富んでいる国と貧しい国、発展した都市部と取り残された農村部などの生活の格差、不均衡は解決すべき課題です。世界の中には、有り余るほどの富と食べ物、着る物がある一方で、それが公平に配分されずに、三度の食事にも事欠き、衛生状態の悪い中で病気になる人たちの多い地域が、多くあることを知る機会―知識だけでなくできれば現場に行って直接見聴きする機会―は、学校教育の中にあっていいと思います。また、今回の能登地震のように、いつどこで起きるかもわからない地震などの自然災害が人間にもたらす被害の大きさや、その中でどう助け合って命を守ってゆくかについて、学び考える機会もあっていいと思います。困難にある人々の状況、声なき声を聴いて、その人々に必要なものが届く社会の仕組みを作るためにも、そうしたかすかな声を聴いて動くことの出来る感性を持っている人が、数多く育つことの大切さを感じます。

 

(8)六甲学院の中で-世界の困窮者の「声にならない声」を聴き行動する教育
 皆が実際に支援している所との関連で言えば、ハンセン病患者が未だに発生するインド東北部のインド募金の支援地区や、一月のお年玉募金の一部を送金することになっている東ティモールの姉妹校近隣の農村部も、世界の経済や生活環境の格差の中で、支援が行き届かずに困窮している地域です。今年20名ほどの生徒が行ったカンボジアの農村部は、戦乱の中で農地にも地雷が埋め込まれ荒れ地になった後に、その地雷を除去しつつ、再び農地として開墾して使い始めている貧しい地域があります。共通しているのは、食事を一日三回しっかりと取ることの出来ない貧素な生活や、衛生的なトイレがなく感染症の広がるおそれのある不衛生な中で生活をしている人たちが、数多くいることです。それは、世界の貧しい農村地域だけでなく、紛争下にある人々の生活も、地震で被災した人たちの生活も同様です。
 明日は「生命について考える日」の講演会があります。講演者は在校生のお父様で、若い頃に阪神淡路大震災を経験し、東日本大震災では西宮市の職員として被災地支援に関わりながら、ピアニストとして心の復興にも尽くして来られた方です。お話を伺い、海外でも大きな受賞歴を持つピアノの演奏も、聞く機会を持ちたいと思います。また、2週間後の中学2年生の東北研修では、蔵王でスキー実習をすると共に、明日の講演者の活動場所でもあった南三陸や、気仙沼や東松島を訪れます。いつどこで起きるかわからない自然災害への備えや防災についての理解を深める機会になれば、と願っています。
 六甲学院の生活や行事を通して、避難所の救護所にいたご老人を助けた場合のように、声にならない声を聴いて、苦しむ人が本当に必要にしている何かを届けることが出来る人になってくれたたら良いと思います。個人のレベルでも、世界的なレベルの話としても、そうした役割を担える人になることは、六甲学院の教育の一つの目標です。六甲には、社会奉仕活動や研修旅行を始めとして、そうした声なき声を聴いて動く感受性を養うための場、誰も取り残されることなく必要な人の所に必要な支援が届く社会、紛争や災害や貧困の中で命の危険にさらされずに平和に暮らせる社会の仕組みを考える場は数多くあると思いますので、その機会を活かしてくれれば……と願っています。

二学期 終業式 校長式辞

《2023年12月23日 二学期終業式 校長式辞》

 

“For Others, With Others”を育てる六甲学院の体験教育

-研修旅行後の価値観の変化と生き方への影響について

 

(1)カンボジア研修旅行の振り返りの集いⅠ―教育の大切さについて

 今年度、初めての企画として8月にカンボジア研修旅行がありました。中学3年生から高校2年生までの希望者20数名が参加ました。2学期の始業式では全校生に向けて報告会があり、9月23日・24日の文化祭での生徒のプレゼンテーションや展示も充実していて見応えがありました。先週12月16日の土曜日に、参加者が集まり研修旅行から4カ月ほどたっての振り返りの集いが行われました。現地でお世話になった44期卒業生(1987年卒)の坂野さんが一時帰国をされているので、坂野さんを招いての集いでした。カンボジアの現地で1990年代初めから紛争で荒れた国の復興に尽くされ、今もカンボジア法務省で法律作成に携われている方です。

 生徒はいくつかのグループに分かれて、カンボジアを訪問し帰ってきてから、自分がどのように変わったか、価値観や物事の見方にどういう変化があったか、ということをテーマにした話し合いをしました。多くの生徒が話していたのは、日本の当たり前が決して世界の当たり前ではないこと、当然のことのように過ごしているこの日常は、とても恵まれた環境であるということです。特に日本が教育の面でどんなに恵まれた環境にあるか、カンボジアにとってどれほど教育が大切なことか、ということを実感した生徒が多くいました。カンボジアの貧しい農村地帯を訪れ、車椅子で生涯生活をせざるを得ない同世代の青年や、両親がいない中で奨学金を得て公立学校に通う生徒が、貧しく整わない環境の中でも必死に自分から勉強に励んでいる姿と出会って、自分たちがいかに恵まれた環境にいるか、そのことに感謝しないといけないし、やらされてしているような勉強から、もっと自分のうちからの動機や目標をもった勉強に変えてゆこうという思いになったことを話していました。学びたいことを学べる環境にある自分はもっとこの環境を生かして学び、勉強したくても思うようにできない人たちの環境がより良くなるように、学んで得たことを還元していかなければならないとも、話している生徒がいました。

 

(2)振り返りの集いⅡ―世界への関心から生活の改善・行動変容へ

 また、海外に行って様々なことを見聞きし体験したことで、日本の国だけでなく世界で起こる出来事にも関心を持てるようになったという生徒や、カンボジアで様々な子どもたちと出会ったことで、色々な境遇の人たちがいることを知り、思うように学ぶ環境にない人や障がいを持つ人たちの境遇の背景にまで思いを向けられるようになったという生徒もいました。自分がどんなに小さく無力な存在であるかに気づかされると共に、一人ひとりが小さな存在でも、アンコールワットの壮大な建造物のように、何人もの人たちが集まって協力すれば、大きなことができること、そうして歴史の中で昔の人たちが築き上げつなげてきた伝統や文化を、さらに現代から未来へとつなげることの大切さに気づいたと話す生徒もいました。

 また、日本に帰ってきてから生活の中でシャワーを流し続けて使うのをやめて、水を節約するようになった生徒の話を聞いて、水の貴重さについて旅行中に気づき、それを実際に行動の変化につなげている参加者がいることに心が動かされたと話してくれる生徒もいました。自分が見てきたことから何を感じ、具体的にどう行動を変えてゆけるかについて考えたいということも加えて話していました。これまではインド募金を、周りの人が出すからと当たり前のように出していたけれども、インド募金の持つ意味を考えられるようになり、その意味を実感しながら出すことができるようになってきた、と話してくれた生徒もいました。

 そうした生徒の話を聞いていると、カンボジア研修旅行の参加者にとって、この研修旅行は帰ってきて終わりではなく、今もある意味で続いていて、その影響は今後も将来にわたって続いてゆくのではないか、と思わされました。

 

(3)坂野さんからのメッセージ-影響を与え合う仲間作りの大切さ

 坂野さんからは、自分にとっては高校2年生の時に第一回インド訪問(1985年)に行って、その時に現地の人々の貧しさやハンセン病の方々の苦境に出会ったときのショックが、今のカンボジアでの活動にもつながっていること、六甲時代に互いに進路を決めるうえで大きな影響を与え合った友人の存在があったこと、その後も優れた先輩や友人・知人との出会いがあり、専門としている研究分野や活動内容は違っても、同じ方向性や価値観を共有していると、とても刺激になり励ましになること、そうした信頼できる先輩・友人・知人は色々な分野で意味のあることをしており、その出会いとつながりの輪の中で、自分のしていることの意味を確かめながら今の活動をしていること、などを話してくださいました。皆もそうした出会いやつながりを大切にしてほしいと、生徒に向けてのメッセージを伝えていただきました。

 坂野さんにとって、インド訪問に参加したことが、戦乱後の荒廃したカンボジアに向かう体験の原点になったように、今回、カンボジア研修に行った生徒たちにとっては、進路を方向づける原点となるのではないかと思いますし、お互いに進路や生き方を決めるうえで影響を与え合うようなつながりが、このグループの中で生まれてくるのではないかと、今回の振り返りの集いを参観して思いました。また、普段の学校生活・委員会活動・部活動や体育祭・文化祭・研修旅行などの諸行事の中で、こうした深く掘り下げた話ができるグループ・共同体が生まれることは、目立たないとしても、とても大切な六甲学院のよさでもあると思います。

 

(4)私にとって初めてのインド旅行体験

 私自身の若い頃に、六甲学院のインド訪問やカンボジア研修に近い体験があったかと振り返ると、やはり初めてインド旅行に行った時の体験は大きかったと思います。

 フランシスコ・ザビエルの祝日12月3日の翌日の朝礼講話では、六甲学院の創立記念日がそのザビエルの祝日(命日)に当たることを伝え、今も生きていた頃の容姿を留めているザビエルの遺骸を参拝する機会が、彼の宣教拠点インドのゴアで10年に一度あること、私が六甲に赴任した1984年にゴアの教会で、その貴重な機会に偶然に巡り合ったことを話しました。ただ、六甲学院にとって大切にしたいと思うのは、亡くなった後の姿よりも、ポルトガルのリスボンからゴアに向かう一年余りの過酷な船旅の中で、気力も体力も時間もすべてを懸け費やして、次々に病気で倒れる人々を助け支え続けた姿であり生き方であることを伝えました。

 そのインドへの旅行は個人的なものでしたが、おそらく44期の坂野さんにとっての高校時代のインド訪問や今回のカンボジア研修旅行に行った生徒たちの体験と似たような意味合いが、自分にとってはあったと思います。日本ではまず体験することのない世界の中の貧しさと出会ったことの衝撃が、その後の自分に影響を与え続けています。

 私のインド旅行は冬休みを使っての旅でしたので、日本でクリスマスを迎えてすぐにインドに向かいました。最初にボンベイ、今のムンバイに到着し、その都市に3日間ほど滞在して、宿泊していた修道院のシスターやソーシャルワーカーに、海沿いのスラムを案内していただきました。少し強い風が吹けばつぶれてしまいそうな、また、少し大きな波が来れば飲み込まれ押し流されてしまいそうな掘立小屋の狭い空間に、子どもの多い家族が体を寄せ合うように暮らしている家々が、海岸沿いに密集していました。

 海辺のスラムを案内していただく中で、シスターから“貧しさのために親が育てきれなくなって、幼い子どもが命を落としてしまう、そんな悲しい出来事が昨日もありました”と伝えられてショックを受けました。イエス・キリストの生誕を祝う想いの中で日本から旅立ち、インドに到着してすぐに、インドでは幼い子どもが貧しさのために命を失うことが度々あることを聞いて、そんな不条理な出来事をどう受け止め理解したらいいのか、この出来事に対して、自分には何ができるだろうかと、大変複雑な暗澹とした気持ちになりました。

 

(5)教師続行への一時的迷いとイエズス会学校としての教育の大切さ

 インドに行ったのは六甲に赴任して1年目でした。インド旅行中や帰国してからしばらくは、日本で教師をし続けるよりも世界の貧しい地域で、旅先で出会ったソーシャルワーカーのような仕事をする方が、人々の役に立つ生き方になるのではないかと、思い悩んだ時期がありました。それを思いとどまったのは、今年カンボジア研修に行った生徒たちが抱いた感想と共通しています。教育の大切さを感じたからです。担当教科が国語でしたので、自分が選ぶ教材を通して人に共感する感受性を育てたり、世界へ関心を広げたりすることはできますし、社会奉仕活動を生徒と一緒にすることを通して、生徒が弱い立場の人たちに目を向け関わってゆく心を養うこともできるかもしれない、と思ったからです。自分一人が弱い立場の人たちのいる貧しい地域で働くよりも、自分も日本や世界のそういう地域と関わりつつ、そうした場所や人々のために志(こころざし)を持って何かができる若い人たちを育てることに、より大きな希望を感じたからです。

 世界の理不尽な状況を少しずつでも変えて行くために、教育は一つの希望です。今回カンボジアでお世話になった坂野さんたちを含めて六甲学院の卒業生たちと出会うと、実際に社会から見捨てられがちな弱い立場の人々、貧しくて社会から排除されがちな困難を抱えている人々のために働いている人たちや、そうした人々を生み出す社会の仕組みを法律や経済や行政や科学技術などの様々な手段・方策を用いて変えていこうとしている人たちが、数多くいることが分かります。イエズス会教育の先駆者ともいえる16世紀の教育者ボニファシオ神父の「若者の教育は、世界の変革である」という言葉は、本当だと実感します。自然にそう思えることは、六甲学院にとって誇りでもあり、それが六甲学院の教師であり続けてきた自分の心の支えにもなっています。

 来年度は、2018年以降コロナ禍等で実施できなかったインド訪問旅行を、6年ぶりにすることにしました。対象は今の中学3年生と高校1年生になります。イエズス会学校・六甲学院の教育モットーである“For Others, With Others(他者のために、他者と共に)” へ向かって価値観・生き方を変容させていくために、大きな影響を与える体験ができる機会の一つだと思います。ぜひ多くの生徒たちが、前向きに参加を考えてくれればと願っています。

 

「ザビエルについて-創立記念日にあたって」

《2023年12月4日 朝礼 校長講話》

「ザビエルについて-創立記念日にあたって」

 

(1)六甲学院を守り導く守護聖人「フランシスコ・ザビエル」
 
 日本に初めてキリスト教を伝えたイエズス会司祭フランシスコ・ザビエルが、六甲学院を守り導く「守護聖人」です。彼が帰天した12月3日、昨日がカトリックの暦の中ではザビエルの祝日で、六甲学院の創立記念日でした。ザビエルは日本で2年2ヶ月間滞在して宣教活動をしたあと、中国への宣教をめざしました。日本人に対しては、礼儀正しくて善良で知的好奇心が旺盛で、こういう民族にキリスト教をより広く伝え続けられたらと強く願っていました。しかし日本滞在中、日本人のものの考え方や文化に中国の大きな影響があることがわかって、文化や宗教も中国から伝えられてきたことも知り、中国への布教が成功したら、中国から影響を受けている日本での布教活動ももっと順調にいくのではないかと考えました。そこで、中国への宣教を志したのですが、中国本土に入るために、中国の南の玄関口である広東近くの上川島まで来て、そこで高い熱を出して病気になり、1552年12月3日亡くなります。46歳の若さでした。

 

(2)帰天後の不思議な出来事-姿かたちを留めるザビエルの体
 
 ザビエルのご遺体は上川島の岡の中腹に埋葬した後、2カ月半たってからマラッカ(現在のマレーシアの古都・港湾都市)まで運ぶために墓を掘り起こすと、不思議なことに、その体はたった今息をひき取ったと思われるほど生き生きとしていたといいます。マラッカの教会で葬儀が執り行われて、そこに安置されていたのですが、そこで5カ月たってもザビエルのご遺体はそのままだったので、体をさらにザビエルの宣教の拠点になっていたインドのゴアに移すことにして、亡くなって1年ほど経った時に、ゴアの神学院に安置されました。ゴアでも約5000人が集まる壮大な葬儀が行われたと言います。
 ザビエルのご遺体は、今でも10年に1回、人々が間近に見られる形で教会内に置かれて、限られた期間に巡礼のように多くの人たちが世界中から集まってきます。先回が2014年で、一カ月半程の公開の時期(11月23日~翌年1月4日)に約500万人が世界中からお参りに来たと言います。すでに帰天してから460年以上経っていました。

 

(3)私の若い頃のインドでのザビエルとの対面
 
 私は、個人的に初めてインドに行った1984年にその姿と対面しています。六甲学院に教師として赴任した1年目でクリスマスの後、10日程の旅でした。その期間にたまたま公開されていた姿を、ゴアで見ることができました。
 ボンベイに3日ほど滞在した後でゴアに向かい、そのザビエルのご遺体が公開されているという教会に行って、間近に対面しました。当時亡くなってから430年以上経って、その姿は多少茶黒くなってはいましたが容姿はそのままを留めていて、確かにそれは不思議なことでした。巡礼して尊敬の思いで参拝するべきものではあったのですが、私にとっては自分の心が大きく動かされて、何かその出来事の中に大切なメッセージを感じ取るというようなことは、あまりなかったように思います。この体が、日本にまで宣教に来たのか、という感慨はありましたが、やはり、大切なのは死んでから後のことではなく、生きている間の彼がどう生きたかの方なのではないかと思います。

 

(4)生きていた時のザビエル―全てを懸けて困窮している他者に仕える姿
 
 私がザビエルの伝記の中で最も共感するのは、1541年にヨーロッパのポルトガルのリスボンから、インドのゴアに向かうまでの船旅の中での彼の姿です。
リスボンからゴアへの航海にあたって、召使いや特別室や特別食などのポルトガル王からの“特別なはからい”を断って、ほかの乗船客と一緒に甲板の上で暮らしました。当時はアフリカ大陸を南端まで回ってインドに向かうのですが、航海中は無風状態の灼熱で、普通は7ヶ月程でインドまで到着する船旅は一年と一か月かかりました。食べ物が腐り水か足りなくなって人々が次々に病に倒れる中で、夜も寝ずに病人の看病をしたり汚れたものを洗濯したり、心がふさいでしまった人の話を聞き元気づけたりしていました。優れた学識や大きな志を持ちつつ、身近な現実の中で困っている人々がいれば、躊躇なく今持っている体力や気力や時間の全てを懸けてそこに飛び込み関わる姿を、六甲学院にとってのザビエルの人物像として大事にしたいと思っています。
 助けが必要な人に関わるためには決断や勇気(精神力)が必要ですし、具体的に助けるのには健康な体(体力)も必要です。そうした現場の中に、いつでも躊躇なく飛び込み関われる心身を養い鍛えるための教育活動として、六甲学院では授業の合間の中間体操や放課後の徹底した清掃活動、30キロ近くを走る強歩会、施設への全員参加の奉仕活動、そして世界中で困窮している人々に目を向ける心を養うためにインド募金も行っているのだと思います。
 創立記念日にあたって、その日をザビエルの祝日にしている学校として、ザビエルの生き方、人を助ける姿や思いに心をとめながら、過ごしてくれたらよいと思います。