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校長先生のお話

三学期始業式 校長式辞

《2024年1月9日 三学期始業式 校長式辞》

 

声なき声を聴く―震災・紛争・格差社会で苦しむ人々に耳を傾け行動する人へ

(1) パレスチナ・ガザ地区と能登半島地震―救援の手が届かない事態
 三学期が始まりました。皆さんはどのような冬休みを過ごしたでしょうか?
この冬休み中も、パレスチナのガザ地区では、クリスマスも新年も停止することなく攻撃が続きました。日本では元旦に、石川県能登地方を震源とする最大震度7の地震が起き、発生から一週間が過ぎた昨日までの死者は168人に及び、まだ全容がつかめていません。心を騒がせ心配や不安な気持ちで過ごした新年だったのではないかと思います。
 ガザ地区の紛争による死者は戦闘から3ヵ月経って22,000人を超え、そのうちの7割以上が子どもや女性たちだとのことです。避難生活を送る人々は住民の約85%の約190万人で、避難民のキャンプや病院でも空爆や攻撃が発生しているそうです。こうした紛争や飢餓の地域に入って救援活動をする団体として、世界的に知られているカトリック系の「カリタス」やプロテスタント系の「YMCA」のスタッフたちが、爆撃にあって命を落としているという現実もあります。人道的な配慮の全く見られない無差別な攻撃が続いている中で、食料や飲料水や衣服や医薬品などの支援が必要な人々のところに、ますます援助の手が届かなくなっている状況で、多くの人たちが怪我や感染症に苦しみ、命を落としています。恐らく、報道でも伝えきれていない深刻な状況が今も続いているのではないかと思います。
 能登地方一帯の地震と津波の被災地も、電気や水道が通じず道路も寸断され、崖崩れや倒壊家屋のために、人がいるとわかっていても、救助の手の届かない家屋があります。救援物資を届けようとしても、その地域まで入ることができずに孤立している村落が、数多くあります。一週間以上が過ぎて、被災地に必要な救援物資が集まってきてはいても、本当に必要な人たちの所に届くための手立てが、まだ整っていないのが現状です。
人間の手による紛争と自然による災害の違いはあっても、苦しく困窮している状況の中で、助けを求める声を挙げようにも挙げられない人たちや、声を挙げても救援に対応する人たちには届いていない、あるいは声は届いていても対応する人員や手立てが全く足りていない状況が続いている点では、共通しているように思います。

 

(2)能登半島地震―124時間ぶりに90代女性を救出のニュース
 そうした中で、1月6日(土)には、石川県珠洲(すず)市で、地震の発生から約124時間ぶりに90歳代の女性が救出されたという嬉しいニュースもありました。2階建て家屋の1階が倒壊して下敷きになり、ベッドの上で両足が挟まれていたところ、福岡県警の救助隊が慎重にがれきを取り除いて、助け出したそうです。救助隊は避難所での聞き込みによる安否確認の中で、家に取り残されている可能性が高いと判断して、現場まで行って生存者を助けることのできたケースでした。地域の人と人とのつながりの中で、あの家のおばあさんが避難所には来ていないので家に残されているのではないかという近所の方からの情報と、生存率が格段に低くなる地震発生から72時間を過ぎても丁寧な聞き取りをしつつ、生存者の救助を諦めなかった福岡県警の救助隊の意思があって助け出された命でした。福岡県警にそういう働きができたのは、恐らく2016年に起きた隣県の熊本地震での救援活動の経験が、生かされたからではないかと思います。

 

(3)阪神淡路大震災の経験―学校避難所での友人看護師の働き①
 私は、こうした正月からの能登半島地震の報道を見聞きする中で、29年前に起こった阪神淡路大震災での経験を思い出していました。震災から間もない頃の避難所での個人的な体験です。
 当時、私たち夫婦の友人で看護師をしていた方が、岡本に住んでいました。地震から3日程経ってから電話がつながり、その友人から連絡があって、次に大揺れが来るのが怖くて外に出ることが出来ないという話でした。最初の本震後も震度4から5の余震は度々起こっていたので、心細かったのだろうと思います。その週の日曜日、地震から5日経った頃に他の友人たちと、不安な中で一人暮らしをしているその友人を見舞いに、岡本のお宅まで行きました。私自身は比較的被害の少なかった神戸市北区に住んでいて、被害の大きかった灘区のこの学校に毎日自動車で通っていましたので、近所の人たちが作ってくれたおにぎりやおかず、持ち寄ってくれた衣類や毛布などの物資を、積めるだけ自動車に積んで、通勤の行き帰りに避難所を回って、配ることを始めていました。
 その日も仲間と一緒に、近くにある小学校の避難所に行くことにしていましたので、看護師の友人も誘ってみました。看護師として何かできるならば……と思ったのか、その友人も避難所に行ってみると言ってくれました。個人としては地震の恐ろしさに飲み込まれて心がすくんでしまっていても、看護師として何か人の役に立つならば、という使命感が、塞(ふさ)がっていた気持ちを開かせてくれたのだと思います。
その看護師の友人と岡本駅の近くにある学校に行って、救護所としてけが人が収容されているという理科実験室に入りました。普通の机より広いからか、実験室の机がベッド代わりになっていて、5~6人のけが人や体調の悪いご老人が寝かされていました。一人の老婦人は左足がやけどでただれていました。暖房のない寒い部屋の中で、薄手のパジャマだけを身にまとって、ズボンも濡れていました。震災の精神的なショックも大きい様子でした。看護師の友人が、着替えややけどの手当ての世話をしてくれました。

 

(4)学校避難所での友人看護師の働き②―被災者の声なき声を聴くこと
 このような状態のご老人のいる避難所になった学校に、物資が届いていないかというとそうではなく、その部屋から20メートルほど離れた校舎の廊下には様々な種類の医療品や大人用のおむつなどが山積みされていましたし、体育館の入り口には衣類や下着も豊富に届いており、自由に持って行っていいように並べられてはいました。
 ただ、その老婦人は「寒いのでセーターを着させて欲しい」とも「足が痛くて歩けない」とも「下着を替えたい」とも言えなかったのだと思います。周りの人たちも、その人に気を留めて、その人が何を必要としており、どうしたらいいかを、状況から察して動くだけの余裕も人手もその時にはなかったのかも知れません。看護師の友人が、届いていた物資から必要なものを取り出して、手際よく、やけどの箇所の手当をして包帯を巻き、下着を取り替え体が凍(こご)えないように着替えさせてくれました。やはり、専門的な知識と技能と経験を持っている人が、窮地にある人を助けられるレベルは格段に違うと、その時に思いました。やけどをしていた老婦人の声なき声を察して、その人にとってどうすることが具体的な助けになるのかを的確に判断して、助けることが出来たケースでした。

 

(5)必要なものが必要な人へ届く支援を-被災地の報道と情報の格差
 避難所では物資はあるところには豊富にあっても、本当に必要としている人の所には届いていない歯がゆさを、それ以後も、幾度となく経験しました。阪神淡路大震災から1週間経つと、被災地が都市部ですから幹線道路沿いの小中学校などの避難所には、全国各地からの善意の救援物資が届いています。幹線道路に近ければ報道機関各局の自動車も訪れやすいので立ち寄って、マスコミで報道されれば、一層そこに物資が集まってきます。マスコミ報道で取り上げられやすいそうした場所の限られた一光景から判断して、一週間たった被災地の避難所では、支援物資は十分届いているという報道をします。
しかし、だからといって、必要な人の所に必要なものが届いているかというと、それは全く別の問題です。一番必要としている人の所に着るものや医療品が届いているか、それを使って汚れた衣服の着替えや怪我ややけどの手当ができているかというと、動けない人に必要な物資を届けて世話をする人が居なければ、その物資はあっても活かされず役立っていないことになります。また、今回の能登半島地震と同様に、倒壊家屋が折り重なって、その奥にある半壊した家屋やテントを張って暮らしているような小さな公園などは、気づかれないまま被災者が取り残されていることがあります。そうした所に行きつくと、地震から一週間たっても、避難してきた時と同じ着の身着のままで、靴下も下着も替えることが出来ず、食べるものも底をついているという人たちに出くわしたことが、住吉や岩屋等の地図に名前もないような公園を回っている中でありました。
被害の甚大な場所は、電気もガスも水道もない中で、テレビも見ることができず電話も今のように携帯電話が普及していたわけでもないので、どこにも連絡が通じず、少し歩けば避難所になっている学校があり、そこに衣類や食べ物や応急手当ての医薬品があったとしても、そうした情報が伝わらずに、困難な状態のまま公園で生活している人たちがいました。

 

(6)避難者への物資調達から炊き出し活動へ―世界の格差への気づき
 私自身は先ほども述べたように比較的被害の小さかった神戸市北区に住んでいて、地震から1週間後には近くのコープに品物が並びだしていましたので、勤務の帰り道に学校の避難所や公園の避難者が集まっている所に立ち寄って、必要なものを聞いて、その日持っていればそれを置き、避難所では調達できない品物については、手に入れられれば購入して、できる限り翌日に届けるというような活動を始めていました。
 10日間ほど公園や避難所に物資を配る活動をした後、近所の人や教会の友人と共に炊き出しの活動に重点を置き、料理を手渡すその横で、その時々に必要な物資を配る形にして、次第に長田区や須磨区の学校や公園で、社会奉仕委員の生徒たちにも協力を呼び掛けながら、週に2~3回炊き出しをしていた時期がありました。
 そうした活動をしながら知ったのは、自分の接している現実と報道との大きなずれや、これまでも述べてきた、ある所には豊富に物資があっても必要なところに届いていないという現実、そして、ある人たちは地震によってすべてを失い生活のめどが立たない中で避難所に取り残され、ある人たちはもとの通常に近い生活に早い段階で戻ってゆくという現実です。そうして気づいたのは、こうした現実は世界的なレベルでも同様に、様々な場所で起こっているのではないか、ということでした。

 

(7)格差社会の中で―被災地や貧困地域の現状を知り現場の声を聴く教育
 その後、世界の中の経済格差、富んだ国と貧しい国、都市で暮らす人と農村で暮らす人との格差などを見聴きすると、この震災の避難所や公園での光景を思い出します。今も富んでいる国と貧しい国、発展した都市部と取り残された農村部などの生活の格差、不均衡は解決すべき課題です。世界の中には、有り余るほどの富と食べ物、着る物がある一方で、それが公平に配分されずに、三度の食事にも事欠き、衛生状態の悪い中で病気になる人たちの多い地域が、多くあることを知る機会―知識だけでなくできれば現場に行って直接見聴きする機会―は、学校教育の中にあっていいと思います。また、今回の能登地震のように、いつどこで起きるかもわからない地震などの自然災害が人間にもたらす被害の大きさや、その中でどう助け合って命を守ってゆくかについて、学び考える機会もあっていいと思います。困難にある人々の状況、声なき声を聴いて、その人々に必要なものが届く社会の仕組みを作るためにも、そうしたかすかな声を聴いて動くことの出来る感性を持っている人が、数多く育つことの大切さを感じます。

 

(8)六甲学院の中で-世界の困窮者の「声にならない声」を聴き行動する教育
 皆が実際に支援している所との関連で言えば、ハンセン病患者が未だに発生するインド東北部のインド募金の支援地区や、一月のお年玉募金の一部を送金することになっている東ティモールの姉妹校近隣の農村部も、世界の経済や生活環境の格差の中で、支援が行き届かずに困窮している地域です。今年20名ほどの生徒が行ったカンボジアの農村部は、戦乱の中で農地にも地雷が埋め込まれ荒れ地になった後に、その地雷を除去しつつ、再び農地として開墾して使い始めている貧しい地域があります。共通しているのは、食事を一日三回しっかりと取ることの出来ない貧素な生活や、衛生的なトイレがなく感染症の広がるおそれのある不衛生な中で生活をしている人たちが、数多くいることです。それは、世界の貧しい農村地域だけでなく、紛争下にある人々の生活も、地震で被災した人たちの生活も同様です。
 明日は「生命について考える日」の講演会があります。講演者は在校生のお父様で、若い頃に阪神淡路大震災を経験し、東日本大震災では西宮市の職員として被災地支援に関わりながら、ピアニストとして心の復興にも尽くして来られた方です。お話を伺い、海外でも大きな受賞歴を持つピアノの演奏も、聞く機会を持ちたいと思います。また、2週間後の中学2年生の東北研修では、蔵王でスキー実習をすると共に、明日の講演者の活動場所でもあった南三陸や、気仙沼や東松島を訪れます。いつどこで起きるかわからない自然災害への備えや防災についての理解を深める機会になれば、と願っています。
 六甲学院の生活や行事を通して、避難所の救護所にいたご老人を助けた場合のように、声にならない声を聴いて、苦しむ人が本当に必要にしている何かを届けることが出来る人になってくれたたら良いと思います。個人のレベルでも、世界的なレベルの話としても、そうした役割を担える人になることは、六甲学院の教育の一つの目標です。六甲には、社会奉仕活動や研修旅行を始めとして、そうした声なき声を聴いて動く感受性を養うための場、誰も取り残されることなく必要な人の所に必要な支援が届く社会、紛争や災害や貧困の中で命の危険にさらされずに平和に暮らせる社会の仕組みを考える場は数多くあると思いますので、その機会を活かしてくれれば……と願っています。