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校長先生のお話

六甲学院高等学校 81期生卒業式 校長祝辞

《2024年3月2日 六甲学院高等学校 81期生卒業式 校長祝辞》

 

1 81期生卒業式を迎えるにあたって
 81期生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。保護者の皆様、ご子息のご卒業、おめでとうございます。本日の卒業式を迎えるにあたって、81期生の皆さんは6年間の様々な思い出深い出来事や場所を思い浮かべていることと思います。体育祭、文化祭、研修旅行、社会奉仕活動などの学校行事、クラブ活動や委員会活動、友人と休み時間ごとに遊んだ第2グラウンドや、神戸の街を一望しつつ勉強に励んだ学習センター、季節ごとに自然の美しい庭園など、様々な出来事や場所が、永く思い出に残るのではないでしょうか。

 

2 新型コロナ・パンデミックと生徒活動の継承
 81期生にとっては、中高6年間の学生生活のうち、中核となる中学3年生から高校2年生までの3年間がコロナ期と重なりました。学校にとってはこれまで地道に続け積み上げてきた教育活動の多くを控えざるを得ず、生徒にとっては何をするにも様々な制約を受ける期間が3年以上にも渡って続きました。停止したり制限したりしたものには、本来は学校生活の中で楽しく人間関係を作る機会にもなるはずの食事中の会話を禁止して黙食としたり、六甲学院では人間教育の一環として行ってきた清掃活動や中間体操も控えざるを得ない時期がありました。
 感染防止や衛生面での配慮とはいえ、その中には、長い抑制期間を経た後に、生徒が意義あるものとして再開し定着するかどうか、危ぶまれるものがありました。学校にとって有難く頼もしく思ったのは、81期生が中1・中2で体験し身に着けたことを、意味のある良いものとして後輩に受け継ぎたいという、熱い思いがあったことです。訓育や社会奉仕、中間体操などの委員会が担ってきた、清掃・インド募金・中間体操など、コロナ期を超えて今も六甲学院の生徒が担う活動として続いているのは、81期生がそうした活動を六甲の価値のあるよき伝統として受け継いでゆきたいという、強く熱い願いがあったからこそではないかと思います。そして、その集大成と言えるのが、後に述べる、昨年6月の体育祭でした。

 

3 コロナ禍の世界的な共通体験と気づき
 コロナ・ウィルスの世界的な感染の広がりは、世界中が地域も世代も超えて身近な人たちを感染症で失うことへの不安や、自分自身が罹(かか)り苦しむことへの恐怖を、共通体験として味わった出来事でした。実際に、思いがけなく身近な人を失った悲しみや喪失感を経験した人もいるのではないかと思います。その一方で、社会には、自分自身が感染する可能性のある中で、患者を治療するために献身的に働く医療従事者がいました。また、衛生状態を保つために清掃をする人たちや、人々の日常生活に大きな支障をきたさないように、食品や生活物資や衣料品などの物品を運び並べ販売する人々など、感染リスクを承知で働くいわゆる“エッセンシャルワーカー”にも目が向けられて、感謝をする機運も生まれました。苦しい状況の中で、人間のもつ良さが引き出された面があったことも、忘れてはならないと思います。コロナ・パンデミックという、同じ課題を世界が克服しようとする中で見えてきたのは、もともと基礎疾患のある病気がちの人たちや、独居老人や障がいを持っている人たちなど、社会の中で目立たない弱い立場の人たちに配慮し、共に歩んでゆかないと、世界全体が困難な状況を克服できず、よい方向にむかわない、ということであったと思います。

 

4 コロナ禍後にあるべき世界を表現する3つのキーワード
 コロナ後の世界には、様々な背景を持つ弱い立場の人たちと共に歩む社会の実現が、これからの社会にとって誰もが暮らしやすい平和な社会の実現につながる、という貴重な気づきが生まれたように思います。そうした方向性を表現するのに、英語では次の3つのキーワードを組み合わせて使うことがあります。
DIVERSITY(ダイバーシティ 多様性)
INCLUSION(インクルージョン 包含性)
MINORITY (マイノリティ  少数者)
の3語です。コロナ禍前にもそれぞれに使われてきた言葉ではあるのですが、コロナ禍の体験を経てより着目され、組み合わせて使われるようになった言葉であるように思います。
 DIVERSITYダイバーシティとは、「多様性」という意味です。それぞれ一人ひとり違いがあっても受け入れ、違いをお互いに活かしあい、様々な個性があることの豊かさに気づくことにもつながります。
 INCLUSION とは、「包含性(ほうがんせい)」という意味です。違いがあることを認めた上で排除をしないで、仲間として取り入れ共に歩むことです。一致・団結・協力や平和構築にもつながってゆきます。INCLUSIONの反対語はEXCLUSION-「排除」-で、分裂や差別や紛争につながります。
 MINORITY マイノリティとは「少数者」のことです。社会は知らず知らずのうちに、多数派のうちでも力の強い人たちの都合のよいように作られていますので、社会の中の少数者は大抵は省みられることがなく、苦しむ声も聴き届けられることは少なく、時に排除されたり差別されたりして、社会の周辺に追いやられ弱い立場になります。そうした社会のあり方に対抗して、人々が多様性(DIVERSITY)を認め、少数者(MINORITY)を排除せず、仲間として受け入れ(INCLUSION)、共に歩む姿勢を持つことが、今の時代に平和をもたらす道につながるのではないかと思います。

 

5 今の時代に“隔ての壁”を超えて命を尊ぶ「生き方」を示すことの大切さ
 ロシアのウクライナ侵攻から2年が経過しても収まる様子のない戦争や、10月から続くパレスティナ・ガザ地区の無差別な殺戮を伴う紛争だけでなく、世界には、民族や宗教や文化の“違い”を受け入れずに「隔ての壁」を作り、より小さな国や地域に暮らす人々を虐げ、排除しようとする力があちらこちらで働いているように思われます。そうした、人々を分断へと導き、武器を持たない女性や子どもを命の危険にさらし、人の命の尊さを踏みにじるような力に対して、私たちは、違う「生き方」を姿勢として示めしてゆかないと、この世界は平和な方向へとむかわないのではないかと思います。たとえコロナ・パンデミックが収束したとしても、世界には、環境問題を始めとして、協力して取り組まなければ解決の方向にむかわない課題は多く残されています。分断でなく協力して困難な課題と向き合い解決してゆくために、多くの人々が「隔ての壁」を超えてまとまってゆくための心構えとして、先ほど紹介した3つの言葉の通り、多様性を認め、違う立場の人を排除するのではなく受け入れ、少数の弱者の命を大切にしてゆく姿勢は、六甲学院の中で学び卒業してゆく人たちのうちに育ててゆきたい「生き方」です。

 

6 81期生が導いた体育祭の方向性―多様性を認めつつ団結する
 そして実はこの、立場の違う人たちも受け入れつつ一致協力して物事を進めてゆく方向性は、81期生が体育祭を運営する中で実践してくれた道でもあったように思います。
この体育祭には、これからの六甲が伝統を生かしつつ新しい時代を築く萌芽があり、81期卒業生の将来にとっても、卒業生が築いたものを受け継ぐ在校生にとっても、汲み取るべき大切なものがあるように思いますので、最後に体育祭について話します。
 81期が中心で作り上げた体育祭は、参加した生徒皆が楽しめて、見る側にとっても見応えのある充実したものでした。準備期間は必ずしも天候に恵まれず時間的な制約はありましたが、総行進はよく仕上げられていました。総行進だけでなく、個々の競技でも参加者は真剣で、観客の生徒たちもそれぞれの競技をよく応援していたことが印象に残っています。この、それぞれの競技で、白組・紅組がほとんど総出で応援するという光景は、昔からあったわけではなく、騎馬戦の一騎打ち対決以外は、最近のことです。競技で双方の見学者が応援しあい、体育祭全体が盛り上がり、生徒たちが団結してゆく雰囲気は、上級生が作り上げ生徒たちみなが協力してきた大きな成果であると思います。
 総行進は、昼休みを終えて午後1時からという長年の伝統を変えて、最近2年間は午前10時に開始しました。一昨年は体育祭の日程自体が半日だったこと、昨年は午後の暑い最中に1時間近くの行進は、コロナ禍を経て体力的に弱っている中で厳しいという判断もあってのことでした。ただ、心配もありました。体育祭の目玉である総行進を午前中の半ばに行うことで、そのあとの競技は、メインの見せ場が早く終わって、生徒も緊張が解けて気の抜けた感じにならないかという懸念です。80期が中心で運営した一昨年の体育祭は、その後の競技もしっかりと引き締まって終えられました。そして、昼食後にも競技があった昨年は、80期を受け継いだ81期の指導のもとに、ゆるむことなく見応えのある競技が続いていました。
 総行進が終わった後の競技も、午前・午後とも引き締まっており、真剣にしていたことは、体育祭役員の体育祭全体への意気込みが、生徒皆に浸透した結果だと思います。また、午後最初のプログラムである応援合戦も完成度が高いものでした。昨年のような応援合戦が今後も続けば、観客の人たちにとっては、六甲の体育祭の中で楽しみな目玉の一つになり得るのではないかと思います。
 私たちは伝統というと、昔から続いている良いものをそのまま守ってゆくことと思いがちですが、むしろ時代の流れの中で、これまでの良さを生かしつつ工夫・改良を加え、新しい命を吹き込むことで初めて、伝統はそれぞれの時代に生きた意味のあるものとして、活性化し続いてゆくものです。見ごたえのある競技を真剣に行い、観客として楽しみつつ、生徒が熱心に行う応援、パフォーマンスとして練習の成果が伝わってくる見事な応援合戦、健康上の理由も含めて炎天下で1時間近い行進を上半身裸ではできない生徒がいる中で、そうした生徒を従来のように行進参加から排除するのではなく、生徒それぞれの意思を尊重しつつ全体として統一感を感じさせるような総行進を完成させることなど、今後も生徒みなが楽しさややりがいを感じながら、全体として一つにまとまれるような行事を、81期生は後輩を指導する中で、作ってくれたと思います。これまで受け継いできたことの良さを大切にしつつ、時のしるしを見極め、生徒たち自身の手で新しい団結力や統一感を表現する創造的な営みを推し進め、伝統を刷新し活性化してゆく過程を見せてくれていたように思います。

 

7 体育祭テーマと「自由の女神像」の掲げる「燎」(かがりび・トーチ)
 -自由と平等の新世界をめざす人々の希望の光となること
体育祭テーマと総行進で作り上げる絵模様とに見事な統一感があったことも、昨年の体育祭の特徴でした。体育祭の初めや総行進の放送ナレーションの中では、メインテーマの「燎―かがりび」と共に、サブテーマの一つとして、「DIVERSITY ダイバーシティ」という言葉が何度か使われていました。先ほども述べた3つのキーワードの一つです。基本的な意味は、色々な種類や性質があること、多様であることを言います。
 人間で言えば、肌の色・人種の違いや、考え方・価値観の違いや、文化的背景や宗教の違い、生まれた時からの男女間の性の違いや自分をどう捉えているかの違い、なども人によって多様です。人種・民族・宗教の違いだけでなく、健康面・身体面の特徴も、一人ひとり、生まれた時からのものもあれば生まれた後の育ち方や、後天的な病気や怪我などの要因による特徴があり、それぞれ個々に背景があり違いがあります。人それぞれに多様であることを知って、その違いを受け入れて一緒にやっていこう、という方向性を、81期の体育祭はメッセージの一つとして込めていました。
 また、総行進ではアメリカ合衆国のニューヨークにある「自由の女神」の図柄が作られてられていました。(「自由の女神」の正式名称は「世界を照らす自由」と言い、アメリカ合衆国独立100周年を記念して1886年にフランスから寄贈されたものです。)おそらくコロナ期を経て4年ぶりにニューヨーク研修に行った生徒たちの思い入れもあって、実現した図柄なのではなかったかと思います。体育祭のアナウンスでは、その説明の中で「ダイバーシティ」と「人間の自由と平等」について語られていました。ヨーロッパからの移民が、アメリカを新天地として選んで、過酷な航海の末、ニューヨークの港にたどり着く中で、最初に眺めた巨大な像が「自由の女神」でした。ヨーロッパでは、貧しい生活に苦しみ根強い差別と偏見に虐げられた多くの人々が、自由で平等な新世界を夢見てアメリカ合衆国に移民として渡ってきました。その人たちを最初に愛情深く迎え入れたのが、ニューヨークの自由の女神像でした。体育祭のアナウンスにあったように、自由の女神像が掲げる「燎」(かがりび・トーチ)は、船で大西洋を渡ってきた移民を、自由と平等を理想とする国アメリカに迎え入れる灯台のような役割を担っていたともいえます。旧大陸でつらく苦しい思いをしてきた移民たちを愛情深く迎え入れ、新天地での生活への希望を与える、「かがりび」を高く掲げた自由の女神像を、総行進の図柄の一つとして選んだことには、大切な意味合いが込められているように思います。
 体育祭で、81期生自らがテーマとして掲げた「燎―かがりび」のように、六甲を旅立つ卒業生一人ひとりが、周囲を明るく照らし、様々な人たちの多様性を尊重しつつ、自由と平等のもとに生きてゆけるような社会の実現に向けて、その方向性を指し示す希望の光になってくれたらと願っています。