在校生・保護者の方へ

校長先生のお話

上智大学 曄道学長 82期生高校卒業式 祝辞

《2025年3月1日 六甲学院高等学校 82期生卒業式 上智大学 曄道学長 祝辞》
 

 皆さん、ご卒業誠におめでとうございます。また、ご父母、ご関係の皆さまにも心よりお祝い申し上げます。節目の時を迎えられ、ご本人もご家族も、そして皆さんを見守り続けるご関係の方々も、それぞれの感慨をお持ちのことと思います。
私はご紹介を頂きましたように、六甲学院と同じくカトリック・イエズス会を母体とする東京の上智大学で学長を拝命しております。同じ法人下であることもあり、本日このような機会を頂戴いたしました。私にとっても、皆さんは仲間であり、ファミリーであります。新たな門出を迎えられる皆さんに一言お祝いを述べさせて頂きます。
 

 さて、社会は黎明期にあります。技術革新、国際関係の複雑化、新たな価値の出現など、私たちが直面している社会変革の進行は、これまでの延長ではない人間社会の在りようを描こうとしています。私たちの社会は重要な岐路にあると言えるでしょう。「岐路にある」と表現した理由は、おそらく人間社会は、今、いくつかの選択肢を持っているであろうからです。今日の革新的なデジタル技術の出現を、産業革命時の蒸気機関の出現のインパクトに準える見方がありますが、技術革新が次から次へと社会の変革を促した当時も、そして今までも、おそらく人間社会は多くの選択肢を持っていたでしょう。様々な無数の選択肢を前にして、私たちは利便性、高効率、大量生産を過度に追い求め、地球環境に対する犠牲を見過ごしました。自らが選択し、何かを追い求め、何かを享受した事実があるのですから、それは私たちの選択の結果であったと言わざるを得ません。
 

 このことは個人についても当てはまります。今みなさんは卒業を経て新たな道を進むその入り口に立っていると言えます。その道は皆さんによって選択されたものです。今後、皆さんの人生は、多層的にいくつものステージによって構成されていきます。これまでの中学、高校への進学によって到達したステージでは、主にある枠組みの中にある体系化された学びの機会が提供されてきました。これからのステージでは、多くの人には大学を指すでしょうが、学びは皆さん自身によって、自由に様々に選択することによって彩られていきます。そしてその彩こそが皆さんの個性になるのです。その選択は、大きさ、重要性、選択肢の数から、いつその選択を行う機会が訪れるかというタイミングに至るまで、今予測できるものではありません。その折々において、「選択の自由度をいかに多く持ち得るか」が、人生をデザインするための支配的な要因、要素となるでしょう。例えば大学での学び、研究は、この選択の自由度を拡げるための大きな力になると言えます。皆さんの人生における数々の選択は、その対となる選択との比較はできません。皆さんが通る道は、実に多くの選択によって形作られますが、無数の選択肢の中から皆さん自身によって選ばれ形成された道筋、すなわち人生は一通りだけです。これが人生の醍醐味であろうと思います。この道筋に納得がいく、誇りを持てるということを、充実した人生と呼ぶのだと思います。
 

 上智大学は六甲学院と同じ学校法人に属しています。その教育精神は、「他者のために、他者とともに」として共有されています。この教育精神は、支えの必要な人たちに、弱い立場にある人たちに向けた私たちのあるべき姿勢を示しています。皆さんがこれから向き合うマルチステージへの選択はハードルの低いものではないでしょう。むしろ果敢にチャレンジするハードルの高さが皆さんを奮い立たせることでしょう。しかし、どのような状況にあろうとも、皆さんの耳を、目を、心を、立場の弱い人にも向けてください。先頭に立つ者こそ、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になるべきと聖書は説いています。様々な選択によって自分自身の目標に近づいていくということが、他者に仕える自分の在りようを高めていくことでもあって欲しいと思います。真のリーダーとは、自分の目標がアップデートされていく中でこの心得を実践しようとする人であろうと思います。真のリーダーとは、まさに自分が困難な時にあってもこの心得を実践しようとする人であろうと思います。
 

 本日祝辞としてお話させて頂いた「選択」の意味は、この社会においてますます重要性を帯びるものと認識しています。無数にある個人の選択、組織の選択、そして社会の選択が、知らぬ間に人間社会の、そして地球の将来を描き出していきます。そしてその社会像と私たち一人ひとりの人生は密接に関係し、どちらかだけが満足のいく結果を得るという結末が訪れることはありません。自分の成功の陰で弱者が放置されることがあってはなりません。地球環境の悪化の中で、一時の利便や利益が尊重されてもなりません。これからの個人の、組織の、社会の日々の「選択」は、責任のある拠り所によってなされていくべきものと思います。そのような自覚の下で、皆さんが人生を大いに謳歌してくださることを祈念致します。高度な専門性を、世界に通じる広い教養を、他者との合意形成を得るコミュニケーション力を、そして私たちの教育精神である「他者のために、他者とともに」に基づく深い人間性を身に付けた皆さんにとって、「責任ある選択」の追求もまた、人生の彩なのであろうと確信し、私からの祝辞とさせて頂きます。
ご卒業誠におめでとうございます。
 

2025年3月1日
上智大学長 曄道佳明

六甲学院高等学校 82期生卒業式 校長式辞

202531 六甲学院高等学校 82期生卒業式 校長式辞》

 

 「感謝」と「共通善」の追求

―「命」と「人の支え」に感謝し、壁を越えて共に平和を築く仲間づくりへ

 

(1) 中高6年間の成長

 82期の皆さんのご卒業、おめでとうございます。保護者の皆様、ご子息のご卒業、本当におめでとうございます。82期の皆は、この6年間をどういう思いで振り返っているでしょうか。少年期から青年期に向かうこの6年間の心身の成長には、著しいものがあります。例えば、入学して程なく行われる体育祭総行進では、先輩の指導についてゆくのに必死で、目の前の生徒の後を追って歩くのに精一杯だった中学1年生が、高校3年生になると立派に全校生を指揮して総行進を創り上げ、後輩の手本として堂々と歩くまでに成長します。

 

(2) 高3生の朝礼スピーチー「支えられて生きている『命』への感謝」

 昨年6月初めの、体育祭を週末に控えた月曜日に、高校3年生のある生徒が、生徒会朝礼で、「感謝」をテーマに4~5分ほどの短い時間、話をしてくれました。命の大切さや生まれて今ここに生きていることへのありがたさについて、語ってくれました。

 「自分は700グラムという超未熟児で生まれた。生まれ落ちてそのままの状態だったら生きてはいられなかった。それが、設備の整った病院で手厚く医療スタッフからの手当・看護のもとに命を保つことができた。そして、今、こうして好きなスポーツが思い切りできるくらい元気に生きている。自分をあきらめずに生んでくれた親への感謝とともに、超未熟児で生まれながらも多くの人たちに支えられて、今生きていることへの感謝の気持ちを忘れずに、恩返しをしてゆきたい」と話してくれました。体育祭をするにあたって、「後輩は先輩へ、先輩は後輩への感謝を忘れないでほしい」とも加えて話をしてくれていました。

 

(3) 体育祭-受け継がれたテーマ「覇」と先輩(78期生)への感謝

 82期は、中2から高1までの3年間、思いがけなくコロナ禍の中で生活することになり、学校生活にも様々な制約がありました。皆にとって中1指導員のいる学年であった78期生は、2020年、3ヶ月にも及ぶ新型コロナ学校閉鎖の影響を受けて、無念な思いの中で体育祭が中止となり、高校生活最後で最大の行事を後輩たちと創り上げることができませんでした。皆にとっては中学2年生の時の出来事でしたが、その時高3であった78期の先輩たちの気持ちを察し、お世話になった先輩たちに向けてできることはないかという思いを、その後も保ち続けていたのだろうと思います。78期が決めていた「覇(はたがしら)」というテーマを82期はそのまま受け継いで、総行進を含めて見事な体育祭を仕上げてくれました。それは82期が6年間のうちで示した行為の中で、最も印象に残ることの一つでした。中1から自分たちの成長を願って日々世話をしてくれた先輩たちに向けて、感謝の気持ちを表し、立派に体育祭を創り上げることで自分たちの成長も表現し、恩返しをしたいという思いの表れだったのだと思います。こうした先輩・後輩の関係は、六甲学院ならではの出来事であるともいえるでしょう。

 

(4) 後輩を励まし褒めねぎらい感謝しつつ、「高み」を目指す姿勢

 総行進をするにあたって、歩きながら図柄を作る上で目印になる、グラウンドに打つ杭(くい)の数は、昨年度は1800個であったと聴いています。それだけのポイント数の多さからして、例年以上に複雑で難度の高い絵模様に、生徒たちは挑戦したのだと思います。六甲で伝統として受け継がれてきた六列交差、六角形の幾何学模様、一昨年野球界の覇者となった阪神タイガースの黄色と黒色を基調にした虎のマーク、古代から昨年のパリオリンピックまで受け継がれてきた聖火、漫画界の覇(はだがしら)であるドラゴンボール、昨年の干支(えと)の空を勢いよく昇る龍、全校生1000人で作るテーマ「覇(はたがしら)」の絵文字など、一つひとつがすばらしく見ごたえのあるものでした。

 仕上がるまでの過程は、必ずしも順調であったというわけではなかったと思います。前々日、前日の練習風景を見ていると、本番に間に合うだろうかとやや不安に思うようなことも、高校3年生の中にはあったのではないでしょうか。より理想に近い形を追究する中で修正・微調整を繰り返しつつ、なかなか思い通りには行かないあせりやいらだちを感じていた上級生もいたかも知れません。練習光景を見ながら私が感心したのは、上級生の下級生たちへの声掛けの中に、感謝や励まし・ねぎらいの言葉が終始中心であったことです。あせりやいらだちは、容易に怒りの感情へと移ってしまい兼ねないと思うのですが、「ありがとう」「よくなった」「おつかれ」「よく頑張っている」と、下級生を終始、よく励まし褒(ほ)めていました。褒めつつ励ましつつ、的確に注意やアドバイスをその中に込めていました。そうして、励ましねぎらい、感謝の言葉を伝え続けていたことが、しんどい中でもう一歩下級生を頑張らせる力になっていたように思います。高校3年生たちの、難易度が高いからと諦めたり妥協したりせずに、粘り強く、その高度で困難なものを、より完成度の高いパフォーマンスへと創り上げていこうとする姿勢にも感心しました。

 上級生たちのそうした姿勢のうちに、6年間の身体面だけでなく精神的な面での著しい成長を感じますし、そうした経験を通して、六甲学院の卒業生として、また「社会に仕えるリーダー」としての在り方を身につけてきたのではないかと思います。

 

(5) 海外研修-現在の国際情勢の中で多様性を体験する意義

 もうひとつ、私が82期の学年行事として印象深かったのは、一昨年の6月に行われたシンガポール・マレーシアへの研修旅行でした。82期は、コロナ禍からなんとか抜け出して、最初にシンガポール・マレーシア研修旅行に皆で行くことのできた学年でした。卒業してこれからより広い世界に向かう中で、この研修旅行の体験が、何らかの形で活かされればと願っています。

 このシンガポール・マレーシアへの研修は、今、世界の中で国家間や民族間の対立・分裂・分断による紛争が起こり、環境問題がより深刻化し経済格差が広がってゆく中で、特別に意味のある体験ができる旅行ではではないかと思います。シンガポールは民族・宗教・文化などの違いを乗り越えて共存の道を探る上で、一つのモデルとなりうる国だと考えています。街歩きをしたりバスで街中を巡ったりする中でも実感することですが、この国には世界の縮図でもあるかのように、中華系・マレー系・アラブ系・インド系等の多民族・多文化が存在し、イスラム教・キリスト教・仏教等の多宗教が国内で共存しています。そして、水や資源の不足が致命的な弱点・課題としてありながらも、経済と外交努力を通して周囲の国々とも共存して発展してきた国です。

 背景が多様な人々の集まりである故に国際語でもある英語を共通言語として使い、国が将来を見据えた明確な目標やヴィジョンを持って、街作りや教育や環境問題などに取り組んできました。シンガポール国立大学の学生たちとの世界課題についてのセッションや、現地で活躍する六甲の卒業生との交流会の中でも、日本とは対照的に、多様性を特長として受け入れて、むしろ積極的に活かそうとする前向きさを、この国に感じた生徒もいたのではないかと思います。

 

(6) 学校交流-垣根を超えて協調・和解する原体験として

 82期の皆が、研修旅行の中で最も表情が明るく楽しんでいたのは、マレーシアのアヤヒタム村での高校生たちとの学校交流だったのではないかと思います。マレーシアはイスラム教文化の影響が強く、交流校もその文化を大切にしている公立学校だったのですが、同世代として国や民族・宗教・文化の垣根を越えて交流ができた、貴重な体験だったのではないでしょうか。若い同世代同士ならば2~3時間の交流の中で、こんなにも親しくなれるのかと思うくらい、和気藹々(わきあいあい)とした雰囲気でした。

 そうした一つ一つの体験が、今後、さらに分裂や分断へと向かいかねない世界の中で、融和や協調や和解へとつながる方向へ物事を進めてゆくための原点のひとつになれば、と願います。そして、何らかの形でそうした働きを担う「社会に仕えるリーダー」として、将来活躍してくれることを期待しています。

 

(7) 「共通善を追求する社会的交友」を築く

 教皇フランシスコは、現在全世界のカトリック教会のリーダーであり、六甲の創立修道会と同じイエズス会の司祭であった方ですが、青年に向けて次のようなメッセージを述べています。「若者の皆さんには、内輪のグループを超え出て、『「共通善を追求する社会的交友」を築いていただきたいと思います』」(『キリストは生きている』169)。さらに教皇は、反目や敵意によって家庭が崩壊し、国が滅び世界が戦争によって壊されつつある危機を指摘しつつ、次のように語ります。「すべての人の幸福を思って『共通善を追求する社会的交友』を築くならば、共通の目的に向けてともに闘うために、互いの相違を問題にしないというすばらしい体験を手にすることができるでしょう」。

 ここで言う共通善とは、英語でいえば“common good”で「個人の価値観や思想の違い、国家や民族間の対立を超えて、皆が人として幸福に暮らすことができる「だれにとっても(common)よいもの(good)」=「普遍的な善」を指します。「皆が幸福に暮らせる誰にとってもよいもの」ですから、「共通善」を「平和」と置き換えるとわかりやすいかもしれません。「共通善を追求する社会的交友を築く」とは「違いの壁を越えて共に社会の平和を追求する仲間を作る」ことと言ってもよいように思います。

 実は「共通善を追求する社会的交友」は、六甲生が六甲学院の在学6年間で、委員会活動・社会奉仕活動やクラブ活動をする中でも、クラス・学年の運営や、体育祭・文化祭・研修旅行などの学校行事・学年行事を担う中でも、築いてきた経験のあるものだと思います。少しでも皆に喜んでもらおう、その場をより良くしてゆこうと、意見や価値観の違いがあっても話し合って仲間同士が協力してきた経験は、それに当たります。また、82期生は身近な学校の仲間を超えて、シンガポール・マレーシアやカンボジア、ニューヨークやガーナに行って、「互いの相違を超えて共通の目的に向けてともに闘う友人」となりうる人たちと、すでに海外でも出会っているかもしれません。今後も、国内・海外を問わず友人を作り、それがこれから多くの人々の幸福をめざす社会的交友になることはありうると思いますし、違いの壁を越えて平和を築く仲間作りをめざしてほしいと思います。

 この世界に命を与えられて今生きていること、多くの人たちに支えられて今があることに感謝しつつ、困難な状況にあったり失望したりしている人たちに、生きる勇気や希望を与える人となりますように、そして様々な違いや壁を超えて多くの人々が幸せに暮らすために、仲間と共にこの世界をより良くし平和をもたら

三学期始業式 校長講話

《2025年1月8日 始業式 校長講話》

 

For Others, With Others ―「共感」から「希望」をもたらす人へ

 

(1)「希望」を取り戻す一年に―カトリック教会の「聖年」にあたって

 年が明けて2025年が始まりました。カトリック教会は25年に一度「聖年(聖なる年)」を迎えます。2025年は、この聖年に当たります。聖年の中心テーマは『希望』です。教皇フランシスコは次のように述べています。

 「すべての人は希望を抱きます。明日は何が起こるか分からないとはいえ、希望はよいものへの願望と期待として、一人ひとりの心の中に宿っています。けれども将来が予測できないことから、相反する思いを抱くこともあります。信頼から恐れへ、平穏から落胆へ、確信から疑いへ―。わたしたちはしばしば、失望した人と出会います。自分に幸福をもたらしうるものなど何もないかのように、懐疑的に、悲観的に将来を見る人たちです。聖年が、全ての人にとって、希望を取り戻す機会となりますように。」

 この教皇フランシスコの言葉にある通り、より良い方向へむかう願望や期待を込めて希望を抱くのが、私たちの自然な姿なのだと思います。しかし、将来への不安や恐れから悲観的・懐疑的になり、希望を失い落胆している人と出会うことがあります。また、将来が幸福になることを信じて、希望を抱き続けることが難しい時代でもあるのかもしれません。教皇フランシスコが祈るように、すべての人にとって希望を取り戻す機会が与えられる1年になれば、と願います。

 

(2)日本と世界の「現実」-大災害と戦争に苦しみ犠牲になる人々

 具体的に、日本の現実を見てみると、昨年の元旦に起きた能登半島沖の地震から1年が経ち、阪神淡路大震災から30年を向かえようとしています。能登半島に暮らす住民の中には、大きな地震とその後の土砂崩れや津波によって大切な人を失い、被災者の多くは生活再建のめどが立たず、さらに9月下旬には追い打ちをかけるような豪雨災害によって、立ち直る気力すら失われている人々がいます。

 世界の現実を見てみると、ロシア軍のウクライナ侵攻による戦争も、イスラエル軍のパレスチナ地域のガザで暮らしている住民を攻撃する紛争も、停戦・終戦の糸口が見いだせないまま、現在も続いています。ウクライナにもパレスチナにも大切な人を失い、子どもや女性を含めてこれまで普通に日常を暮らしていた人々が武力による攻撃に常時怯(おび)えて生活しています。食料や安全な水や医療が足りない中で、怪我や感染症に苦しみ、戦争の終結を望みつつ実現しない状況の中で、生きる気力さえ失われている人々がいます。

 

(3) “Others”に希望をもたらすために―他人事を自分事とすること-

 そうした日本の災害地域や世界の紛争地域だけでなく、私たちが暮らす地域の中にも、もしかしたらクラスの中にも、周囲から気づかれなかったり理解されない中で、様々な悩みや苦しみを抱えたまま、希望が見出せない人がいるかもしれません。

 イエズス会学校として六甲教育が “Men for Others, With Others” を目指しており、その「Others」 とは、特に顧みられることの少ない、困難な状況の中で苦しむ人たちであるとすれば、こうした人たちのことをより深く知り、その人たちのために何ができるか、どうしたらこうした人々に生きる希望をもたらすことができるのか、と考え行動に移すことは、私たちの課題だと思います。その一方で、日本のことも世界のことも、周囲にいる人たちのことでさえ、今の自分の日常生活からは遠い出来事のように思えて、自然には関心を向けることのできない、という場合も私たちには多いのではないかと思います。他人事を自分事として捉え返すこと、少なくともより身近な出来事として感じ取れるようにすることは、私たちにとって大切なチャレンジではないかと思います。

 

(4)大災害や戦禍に苦しむ人々をより身近に感じること

 阪神間で比較的平穏な生活を送っているように思われる私たちですが、30年前に大震災を経験しました。堅固に見えるマンションも含めて家々が倒壊し、あちらこちらで火災が発生し、6400人を超える人たちが亡くなりました。

 被災地であるこの地域で暮らしていれば、犠牲者の中には、大抵は何人かの知り合いがいます。私の家族にとって最も悲しかった出来事は、当時4歳だった長女の親しい友だちが、倒壊した家の下敷きになって亡くなったことでした。そのご家族は、お父さんお母さんと、小学生の長男と、4月から小学校1年生になるはずだった長女と、私の子の友人だった4歳の次女の、子ども3人が、川の字になって寝ていて、その5人家族のうちお母さんと長男だけが助かり、お父さんと女の子2人は崩れた天井の梁(はり)に胸を圧迫されて命を落としました。

 4月から1年生になるはずだった長女さんは、すでにランドセルを買ってもらっていて、小学生になるのをとても楽しみにしていました。そのお母さんの申し出で、私の長女が2年後に小学生になるときに、そのランドセルを譲り受けて、6年間使わせていただきました。

 当時、神戸、西宮、芦屋など、地震の揺れが激しく倒壊家屋が多い所で暮らしていた地元の人たちにとっては、思い出しては心が揺り動かされたり涙を流したりするような出来事が、何かしらあったのではないかと思います。そうした悲しい現実を共有しながら、水道や電気やガスが止まり、衣食住に事欠く生活の中で、近所同士が自然に助け合って生き延びていたような日々を、多くの人たちが経験していました。大切な人を失った時に、何が残された人たちにとって生きるための励まし・勇気・慰めになるかはわからないのですが、大切な人が生きていた証を何らかの形で共に生きてきた人たちが受け継いでゆくこと、分かち合い共有してゆくことが、悲しみつつも生きようとする望みにつながることはあるかもしれません。

 現在はもちろん阪神淡路大震災の被災地は、日常的には衣食住に心配することのない生活をしています。街に大震災があったような痕跡もほとんどありません。10代の生徒の皆にとっては30年前に今暮らしている地域で起こった大震災の出来事は、その当時の大変さを含めて、遠い昔の別の場所の出来事であるかのように、想像も理解もしにくいでしょう。

 しかし、大切な人を失った人にとっては、悲しみが癒えるまでには長い時間を要しますし、30年経ち一見日常の生活を取り戻したように見える今でも、傷の痛みを抱えながら生きている人は少なくないのではないかと思います。

 また、世界では今も続いている戦争や飢餓にしても、日本で暮らしていれば、80年間戦争のない平穏な状況が続いており、(それは有り難く幸せなことでもあるのですが)実体験として経験することはありません。そういう今を生きる六甲生たちにとって、大災害や戦禍の中で苦しむ人たちのことを、どれだけ身近に感じられるかは、先ほども述べたように一つのチャレンジであると思います。

 

(5) “涙で洗われた瞳でなければ見えない現実”-過酷な境遇への共感

 話の冒頭で「希望の聖年」についての言葉を紹介した教皇フランシスコは、2015年にフィリピンを訪れた折に、『マニラにおける若者への講話』の中で次のようなことを話されました。

 「ある程度困らない生活を送る人たちは、涙を流すとはどんなことかが分かりません。人生には、涙で洗われた瞳でなければ見えない現実があります。一人ひとりが振り返ってみてください。涙が流せていただろうか。空腹の子、路上で麻薬を打つ子、家のない子、捨てられた子、虐待された子、社会から奴隷のように酷使される子、彼らを見て泣いただろうか。それともわたしの頬を伝うのは、さらにほしがって泣く者の身勝手な涙だろうか」。

 この言葉と関連して、教皇は「キリストは生きている」(使徒的勧告・カトリック中央協議会)という文書の中で、さらに次のように述べています。

 「あなたよりもひどい境遇にある若者のために、涙を流すことを覚えて下さい。思いやりや優しさは、涙によっても表現されるのです。……涙が流れるならば、あなたは相手のために、心から、何かをすることができるはずです。」

 この言葉の最後の部分にある通り、他者のために心から何かをする、つまりFor Others, with Others の生き方を私たちが身につけるためには、相手の過酷な境遇を見て涙を流すほどに心を揺り動かされ共感することが、ひとつの出発点になります。日々の生活の中で、周囲の人々に気遣う「思いやりや優しさ」を身につけることも、For Others, With Othersの生き方に向かう大切な道だろうと思います。

 

(6)インド募金-ハンセン病施設の前向きで健気な子どもたちへの共感

 さて、六甲学院の私たちが、実際にFor Others, With Othersの生き方に向かうために、共通して毎月取り組んでいるのは、インド募金です。本日はHRで、インド募金をテーマに話し合いをする予定になっています。インド募金の送金先は、インド東北部ダンバードという町のダミアン社会福祉センターです。ここは、ハンセン病を治療し療養するための総合施設で、特に寮で暮らす子どもたちの教育と生活のために、私たちの募金は使われています。養育施設を伴う学校で生活している子どもたちとの交流の様子は、11月のインド訪問報告会で見た通りです。報告会で見聞きしたことや、今日のHRでの社会奉仕委員の説明や話し合いを通して、インド募金についてより深く理解し、自然に協力したいと思えるような機会になってくれることを期待しています。インド募金も、遠く離れた所で困難を抱えつつ前向きに生きている健気な子どもたちのことを、他人事でなく、どれだけ身近に感じられるか、が私たちの取り組むインド募金の課題の一つになるのだろうと思います。

 

 (7)インド募金の意義-現在と将来を「希望」を持って生きるために

 募金を、その果たす役割も意味も感じられないままするのと、実際に誰かの役に立っていると感じながらするのとでは、私たちにとっての行為の意味合いは大きく変わってくると思います。インド募金は、親がハンセン病という感染症を患っているため親元を離れて暮らしている子どもたちが、学校と寮で友人と過ごす生活を支えるためにしています。また、そうした子どもたちがしっかりとした教育を受けることで将来にむけての準備をし、自分と家族の生活を支える仕事に就くことを支援するためでもあります。それとともに、自分がハンセン病の親を持つために偏見を受けてきたその苦しみを、次の世代の子どもたちが味わうことのないよう、差別されることのない社会づくりに貢献するためでもあります。そして、そうしたよりよい将来に向けて、今を「希望」を持って生きるために、私たちはインド募金をしていると、言ってよいのではないかと思います。

 

(8)お年玉募金-東チモールの貧困村落の子どもたちへの教育支援

 1月のインド募金は来週から始まりますが、「お年玉募金」とも呼ばれていて、いつもよりも多くお小遣いをいただいている分、普段の月よりも多めの募金協力を呼びかけています。多く集まる募金の一部は東チモールに送られています。この、1月のお年玉募金のもう一つの送金先である東チモールという国については、多くの生徒たちは、インドと比べるとよりなじみが薄いかと思います。アジアの最貧国と言われていて、21世紀に入って2002年にインドネシアから独立した新しい国です。21世紀の初頭まで続いた独立戦争で荒廃した国の教育を立て直し、将来を担う人間を育成することが急務になっています。

 六甲学院で教鞭を取られていた浦善孝神父が2012年から東チモールに移り住み、「学びたいすべての子どもたちが、貧富の隔たりなく学べるきちんとした学校」作りを目標に、2013年1月に貧しい村にイエズス会学校「聖イグナチオ学院」を設立しました。今も中心スタッフとして働いています。この1月に13期目の入学生を迎える学校です。コロナ禍の中で3年前には豪雨による洪水の大災害にも見舞われ、がけ崩れで教職員にも犠牲者が出たりしましたが、なんとか危機を乗り越えてきました。洪水は4月初めのことでしたが、当時の社会奉仕員は首都も村落も広範囲で大きな被害となっていることを聞いて、自主的に募金活動をしてくれました。

 聖イグナチオ学院は、まだまだ国全体の教育制度の整わない東チモールで、学校教育のモデルケースになることを目指している学校です。首都のディリからも通える距離にあるので、都市部の、東チモールの中では比較的恵まれた家庭の子どもたちと、学校近隣の貧しい村落の家庭の子どもたちが、一緒に机を並べて学んでいます。使われている机は創立当初から、六甲学院で2012年まで使われてきた木製の手作りのものです。イエズス会の修道士でドイツ人マイスターのブラザー・メルシュという方が六甲学院の創立当初から、六甲生のために作られた机が、厳しい熱帯地域の気候にも耐えて今も役に立っています。1月の募金の一部は、この学校のある貧しい家庭の子どもたちの奨学金-この学校で学び続けるための教育支援金―として主に使われています。

 

(9)将来への「希望」につながる教育

 これまで述べてきたように、インド募金は、インドのハンセン病の家庭の子どもたちの教育費として、また1月のお年玉募金の一部はアジアの最貧国東チモールの子どもたちの教育費として、使われているのですが、それはこうした子どもたちにとって、教育を受けることが将来への「希望」につながるからでもあります。

 インドではハンセン病への差別が厳しいだけでなく、インド政府はすでに国としてハンセン病は克服した病気として支援を打ち切っています。そういう状況の中で、もしも六甲学院まで援助を途絶えさせてしまえば、支援している子どもたちの未来は希望を持てる道が閉ざされると言っていいと思います。十分な教育を受けられないままでは、インド社会で差別の対象となるハンセン病者の子どもたちは、生活を支えるだけの収入を得られる仕事にはつけずに、一生街に出て人から金品を請い求めて暮らす物乞いとならざるを得なくなります。

 東チモールの貧しい村で暮らす子どもたちは、恵まれない食生活の中で十分な栄養も取れずに、ちょっとした疫病で亡くなることも珍しくありません。聖イグナチオ学院では給食で栄養のある食事を提供しつつ、将来家族を養えるような仕事に着けるように、しっかりとした学力が身に着く教育しています。

 教育を受け続ける環境を子どもたちに提供するということが、どれだけインドや東チモールや、今年2回目の訪問旅行を企画しているカンボジアの子どもたちにとって、将来の夢や希望を抱くための支えになっているか、こうした地域とかかわりをもつ六甲学院にいる間に、知ってほしいと思います。そして「教育は希望である」という観点をぜひ理解し意識してもらえれば、と願っています。

 

(10)「現実」を見て共感することを通して「希望」をもたらす人へ

 まずは、教皇フランシスコが「人生には、涙で洗われた瞳でなければ見えない現実があります」と述べるような「現実」を見ることのできる目を持つ人間、そうした「現実」を生きる人々に共感できる人をめざせたら、と思います。そのためには、日々の授業や学校活動が、日本や世界で起こる様々な事象や出来事に共感する機会、時に涙を流すほどに心が揺り動かされる機会になれば、と思います。早速本日行われるインド募金ホームルームも、中学2年生が1月末に被災地を訪れる東北研修も、また3学期に参加希望者を募る予定のカンボジア研修なども、そうした成長の機会になることを願っています。

 遠い国々に限らず私たちの周囲にも、差別、偏見、虐待、貧困に苦しんでいる人はいるかもしれません。また日本では大災害によって、世界では戦争・紛争によって、希望を失いかけ、将来に対して懐疑的に、悲観的にならざるおおえなくなった人々がいます。そうした人たちにとって、希望を取り戻すために、支えや助けができる人になることを、めざすべき人間像の一つにしてくれたら、と願っています。過酷な「現実」を生きる人々に共感し、「希望」をもたらす人へと成長することを、六甲学院で学ぶ私たちの今年の目標のひとつにしたいと思います。

二学期終業式 校長講話

《2024年12月23日 終業式 校長講話》

 

 「理性と良心のもとに命を尊び、世界に平和をもたらす人間へ」

 

(1)クリスマス直前の教会の祈りから

 カトリックの教会では、昨日(12月22日)、クリスマスを迎える直前の日曜日のミサの中で、共同祈願として、次のような祈りを会衆の皆が一緒に唱えました。

「人を傷つけ、命の尊厳と自由を踏みにじる悪の力を退けて下さい。弱者を思いやり、支える人々の輪が力強く広がっていきますように。」

「混迷する世界の中で人が歩むべき道を示して下さい。一人ひとりが神の導きに心を開き、よりよい社会にするために連帯していけますように。」

 六甲学院に通う私たちにも、登下校時や学校内の日常生活の中で、弱者を思いやることができなかったり、人を傷つけてしまったりすることはあると思います。そうした自分に気づき、弱い立場の人たちを傷つける側ではなく、そうした人たちを「支える人々の輪」を力強く広げる人になることをめざしたいと思います。また「混迷する世界」の中で、人として「歩むべき道」を見出し、国や民族や宗教や立場を超えて、「命の尊厳と自由」を大切にする「よりよい社会」を創るために、 「連帯」できる人になることをめざしたいと思います。今日の講話では、この2つの祈りとも繋がる、六甲学院の卒業生の集まりの話から、始めたいと思います。

 

(2)初代校長に叱られた卒業生の体験-理性と良心を持った人間になる

 六甲学院の卒業生から生徒時代の体験談を伺うことは、行事や同窓会や講演会などで度々あります。それが、私にとって楽しみでもあり貴重な機会だとも思っています。これまでも、その中で印象に残る話は、朝礼などで紹介したり学院通信に書いたりもしてきました。しかし、年配の方々にお会いしても、初代武宮校長から直接教えを受けた経験を聴く機会は、不思議と殆どありませんでした。それが、11月半ばに名古屋で、卒業生の組織である伯友会の中部地区の集まりがあった時に、武宮校長から直接個人的に叱られた経験を、話して下さった方がおられました。27期の卒業生で現在70歳代の方です。皆にとってはおじいさんの世代かと思います。

 その卒業生の話は、今から60年前の出来事になります。その方は子ども時代にはかなりやんちゃだったそうで、中学1年生の時に、クラスメイトに対して、相手の気持ちを察せずに行き過ぎた悪戯(いたずら)をして傷つけてしまったことがあったそうです。それが見つかって、武宮先生から真剣に厳しく叱られたとのことです。自分の心ない行動を諭(さと)す中で、校長は自分に「人間と猿との違いは何だと思うか?」と問いかけられたそうです。皆なら、そう問われてどう応えるでしょうか?

 その方は、人間と猿との違いを考えるにはまだ幼くて、何も思いつかず応えられなかったとのことですが、まだ中1のその人に武宮校長は次のように話されました。

 「人間には理性と良心がある。人間は、理性と良心をもとに行動するということだ。それができないのなら、猿と同じだ。お前は決して猿になってはいけない。」

 60年前にそう諭された70歳代の大先輩は、次のように話しました。「武宮校長から叱られたときのその言葉が、その後の自分の一生の行動基準なっています。『自分は今人間として生きているか、理性と良心のもとに行動しているか、猿になっていないか?』と、常に自分に問いかけ心がけながら、行動してきました。粗暴でわきまえのないところのあった自分が、何とか人としての道を踏み外さずに、これまでまっとうに生きて来られたのは、武宮校長から叱られたこの経験があったからです」。

 

(3)人として大切にすべき価値観の核(中心軸)をつくる体験

 六甲という学校は、その人にとっての一生の拠り処となる中心軸を、在校中の経験の中で与えられる機会のある学校だと思います。27期のこの方の話も、そのことを表す、一つの逸話です。よりよい人になりたいという願いや、自分の弱さを見つめる正直さや、相手から真剣に発せられたメッセージを受け入れる素直さがあれば、今の六甲でも同様の経験をすることは、あるはずです。

 今の時代の生徒たちの多くは、ご家族からも小学校の先生からも大事に守られながら育てられてきていると思います。この卒業生が初代校長から受けたような、厳しく叱られる経験は、殆どの人にはなかったのではないでしょうか。生徒によっては、真剣に諭される中で相手の伝えたいメッセージを受け取ることには、慣れていない面もあるかもしれません。また現代は、良いところを褒めて一人ひとりの個性を育てる中で、自己肯定感を育む教育が大切な時代であることも、確かだと思います。ただ、人として大切にすべきことに気づかなかったり、相手の気持ちを察せられずに傷つけたりしてしまう自分に対して、教師や親の言葉の中に、真剣に自分の至らなさを気づかせ、よりよい人間になるためのメッセージが込められているとするならば、それを素直に受け止め、自分の内面にある弱さ・足りなさを見つめ、自分をより良い方向に変えられる人間にはなってほしいと思います。

 27期のこの大先輩のように、そうしたことの積み重ねが、人として大切にすべき価値観の核を作る体験につながることは、六甲生にはあるのだと思います。

(4)理性と良心に拠って命・人権・平和を大切にする世界へ

 さて、中部地区の同窓会では、そこから話題は自分の恩師との思い出話に移るのかと思ったのですが、同窓会の人たちの話題は思わぬ方向にむかいました。

 「理性と良心のもとに行動するのが人間で、そうでなければ、猿であるとすると、今の世界は『猿の惑星』になりつつあるのではないか」というご年配の方の発言から、現在とこれからの世界の在り方についての話題にむかいました。何人かの先輩たちの話の流れは、概ね次のようなものでした。

 “コロナ禍前までは少なくとも、世界の人々が平和を願い、戦争のない世界にしてゆこうとしてきたし、環境の課題に国を超えて協力して取り組もうとしていた。人間の命の尊厳や人権や民主主義を大切な価値観として守っていこうという機運は高まりつつあったように思うし、少なくともよりよい方向にむっているように思っていた。それなのに、そうした動きがここ数年ですっかり後退してしまっている。特にロシアのウクライナ侵攻やイスラエルによるガザの民間人への殺戮などにみられるように、命や人権や平和を大切なものとして守るよりも、世界の政治リーダーたちは、理性や良心を失って自国の利益や繁栄をより優先する価値観へと傾いている。それに伴ってヨーロッパや中東の不安定な情勢に、核戦争への危機さえも感じられる。こうした世界になりつつある中で、これからを生きる若い世代のために、自分たちに残された時間はそう多くはないかもしれないが、何かできることはないだろうか?” そうしたことが卒業生たちの話題になってゆきました。

 中部地区の同窓会に集まったのは19期から66期までの20名ほどで、私よりも年上の20期代から30期代前半の方々が多く集まられていたのですが、それぞれの方々がグローバルな視野の中で世界を眺める見識を持っておられることに、また真剣に今の世界を憂い、これからのためにできることを模索する姿勢に、六甲学院の世代を超えた卒業生たちの共通の特徴を感じましたし、自然に尊敬の念を抱くことのできた同窓会でした。

 

(5)核爆弾の悲惨さを語り継ぎ人類の危機を救う方向へ

 卒業生方々が指摘されるように、今の地球が人間としての理性と良心を失って「猿の惑星」になりつつあるというのは、本当のことのように思います。そのことに地球の危機を感じて、理性と良心のもとに行動を起こしメッセージを発している人たちに目を向け、その人たちのメッセージに耳を傾けることが、今後の世界を考えるうえで極めて大切なことのように思います。平和を願い、戦争のない世界にして行こうとすること、生命や人権や平和を大切な価値観として守っていこうとすること、そうした方向性を持つ動きに共感し協力してゆくことが、大切なのだと思います。

 そうした、これからの世界の方向性を指し示す取り組みの一つとして、今年ノーベル平和賞に選ばれた団体が、日本原水爆被害者団体協議会なのではないかと思います。核兵器がどれだけ悲惨な殺戮をもたらすか、その非人道性を語り継ぎ、核廃絶の必要性を唱えてきた団体です。日本は原子爆弾によって広島で約14万人、長崎で約7万4千人の尊い命が奪われています。68年前に結成された日本被団協の結成宣言には「自らを救うとともに、私たちの体験をとおして人類の危機を救おう」と、その基本精神が記されています。

 12月10日のノルウエー・オスロ市庁舎で行われたノーベル平和賞授賞式では、代表の田中煕巳(てるみ)さんは「核のタブーが壊(こわ)されようとしていることに、限りないくやしさと憤りを覚える」「人類が核兵器で自滅することのないように」「核兵器をなくしていくためにどうしたらいいか、世界中のみなさんと共に話し合い、核廃絶を求めていただきたい」と訴えていました。

 受賞の背景には、国連のグテーレス事務総長が「核戦争のリスクは過去数十年で最高レベル」と語り、核軍縮を専門とする黒澤満大阪大名誉教授が「ここ数年で核兵器が本当に使われ人類が全滅するかもしれないという危機感が生まれた」と指摘している現実があるのだと思います。今回の受賞理由の中では、核兵器について「何百万人もの人々を殺し、気候に壊滅的な影響を及ぼし得る。核戦争は、我々の文明を破壊するかもしれない」と述べられています。ノーベル委員会の委員長は授賞式で日本被団協が「核兵器が2度と使われてはならない理由を身をもって立証してきた」とその功績を紹介しつつ、「記憶が新たな人生への契機をもたらすこともある」として、核兵器が人類にもたらした悲惨さを新たに記憶にとどめ、次世代へとつないでゆくことの大切さを強調しています。

 講話の最初に紹介した祈りにあるように、「人を傷つけ、命の尊厳と自由を踏みにじる」出来事が日常レベルだけでなく国家レベルでも広まりつつある「混迷する世界」の中で、「人が歩むべき道」の一つは、まずは「体験」の記憶を受け継いでゆくことだと思います。様々な立場の違いはあるかもしれませんが、日本被団協の結成宣言に「私たちの体験をとおして人類の危機を救おう」とあるように、唯一の被爆国としての体験を私たちも知ることを通して、核爆弾の悲惨さ・理不尽さと「人類と核兵器とは共存できない」こと、核兵器の使用は人類の自滅に繋がりかねないことを訴え続けることは、これからの世界がより平和的に存続し続けるため、人類の危機を救うために大切で必要なことではないかと思います。

 

(6)苦しみ傷む世界の人々と共に住み、平和と救いをもたらす生き方

 クリスマスの中で祝われる救い主イエスの誕生は、神がこの世界全体をご覧になって、このままではこの世界は救うことができなくなると思われ、具体的な生き方と言葉を通して救いの道を人々に示す人間として、神がご自分の愛する子をこの世界に遣わされたという出来事です。

 イエズス会の創立者、イグナチオ・デ・ロヨラは、同様に神がこの世界をご覧になるようにこの世界を見渡して、アジアの貧困の悲惨さとと魂の救いのない状況に目を向け、そこに生きる人々を救うために、自分の最も信頼するフランシスコ・ザビエルをアジアに遣わし、ザビエルは命がけでアジアの様々な地域を巡り、私たちは神にとって大切な存在であることを伝えるために、日本にまでも宣教に来ました。

 アルペ神父はそのフランシスコ・ザビエルに憧れて、宣教の地として日本に来ることを望み、広島で原爆を体験して、世界に核兵器が人間にもたらす悲惨さと非人間性を伝えた人物です。そのアルペ神父は、被災地で負傷する人の命を救うために尽くし、後にイエズス会教育のモットーである“Men for Others” を提唱した人物でもあります。

 イエス・キリストからイグナチオ、ザビエル、アルペ神父へと受け継がれてきた、この世界をグローバルな視点で見て、この世界をなんとか救えないか、良い方向に変えられないかという思いは、六甲学院の創立にも受け継がれ、卒業生の内にも生きています。先ほども述べたように、この秋に出会った中部地区の同窓会での、卒業生たちの世界への見方や姿勢にも、それは一貫して受け継がれているように思います。

 世界の中の傷み苦しむ姿を見て、そこへと向かいその内に共に宿り住み、その中で、悲惨さの最中に苦しむ人を助け救い、人々のうちに平和をもたらす、この“For Others, With Others”の生き方が、私たちに示された「混迷する世界の中で人が歩むべき道」だと思います。始まりは、この世界に暮らす人々の苦しみ傷みを見て、この世界を救いたいと願い、イエス・キリストをこの世界に生まれさせた、神の思いであり、クリスマスの出来事でした。その“For Others, With Others”の道を、その生き方と言葉を通して生涯をかけて示されたのがイエスです。イエスの誕生から、六甲学院創立後の卒業生へと綿々と引き継がれてきたその願いと行動を、私たちも受け継いでゆければと思います。そして、人として理性と良心のもとに生き、危機的な状況に向かいつつあるこの世界に、平和をもたらすために生き働く人になれますように、祈り願いたいと思います。

二学期始業式 校長講話

《2学期 始業式 校長講話 2024年9月2日》
 
インド訪問と“resilience(しなやかな強靭さ)”を身につける教育

 

(1) 夏休みの経験の振り返りから
 2学期が始まり、今日から早速授業があります。夏休みは皆にとってはどうだったでしょうか?
 校内でのクラブ・文化祭準備の活動や補習、課外活動としては施設への社会奉仕や前島キャンプ、立山キャンプ、クラブの合宿、大阪・神戸へのOB職場訪問や、名古屋等へのフィールドワーク、東京でのガーナからの生徒との交流等、それぞれの学年を対象にして様々な経験をする機会がありました。海外交流の有志企画としては、高校3年生も含めて7名の生徒が、アフリカのガーナに行って現地の高校生たちと交流する貴重な体験をし、学校行事のインド訪問旅行も6年ぶりに行われ、高2・高1の生徒が19名、学校の代表としてインド募金の送金先の施設などを訪問し交流をしました。それぞれ、学期中にはできない心に残る体験をしたことでしょう。自分にとってどんなことが印象に残りどんな意味があったか、どんな気づきや成長があったかを、振り返ってくれたらよいと思います。

 

(2) 6年ぶりのインド訪問での生徒の前向きな参加姿勢
 私自身は、第12回インド訪問旅行に参加したことが、特に印象に残る経験でした。六甲学院着任時から社会奉仕活動に携わっていましたので、第2回、第5回、第7回の3回、インド訪問を経験してきました。14年ぶりで、今回が4回目になります。コロナ禍の2020年と2022年にインド訪問に行くことができなかったため、学校としては2018年以来6年ぶりのインド訪問でしたので、現地の状況を知るためにインド訪問旅行についてゆくことにしました。これまでの訪問では、日本とは環境も大変異なり深刻な現実と直面する中で、生徒が数日体調を崩し病院診療に付き添うケースなども経験してきましたので、そうした役割を担う必要があるかもしれないと考えていました。
 私が感心したことの一つは、今回のインド訪問でも腹痛・発熱の生徒は出たのですが、歓迎会や交流会でのスポーツや激しい動きのある出し物のパフォーマンスなど、主要な交流プログラムをしっかりと準備し、大きくは体調を崩さずに皆が熱心に参加できたことです。インドに来ると健康面での不調は、それぞれ程度の差があってもほとんどの生徒は抱えます。今回も恐らくそうだったと思うのですが、多少しんどいと感じてはいても、準備段階での学習会などを通して、自分たちが学校の代表としてインドに来ている意味を理解しているために、前向きに頑張り抜いた面があったように思います。

 

(3) “resilient mind”を育てる-コロナ禍後のイエズス会教育の方向性
 今年の6月末にインドネシアのジョグジャカルタで、イエズス会教育についての世界レベルの会議がありました。インド訪問の中での生徒の様子を見つつ、その国際会議のテーマになったキーワードを思い出しました。その会議では、コロナ禍を経てこれからのイエズス会教育の中で、生徒が身につけてほしいことの中心に「レジリエンスresilience」(またはレジリエント マインドresilient mind )という言葉が挙げられていました。この言葉自体は、3年前のコロナ禍の校長講話の中で私も紹介しています。今はパリでパラリンピックが行われていますが、3年前に行われた東京パラリンピックで、陸上トラック競技をテレビで観戦しているときに、雨が降りしきる中、障がいを持った選手と同伴して走る伴走者に向けて、悪いコンディションの中でもひるまずに走り続けるひたむきな姿に、解説者が使った言葉でした。しなやかな強靭さ、多少しんどいことがあっても粘り強く頑張り抜ける力、危機の中でひるんだりダメージを受けたりしても、すぐに回復して立ち向かえる精神を指す言葉です。弾力のあるしなやかな枝のように、強い風や外圧で曲げられてもポキッと折れることなく元に戻る枝のイメージです。コロナ禍の中で生徒に身につけてほしい能力・精神力として、講話で紹介したのを覚えています。
 イエズス会教育の世界会議の中でこの“resilience”「しなやかな強靭さ」(“resilient mind” 「しなやかで強靭な心」)を、今の時代の生徒たちが身につけることを、教育目標として掲げたことは、大変的を射ているように思います。世界中でコロナ禍に人との交わりが希薄になり、内にこもってリアルな生の経験がしにくい状況が継続した中で、若い世代を含めて人々の心が脆弱になったことの影響は、今も根強く残っているからです。夏休みに奉仕活動やキャンプや合宿や様々な研修活動などを、多くの生徒たちがリアルな経験としてすることができたことは、そうした観点からもとても大切なことだと言ってよいと思います。

 

(4) インド訪問参加者の姿勢に見られる“レジリエンス”と六甲の教育
 インド訪問は日本とは環境ギャップがある中で、心身ともにかなり激しく揺さぶられる体験をするプログラムですので、教師側も多くを詰め込み過ぎずに生徒が心身を整えて回復させる時間を取る配慮はするのですが、生徒自身も与えられた時間を活用して自分なりに心身を調整し、多少の不調や困難さは感じていても、インド訪問の目標に沿って、歓迎式典や日本文化の披露や交流会ではできる限りのことをやり抜こうとするグループ全体の意志を、様々な場面で感じました。そして、その生徒の姿勢の中に、この「レジリエンス」を見たように思いました。自分たちなりの役割や責任や目標を自覚していることが、それぞれの内にある「レジリエンス」を引き出すことに繋がっているのではないかとも、生徒を見ていて思いました。
 六甲という学校は、日々の掃除や、体育祭の練習や、クラブ活動・委員会活動・社会奉仕活動や、これから始まる文化祭の準備活動も含めて、一つ一つの日常の習慣や行事に取り組む中で、乗り越えるべきしんどさや困難さと出会いつつ、この「レジリエンス」―しなやかで強靭な心―を育てる方向性は、もともと備わっているのかもしれません。そうして鍛えられた心が、インド訪問の場面でも生かされていたように思います。

 

(5) 弱い立場の人たちを受け入れること-振り返りを通してのグループの成長
 インド訪問では、その日その日の経験を、必ず振り返り分かち合う時間を設けます。それをすることが、生徒全体の気づきとなり、一貫したテーマとなり、個人としての成長にもグループ全体としての成長にも繋がります。その出来事の一つを紹介します。
 インド訪問の中で、インドに着いて三日目に、コルカタでマザー・テレサの設立した「子どもの家」を訪問しました。そこでは、障がいを持った子どもたちに対して、どう接してよいかわからず、笑顔で話しかけることも手を差し伸べて握手することもほとんどできずに、傍観者的な態度になってしまったという、全体としての振り返りがありました。
 そうした反省も踏まえて、私たちがインド募金で支援しているダンバードのダミアン社会福祉センターでは、ハンセン病で家族に見捨てられてしまった高齢の方々やハンセン病に罹(かか)って病院で療養されている方々には、「ナマステ」と言いながら積極的に笑顔で握手しにゆく姿勢が見られました。短い期間の中で生徒の大きな成長が確かにありました。ダミアン社会福祉センターの所長アジャイ神父様は、ハンセン病の元患者の方々をそうした姿勢で受け入れてくれた生徒たちに、本当に感激し感謝されていました。
 私たちがインド募金で支援している中心施設、ダミアン社会福祉センター内の学校であるニルマラ学院では、歓迎式典での交流会以外にも、学校の隣にある寄宿舎の寮生たちとの交流を2回行うことができました。両親家族がハンセン病である家庭を含めて、様々な事情で親元を離れて(または帰る家庭がなくて)寄宿舎で生活している生徒たちです。支援している生徒たちとの直接の交流の中で感じたことについては、参加した生徒たちの感想をじかに聞いた方がよいと思いますので、その機会は「報告会」に取っておきたいと思います。

 

(6) インド募金の実り-コロニーでの支援してきた学校の出身者との出会い
 私が、今回のインド訪問の中でこれまで長年インド募金を続けてきたことの一つの実りを感じたのは、訪れたコロニーで出会った22歳の青年から聞いた話です。コロニーというのは、家族がハンセン病に罹って差別を受けたり仕事を失ったりしたために、それまで住んでいたところでは暮らすことができなくなった家族が集まって、助け合いながら生活している集落です。
 出会った22歳の青年は、そのコロニーに住んでいて、子どものころからデブリット・スクールに通っていたとのことです。デブリット・スクールは元々親がハンセン病の子弟を受け入れる養育施設として設立され、ニルマラと共に六甲学院が40年以上支援してきた学校です。小学生・中学生だった頃に、3回ほど六甲の生徒たちが日本から訪問団として来てくれて、その歓迎交流会が楽しかったのを、今でも印象深く覚えているとのことでした。現在は大学で経営学(ビジネス)を学んでいて、MBA(Master of Business Administration経営学修士)を修得することを目指している、と話してくれました。
 インドではハンセン病の家族がいるというだけで、教育面では普通の学校にも通いにくい現状がありましたから、この若者がコロニーからデブリット・スクールに通えて小学校から高校までの基礎的な学力が習得できたのは、六甲学院の生徒募金の支援があったからこそ、ということができます。そうした中で本人の勉強面での努力もあって大学まで進み、大学院で経営学修士を取って仕事に活かす夢まで持つことができています。生徒たちと写真を撮る機会を持てたことを喜んでいましたが、おそらく支援してくれた六甲学院の人たちと再び出会えた喜びや、これまでの支援への感謝の気持ちがあってのことだったのでしょう。教育がなければ、着の身着のままで街に出て人から金品を請い求めて暮らす「物乞い」になる以外に殆ど生活の手立てがない身の上の人々が、こうして教育を受けて夢を持つことができ、社会に貢献すると共に自分の家族を養うことができるようになるのならば、それは人の一生を根本から変える大きなサポートだと思います。

 

(7) インド募金の意義の確認と「しなやかな強靭さ」の修得を目指すこと
 早速明日から二学期最初のインド募金が始まります。インド訪問参加生徒からの報告はしばらく後になりますが、教育を受けられることの意味やそれをサポートすることの大切さなども考えつつ、インド募金に協力して下さい。
 この2学期は、「レジリエンス」―しなやかや強靭さ-を身につけることをテーマの一つとして、一つ一つのことにしっかり取り組んでくれればよいと思います。

一学期終業式 校長講話

《2024年7月19日 終業式 校長講話》

 

 社会変革をめざす3.5%の“さきがけリーダー”になる

 

1 世界が抱える共通課題と社会正義の実現
 六甲学院の創立修道会イエズス会の、今の世界のリーダー(総長)であるソーサ神父は、今年の「世界社会正義の日」のメッセージの中で、現代の様々な不正義・不公正な社会の現実を次のように伝えています。
 2022年以降、40万8000人以上が戦争や武力紛争で命を落としており(世界平和度指数、武力紛争発生地・発生事象データプロジェクト)、2023年だけでも1億1000万人以上が難民・移民として避難を余儀なくされています(国連難民高等弁務官事務所)。毎時、砂漠化が6.4平方キロメートルの肥沃な土地を脅かしており(The World Counts)、約25万トンのプラスティックが世界中の海を汚染しています(科学誌「プロスワン」)。2024年世界人口の半数が選挙に参加しますが、2005年から2021年の間60か国が民主的自由度を低下させており(世界の自由2023年)、2022年7億3600万人の女性がジェンダー暴力の被害を受けています(国連女性機関)。5歳未満の子どものうち、10人に3人が急性栄養失調に苦しんでいます(ユニセフ)。
 そうした世界の現状を指摘しつつ、ソーサ総長は「私たちはさらに何をしなければならないのか?」と問いかけます。

 

2 3.5%の人々が非暴力で動けば社会は変わる
 こうした様々な現実を突きつけられると、世界の課題は多様で深刻で大規模で、解決するのにはあまりにも自分たちは無力なのではないか、私たちがこの世界を変えることなど、とてもできないのではないかと、取り組もうとする前にひるんであきらめてしまいそうになる人も多いのではないかと思います。希望を持ち続ける手掛かりになる何かがないかと思っていたところ、最近手にした本の中に、“色々な社会変革の事例を調べてゆくと、世界の3.5%の人たちが非暴力で本気で立ち上がると社会は大きく変わる”、と述べている書籍がありました(NHK ACADEMIA 5月28日 斎藤幸平氏紹介)。2022年に出版された「市民的抵抗(CIVIL RESISTANCE)」という書物です。「市民的抵抗」という言葉は、もともとはイギリスの植民地であったインドを、非暴力不服従の方法(市民的不服従の非暴力的方法)で独立へと導いたガンジーが生み出した言葉です。エリカ・チェノウェスというハーバード大学教授が、この「市民的抵抗」という言葉を表題にして執筆した著書で、「暴力に寄らずに非暴力で3.5%が本気で動けば社会は変革する」ことを、様々な実例を検証しながら述べています。

 

3 NY在住の卒業生のメッセージ-物事を始める最初の5%のリーダーになれ
 読みながら3.5%とはどのくらいなのか、もうひとつイメージが湧かないと思っていたところ、ちょうどその実例になる集いがありました。今週7月16日の火曜日に学校の多目的1教室であった中高生の有志の集まりです。毎年春休みのニューヨーク研修でお世話になる39期卒業生の滝浦浩先輩(建築家)が一時帰国され、その講話とワークショップが行われました。そこに集まって来た生徒が約30名、教師が5~6名で、偶然なのですが、1000人の学校でいえば、ちょうどこのくらいの人数が、約3.5%でした。家庭学習日のこの日に、自分たちから関心を持ってわざわざ学校まで来て、このワークショップに参加した人たちです。瀧浦さんの話にインスパイアされて、本気でこの学校を、あるいは1000人規模の社会を変えようと思ったら、変えることができる人数がこのくらいなのか、とイメージがより具体的になりました。
 私自身は3時間半講義とワークショップをされた瀧浦氏の話を、30分ほどしか伺えなかったので、全体としての講話の流れを十分把握しているわけではないのですが、ちょうど話を聴いていた時には、物事を始める最初の5%のリーダーになりなさいという話をされていました。新しい分野を開拓したり新しい発想の組織をつくったりするのに、直感的にこれはいいと思ったら、失敗を恐れずに立ち上げる最初の5%のリーダーとして動き出しなさいという話をされていました。安定だけを求めるのであれば、何かの活動をするにも何かを購入するのにも、社会の中で良いものとして認知され評価された後に、それに乗っかるのが普通の人であるけれども、そうではなくて、ある人が新しい何かを立ち上げようとする時に、また新しいものが世に出たりしたときに、その価値をいち早く認めたら繋がり協力する人になることの大切さを、話されていました。そのほうが、仕事として楽しいし、やりがいがあるし、人生が豊かにもなるということです。前提として、日ごろから自分自身が、どういう人たちのために何をしたいか、何を信じどういうことに意味を感じているか、が大事で、そうしたなぜ?・何のために? という、自分なりに大切だと思える動きと繋がるための価値観なり理念なりをしっかりと持っていることが、重要であることも話されていました。様々な課題の多いこの世界の中で、何かしらより良い方向に社会を変えたり、新しい発想で社会を活性化させたりするためには、そうした物事のさきがけとなる3.5%、または5%のリーダーを目指してくれたらよいと思います。

 

4 若者の社会参加を促すデンマークの青年リーダーとの出会い
 今の若者の中で、そうした社会をより良くしていこうとしている3.5%や5%にあたる人たちとは、どのような人たちなのでしょうか? そうした実例になると思える若い人たち最近出会う機会がありました。
 今週7月15日の月曜日に、尼崎の園田でデンマークの若者リーダーを招いて、若い人たちの社会参加について考えるシンポジウムを聴講しました。招待されていたのはデンマークの26歳の青年で、社会活動の青年部リーダーを4年間してきたフレデリック・デイラーさんです。若者の社会参加を進める活動を日本でしている同年代の能條桃子さんという方が、デンマーク留学時にこの方のことを知って、日本に招待したとのことでした。フレデリックさんはデンマークの若者運動のリーダーとして、短期間で1000人ほどの社会的影響力を持つ若者グループを育て率いてきました。公共交通機関無償化を掲げた全国キャンペーンや気候変動・環境などへの取り組みを、大臣への手紙を集めて送ったり、ステッカーを街中に張ったりと、若者の意見を社会に反映させる楽しく効果的な企画を、工夫して展開してきた方です。
 フレデリックさんによると現代のデンマークで若者が直面している最大の課題の一つはメンタルヘルス(心の健康を保つこと)だということです。デンマークは世界の中で幸福度ランキングがここ数年2位の国なのですが、気候変動や経済的不安などの構造的な問題が若い世代の不安の根底にあって、「未来」への捉え方も、これまでの世代と若い世代では全く異なること、SNSを通して世界で何が起きているかを知ることができるこの時代には、未来を怖いものとして捉えてしまい、経済的にも不安定な生活を強いられている中で、若者が精神的にも不健康になりがちであることが、社会の課題になっていると話されていました。
 精神的な安定や心の健康は個人の問題と思われがちですので、現代の社会構造が精神的な健康を損なわせる主要因であるということは、新しい視点ではないかと思います。確かに新型コロナパンデミックから戦争や紛争、様々な気候変動による災害が続き、経済的にも暮らしにくい社会の仕組みの中で、不安定な生活をせざるを得ない若者にとって、心の健康を保つことは社会のあり方と連動する重要な課題であろうと思います。
 フレデリック・デイラーさんの社会参加の出発点は、13歳の中学生の時だそうです。自分の住んでいた地域の路線バスの本数が大幅に削減される計画であることを知って、学校の行き帰りも友達の家に遊びに行くにしてもとても困ると思い、寝袋を持って友達数人と路上で泊りがけのストライキをしたと話してくれました。この中学時代の抗議活動は、聞き入れられず実らなかったけれども、とてもよい経験として思い出に残っているとのことです。その後も、学生自治会(日本でいう生徒会)に参加したりして活動を続けていました。聞いてみると日本の生徒会と違うのは、学校を超えた全国的なネットワークがあり、高校生の代表が政治家に要求を伝えることもあるということです。学生自治会の活動の中で、同じ考えを持つ仲間と社会をより良くするために政治に参加することに充実感とやりがいを感じたそうです。そうした仲間と共に社会を作ってゆく、社会を変えてゆく実感が持てることが、心の健康-メンタルヘルス-にも良い影響を与えるということも話していました。こうした新しい観点を持って若い人たちを集め、リーダーとなって最先端の活動をしてきたという点では、瀧浦さんの話されていた「最初の5%のリーダー」のうちの一人と言ってよいと思います。そして、デンマークの幸福度が高いとしたらそれは、社会に問題がないからではなくて、問題があったとしても若い人たちが協力し連帯すれば社会はより良く変えてゆけるという希望が持てるし、実際に力を合わせて社会を変えてきているという実感があるからなのではないかと思います。

 

5 若者の社会参加で社会が変わる実感が持てる社会へ
 そういうデンマークでは、日本よりも若者の社会活動への参加のハードルが低いように思うのですが、それは若い時から政治家になることができ、年齢や人生経験が近い人を選挙で選べるという制度面が影響しているのかもしれません。デンマークでは政治家になるため立候補できる年齢が18歳で、選挙権を得るのと同年齢です。六甲学院では、生徒会の立候補者は高2の16~17歳でちょうど今日決選投票が行われますが、デンマークでは18歳になったら、国政選挙に投票できるだけでなく議員になるための立候補もできるということです。20代の政治家が多くいて、大臣(閣僚)の平均年齢が47.4歳(2018年統計)と若いことも、若者の社会参加によい影響を与えているのだと思います。デンマークの大臣の平均年齢は、統計のあるOECDのデータの中で、35か国中4番目に若く、ちなみに日本は62.4歳で35か国中35番目です。デンマークの2019年の総選挙での投票率が84.6%で、同じ年の日本の参議院議員選挙は48.8%、2年後の衆議院議員選挙では55.9%です。
 政治によって社会が変わるという期待度が極めて低いのが今の日本の課題の一つであるように思うのですが、若い政治家を増やし、投票によって人を選ぶことで社会は変わり得るという意識を持つことができたら、投票率ももっと高くなるのかもしれません。実際に、こうした状況を変えるため、若者の社会参加や投票を呼びかけ、被選挙権の年齢を下げる活動をしているのが、今回デンマークからフレデリックさんを招待した能條さんで、「NO YOUTH NO JAPAN」という団体の代表をされています。日本にそうした若い世代を中心にしたグループがあることも、私にとっては希望を感じることができる出会いでした。日本社会はこのままではいけないと、社会を変えることを目指して、本気で立ち上がった3.5%のグループの一つではないかと思います。

 

6 世界中の人々と共感・団結して心の健康と社会の変革をめざす
 フレデリック・デイラーさんは「世界中の人と共感し、団結することで心の安定を得ることができる。現代の社会の中で心の健康を保つことは、個人の問題ではなく構造的な社会の問題であり、社会が変えるべき問題です」と述べています。話の最初に述べたように、世界には数々の社会課題があり、そうした深刻な課題が未来についての不安につながり心の健康に影響することも確かです。自分や周りの人たちの精神的な健康・健全さを保つためにも、どの社会課題を入り口としてもよいので、社会を変えていこうとするさきがけの3.5%・5%の人間に、一人でも多くの六甲生がなってくれたらと期待しています。社会課題に取り組む活動と繋がったり、自分がそうした活動の担い手になることが、自分や周りの人たちの心の健康を保つことに繋がり、社会をより良い方向に変えることにも繋がると思います。そのために、日ごろの学びと経験を通して広い視野と大きな志を持ち、社会を変える“さきがけ-リーダー”となってくれたらと願っています。

一学期始業式 校長講話

《2024年4月6日 一学期始業式 校長講話》

 

 「復活」という出来事-出会いの喜びと希望の源泉として

 

(1)新しい命の息吹-新学期と復活祭のお祝い
 2024年度の新学期が始まりました。3月に、幾分寒い日々が続いたおかげで、ちょうど新しい学年が始まるこの時期に、桜の花が美しく花開き、新しい命の息吹を感じられる季節になりました。教会の暦では、この前の日曜日3月31日が復活祭でした。イースターとも呼ばれるこの復活祭は、春分の日の後の最初の満月を迎えた次の日曜日と決められています。早ければ今年のように3月末、遅いと4月中旬過ぎになることもあります。キリスト教の信仰の中では、イエスの誕生を祝うクリスマスよりも、意味のある大切な日です。聖書には、受難の苦しみの末に十字架上で亡くなって、3日目の早朝にイエスの墓に弟子たちが行くと、その墓に安置されているはずのイエスの亡骸(なきがら)はなく、女性の弟子たちを初めとして、幾人かの弟子たちが、亡くなっているはずのイエスと出会うという不思議な出来事が記されています。
イエスに新しい命が与えられて、目の前に姿が見えて会話もしたということを、もちろんにわかには信じがたい弟子たちでしたが、イエスとの出会いを驚きながらも喜び、仲間たちに知らせる様子が聖書には記されています。世界中のクリスチャンはこの出来事を、イースター・復活祭で祝います。皆が通学路の途中で前を通るカトリック六甲教会でも、3月31日のミサの後には、教会学校に通う子どもたちが、新しい命の誕生のお祝いとして、スヌーピーなどの絵柄をつけたゆでたまごを配っていました。その日は、六甲学院のラグビー部の生徒たちが、合宿中でミサに参加していましたので、絵柄のついたゆでたまご(イースターエッグ)をもらった生徒もいたかもしれません。世界中の教会で、思い思いに絵を描いたり、きれいな模様の紙やセロハンで包んだりして、この日はゆでたまごを配ってイースターを祝っています。

 

(2)フィリピンでの復活祭-イエスと母マリアとの出会いを喜び祝う
 私がこれまで参加した復活祭の中で、最も喜びをもって迎える人々の姿を見たのは、フィリピンのマニラでした。イエズス会大学のアテネオ・デ・マニラの研究施設で3か月学んだ最後の週の日曜日が、復活祭の日でした。16年前、2008年の3月30日です。その地域一帯に住む人たちは、早朝3時頃から、私のいた大学の隣にある国立のフィリピン大学の広大なキャンパスに集まります。キャンバスの最も離れた両端の2箇所に置かれた、7~8メートルほどのイエス像と、イエスの母親のマリア像の周りに、それぞれ集まって長い行列を作ります。その2つの像は、日本の祭りの山車(だし)のように大きな車輪がついた台車に乗っていて、動かせるようになっています。その地域の人たちはまだ暗いうちから集まり、その山車に乗せた像はそれぞれに、キャンパスの両端から中央にあるグラウンドを目指して近づいてゆきます。大勢の民衆はその像を囲んだり後に行列になってついてきたりして、朝の5時頃でしょうか、薄明るくなったときに、イエスとその母マリアはグラウンドの中央で出会います。
 聖書には書かれていないのですが、キリスト教の伝統として、復活したイエスが最初に出会ったのは母マリアだったという言い伝えがあります。フィリピンのその地域では、伝承に則(のっと)って復活祭を迎えます。2つの像が出会ったときの拍手や喝采(かっさい)は陽気な国民性もあって大変なもので、子どもたちは、用意していた南国の草花の花びらを、満面に笑みを浮かべながら二つの像に向けてふり撒(ま)きます。その後に、数千人集まっての荘厳なミサが、グラウンドで始まります。それまでもその後も、復活祭の祝い方として、これほどの喜びを表したものはありませんでした。
それだけ喜ぶのは、ただ、人の命が死んで無に帰すのではなく復活の命のうちに生きるという希望を示されたというだけではなく、とても親しい大事な人が死んでもう二度と会えないと思い込んで嘆き悲しんでいたのに、思いがけなく生きているその人と出会えたという、母マリアや弟子たちの喜びを追体験することができるからだろうと思います。

 

(3)人間の弱さ・醜さ・残忍さが表れる受難の出来事
 聖書の中で、復活の物語だけ読むとやはり何か非現実的で、にわかには信じがたい話ではあるのですが、その前の受難の出来事から読むと、聖書は決して夢物語ではなく、人間の弱さや醜さや残忍さがかなりリアルに表現されている書物であることが分かります。
 当時のユダヤ社会の祭司や律法学者など宗教リーダーたちは、民衆の心を捉え引き寄せるイエスの言葉や行いに嫉妬し、その妬(ねた)みの感情が悪意を生み、それがイエスを十字架刑へと物事を進ませる動機の中心になっています。そうした人間の嫉妬心や悪意の恐ろしさが、聖書には表現されています。
 もう一つは凶暴化した群集心理の恐ろしさです。イェルサレムの人々は、イエスが支配者ローマ帝国に対抗するリーダーになりうると期待していました。そうした思いの中で、歓喜のうちにイエスをエルサレムに迎え入れた民衆たちも、イエスを亡き者としようとしている宗教リーダーに扇動されると、十字架につけることに賛同してゆきます。少し煽(あお)られて一旦残忍な刑につけることに付和雷同すると、その集団の言葉や行動は、穏便に済ませようとした政治のリーダーにも止められないくらいの凶暴な勢いになります。扇動に容易に乗って徒党を組んだ人間は、一人ひとりが悪人でなくても、集団としていくらでも残酷になれる恐ろしさがあります。罪びととしてイエスを捕らえた人々も、イエスを侮辱しなぶりものにし暴力をふるいます。集団化して凶悪化することは、子どもの間でのいじめから紛争地域の虐殺行為まで、今の時代でも人間の行為として続いていることです。
 さらに、イエスの最も傷つき心を痛めた出来事は、宣教活動の中で共に生活し身近にメッセージを伝え、最も親しく理解してくれていたはずの弟子たちに、裏切られたことではないかと思います。十字架刑につけようとする人々にイエスを引き渡す手引きをしたのがユダという弟子でした。弟子のリーダー格だったペトロも、イエスが捉えられた後は、自分の身の危険を感じて、イエスとは関りのない者として振る舞い、イエスを助ける手立てを考えるよりも自分の身の保身を先に考えています。イエスの十字架刑に向かわざるを得ないと知った時の心の揺らぎや、最も信頼していた神も自分を見捨てたのではないかという思いも、聖書の中では表現されています。

 

(4)人間への失望・絶望から喜び・希望へ向かう復活の出来事
 そうした人々の持つ心の醜さ、弱さ、残忍さ、裏切り、イエスの死への恐怖や信じていたものへの心の揺らぎなどを経て、その結果、苦しみの末に命を落としたイエスが、死ですべて終われば、キリスト教も生まれる余地はありませんでした。新しい命を与えられて生きているイエスと弟子たちとの出会いと交流が、なんらかの形であったことが、彼を信じる教会共同体の誕生に繋がります。
 人間への失望や絶望感だけを残して終わってしまうような出来事のあとに、新たな命との出会いを感じさせるような喜びと希望につながる出来事が起こったこと、それがキリスト教徒にとっての復活祭になります。キリスト教は苦しいことや悲しいことがあったとしても、そのままでは終わらず、苦しみ・悲しみを経た後には喜びがあることを信じる宗教です。ヨハネ福音書16章にはイエスの言葉として「あなた方は悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。女は子どもを産むとき、苦しむものだ。しかし、子どもが生まれるとき、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。」とあります。受難の苦しみを経て新しい命を与えられた人との出会いを、弟子たちは身近に体験し喜びに満たされることを、イエスが予告している言葉のようにも読み取れます。
 キリスト教には、どんなにひどく真っ暗な状況の中でも、光を見出そうとするどこか楽観的なたくましさがあります。私は時々復活祭の早朝、まだ暗いうちに大学のキャンパスに集まって、復活したイエスと出会い、明るくなってゆく中で喜びを分かち合うフィリピンの人たちを思い出します。大多数が貧しい人たちで日々の生活は楽なわけではないのですが、にもかかわらず底抜けに明るいたくましさを持っています。その源泉は受難から復活へと至る道があることをみなが信じており、思いを分かち合える仲間、共同体があるからなのではないかとも思います。

 

(5)私たちの出会いと希望の源泉でもある復活の出来事
 復活の出来事を信じるか、信じないかは信仰の領域になるのですが、この出来事がなければ、キリスト教もイエズス会もなかったわけなので、今の六甲学院の建物もなく、生徒が集まるような学校もなく、クラスメイトとの出会いや先輩後輩との人間関係や教師と生徒とのつながりもなかったのかと思うと、不思議なことだと思います。私たちのこの学校での「出会い」や人間的なつながりそのものが、復活の出来事があったからこそ与えられた贈り物のようにも思えます。
 新約聖書で「復活する」と訳されている動詞は「アニステーミ」と「エゲイロー」というギリシャ語で、どちらももともと「立ち上がる」「起き上がる」という意味だそうです。人間の弱さや醜さや、悪意を受けることから来る悲しみや苦しみは、だれにでもありうることです。それで立ち上がれないような状況に陥ることがあったとしても、起き上がれるたくましさは、これからの困難な時代を生きる私たちには必要なことなのではないかと思います。そして、大人になった卒業生たちを見てみると、危機の時に支え合い信頼できる人間的なつながりが、同期や先輩後輩の中にある人が多いようにも思います。そうした人間関係を築く場としても、この学校の存在は貴重なのかもしれません。信頼できる人間のネットワークを作りながら、希望を見出すことの難しい真っ暗に思える世界の中でも、希望の光を見出すたくましさを、キリスト教精神を基盤にする六甲の学びの場の中で、身につけられたらと思います。

六甲学院中学校 87期生入学式式辞 校長講話

《2024年4月6日 六甲学院中学校 87期生入学式式辞 校長講話》

六甲学院での「経験」から「夢」を見出す6年間に

 

(1)満開の桜の中で-87期の入学式
 新入生の皆さん、六甲学院中学校へのご入学、おめでとうございます。
保護者の皆様、ご子息の六甲学院へのご入学、おめでとうございます。
ちょうど、桜が美しく花開いているこの日に、入学式が迎えられることを嬉しく思います。
 新入生の皆さんは、六甲学院の87期生となります。
 中学を入学するに当たって、おそらくこの長く急な坂道を、毎日重い荷物を背負いながら、通い続けられるだろうか、という心配から始まって、この学校の習慣になじめるだろうか、とか、勉強にはついていけるだろうか、というような不安もあるかもしれません。その一方で、学校説明会や入学オリエンテーションで案内された広々としたグラウンドや蔵書が充実し眺望も素晴らしい学習センターや、理科実験室・庭園などを知るにつれて、この学校で6年間を過ごせること思うと、期待や希望に胸をふくらませている新入生もいることと思います。

 

(2)一生涯続く先輩と後輩の人間関係-グローバルな広がりの中での成長
 学校生活については、入学オリエンテーションですでに紹介されている中1指導員をはじめとして、クラブや委員会などで世話になる先輩たち、また校舎内で出会う先輩たちに、わからないこと・知りたいことがあれば、聞いてみたらよいと思います。きっと懇切丁寧に答えてくれるはずです。
 特にこの学校の90年近い伝統の中で、はぐくまれてきたのは、様々な日常の学校生活や活動・行事において、先輩と後輩との間で共に成長する人間関係です。先輩が後輩を指導し、世話をし、自分の経験を分かち合い、アドバイスをする人間関係は、これからの6年間の中ではぐくまれながら、卒業してからも長く続いてゆきます。
 例えば、この春休み中の行事、新高校3年生、新高校2年生のうち18名が参加した「ニューヨーク研修」では、最初に到着したアメリカ合衆国の首都のワシントンDCにもニューヨークにも卒業生がいて、アメリカで生活し仕事をすることの意味や喜びや大変さなどを、体験談も含めて分かち合ってくれています。そのうちの一人は、東京大学を卒業した後に中南米の発展途上国のスラムと関わるようになり、ワシントンDCの国際開発銀行の職員として働き、特に現在は中南米カリブ海沿岸の貧困地域に赴いて、経済格差と困窮した生活の改善に取り組む現地NGOのプロジェクト支援活動をしています。
また、昨年6月に初めて実施されたシンガポール・マレーシア研修は、高校2年生全員が参加する行事ですが、そこでも5人の卒業生が海外での自分の仕事について話をし、職場や大学を案内してくれました。そのうちの一人は特に脳の医学研究のために本拠地をアメリカからシンガポールに移して、大学内で研究活動をしており、その広々とした研究施設を見学する機会がありました。
 昨年は初めて、中学3年生から高校2年生の22名の希望者がカンボジアへも研修旅行に行きました。首都プノンペンでは二人の卒業生が生徒たちの世話をしてくれました。そのうちの一人は、京都大学を卒業した後に、国連の支援のもとに行われた民主的選挙に国連ボランティアとして参加したことをきっかけに、カンボジアと30年以上にわたって関わっています。戦乱で荒廃した後の国の復興のために、主に現地に秩序をもたらす法律の作成に携わっています。日本国内でも同様で、東京・大阪など行く先々で、進路について考えている後輩たちに、親身になって話をし、職場を案内してくれる先輩が数多くいます。
 生徒たちはそうした学校内から世界への広がりの中で活躍する先輩と交流し経験を見聞きして、進路について考え、自分なりの希望や使命を見出したり、こういう人になりたいという「めざす人間像」を見出したりして、その目標に向けて成長してゆきます。

 

(3)海外のイエズス会姉妹校のつながり-交流経験から進路選定へ
 こうした世代を超えた先輩・後輩とのつながりの深さは、六甲学院の最も大きな特徴の一つです。それとともに、六甲学院はイエズス会学校として、世界中の姉妹校とつながり、ネットワークを生かした教育活動をしています。アメリカ合衆国のワシントンDCには、イエズス会の運営する世界的にも有名なジョージタウン大学があります。今回の訪問で大学案内の世話をしてくださったのは、かつて六甲学院で働かれていたアメリカ人イエズス会司祭ファージ神父の友人でした。ニューヨークでは、イエズス会系列の3つの高校、フォーダム高校、セントピーター高校、クリストレイ高校と交流する機会があります。カンボジア訪問旅行でも、生徒たちはシソフォンという地方の町にあるザビエル学院という姉妹校を訪れ、交流する機会を持ちました。
 先輩との交流の中では、先輩たちの貴重な海外経験を話してくださいますし、姉妹校交流では、世界で同じ教育方針のもとに学ぶ生徒たちとの交流そのものが貴重な経験になります。そうした他者の経験に学んだり、自分たち自身が経験することを通して、生徒たちは、自分たちなりの将来の夢や希望をもち、進路を選んでゆく生徒が、六甲学院の中では比較的多いように思います。

 

(4)今年の中学入試国語問題-東大2023年入学式祝辞から
 今年、2回の中学入試、国語の長文問題4問の中で、昨年4月12日の東京大学の入学式の祝辞の文章を扱った出題がありました。馬渕俊介(まぶちしゅんすけ)という方の祝辞です。彼は「世界の貧困や感染症に立ち向かう仕事」に従事してきていて、最近では「新型コロナのような感染症の壊滅的な大流行を二度と起こさないための国際システムの改善を提案」しています。「世界の感染症対策をリードするグローバルファンドという国際機関」に所属して「途上国の保健医療システムを強化して、感染症のパンデミックを起こさないように備える」部局のリーダーをしています。東京大学に入学した学生に向けて、「夢」についてと「経験」について、話をしています。彼自身が入学したときに決めたことは「人生をかけて取り組むことを決めたい」ということだったそうです。

 

(5)途上国の理不尽さの体験から抱いた「夢」
 大学の授業でパプアニューギニアの先住民の儀礼を映像で見て、その美しさに感動し、異文化に飛び込んで学ぶ文化人類学者になりたいと、はじめは思っていたそうです。しかし、実際に途上国に行って見たことは「子どもが病気になっても医者も薬もない状況、毎日重労働と日焼け、栄養不足でおばあさんのような顔をしている若いお母さん、地域に根深く残る差別から仕事の機会がなくて、くすぶっている同年代の若者など」の多くの理不尽だったそうです。「自分は、学者としてそこから学ぶだけで終わりたくない。人々が自分たちの文化に誇りを持ちながら、理不尽と戦って、  日本なら簡単に直せる、あるいはかかることもない病気に命や可能性を奪われずに人生を生きられる、そのサポートをしたい」と思うようになったということです。彼がこのとき抱いた夢が、その後の人生の中で形になって、今も続いているという話です。そして、入学した皆に「夢に関わる、心震える仕事をしてほしい」「夢は、探し続けて行動し続ける人にしか見えてこない」という2つことをアドバイスとして伝えています。

 

(6)「経験」の組み合わせから危機を乗り越え問題解決へ
 もう一つのテーマ、「経験」についてですが、彼は西アフリカで2014年に大流行したエボラ出血熱の緊急対策チームのリーダーを任された時の話をしています。感染者の半数が死に至るという恐ろしい感染症です。緊急対策にかかる費用を迅速に運用できるような仕組みづくりをし、感染が広がりやすい死者の埋葬について「現地の人たちの大切な価値観」を尊重しつつ、感染リスクのない「安全な尊厳ある埋葬」の方法を、話し合いのすえ見いだして、爆発的に広がっていた感染が一気に落ち着いたそうです。立場の全く異なる人たちが話し合いの場を持ち、自分もそれまでしてきたいくつかの重要な分野の経験を組み合わせることで、危機的な状況を乗り越え問題解決をすることができた、ということです。そして、彼はこのときの経験から、貧困や感染症、気候変動のような世界の問題に立ち向かうにあたって、問題が複雑に込み入っていて本当に自分のしていることが問題の解決に役立つのかと思うことがあっても、「世界は変えられるんだ」という希望を持つことができたと言います。六甲学院の入試問題として、こうした内容の文章が選ばれるのは、六甲のめざす方向性と繋がっていて、受験する生徒たちにぜひ読んでほしいという思いがあるからでもあります。

 

(7)六甲学院での「経験」から人生をかけられる「夢」を見出す
 六甲学院の教育モットーは全世界のイエズス会学校共通の「他者のために、他者とともに」生きる人間、“For Others, With Others” です。昨年の東京大学入学式のこのメッセージは、そのまま“For Others, With Others” をめざす六甲学院の生徒たちに当てはまるように思いますし、今の若い人たちに向けての普遍的なメッセージでもあるように思われます。そして、六甲学院においては、「夢」を持つにあたっても、現場で様々な「経験」を積むことについても、すでに中学時代から、歩み始めることのできる恵まれた環境にあります。日常の生活の中で接する先輩との交流からはじめて、フィールドワークや社会奉仕活動や研修旅行など、グローバルな経験も含めて様々な経験の機会をつかみ、生かしてくれたらよいと思います。また、学校の進路の日や、国内海外の研修旅行を通して、先輩たちの物事に取り組む姿勢や、先輩がどんな選択を経て今の道を歩んでいるか、などを学んでほしいと思います。そして、そうした夢や経験を見聞きする中で、自分にとって人生をかけてしてみたいことや「夢」を、これからの6年間で見出してくれたらと願っています。

三学期 終業式 校長講話

《2024年3月19日 三学期終業式 校長講話》

 

「経験」と「振り返り」を通してFor Others, With Othersの生き方へ
   -現代の世界情勢の中で“善いサマリア人”を目指すということ-

 

(1)イグナチオ的教育法-経験→振り返り→次の行動の選択→実践(経験)のサイクル
六甲学院はイエズス会学校として、教育方法にも創立者イグナチオの精神が生かされています。その教育方法の基本は、一人ひとりの経験を大切にし、経験を振り返る時間を設け、その中で経験したことの意味を見出し、それをもとに次の行動を選んで実践することです。経験から振り返り(内省)へ、さらに次の行動を選択し実践(経験)することへ、そうしたサイクルの積み重ねの中で、自分の適性や将来の方向性や進路や意味のある生き方を見出してゆくところに特徴があります。この場合の「経験」とは、日常の中の些細な出来事を含めて、自分の心に触れるもの、感情を揺り動かすもの、思索や内省へと促すものすべてを指します。日々の地道な授業も清掃も経験ですし、友人との出来事も、朝礼や講演会で聴く話も、クラブ活動や委員会活動、体育祭・文化祭・強歩大会・研修旅行などの行事も経験です。
経験したことをそのままに放置しないで、自分の心を大きく動かしたり感動したりした出来事に着目しつつ、経験の奥にあるメッセージを見つけ出してゆくことが、「振り返る」という行為です。六甲で物事の区切り目にしている「瞑目」は、そのための時間でもあります。「振り返り」の中で気づいたメッセージ(経験の意味)をもとに次の行動を識別し(選び)、それを実践することが新たな経験となります。そうした積み重ねの中で、自分の生き方や進む道を選んでゆければよいと思います。先ほど84期中学卒業式で紹介した『君たちはどういきるか』(吉野源三郎著)の、コペル君のお母さんの「石段の思い出」などは、その好例としても読むことができます。最近聞いた今年の81期卒業生の経験を例として、紹介します。

 

(2) 社会奉仕活動と海外研修の経験の繋がりから進路選択へ
3月9日(土)、高校の卒業式の一週間後に、六甲学院受験を考えている児童と保護者向けに中学入試報告会をしました。その中で卒業したばかりの81期生2名と四宮先生とのクロストークがありました。一人は国立大の法学部に合格しているのですが、なぜそういう進路を選んだのかを四宮先生から聞かれたときの答えが印象に残りました。
入学時、六甲は第一志望であったわけではなく、最初は腐る気持ちもあったのだけれども、「せっかくここで6年間を過ごすならば、前向きに」と気持ちを切り替えたそうです。そして、六甲ならではの活動の一つが委員会活動だと思い、いくつかの委員会活動を経験しました。自分には社会奉仕員会が肌に合っているように思えたので、そこにコミットするようになりました。その中で、ホームレスの方への炊き出し活動などができたことは、貴重な体験だったようです。法学部を選んだのはニューヨーク研修に行ったことがきっかけでした。姉妹校フォーダム高校の生徒たちと、ワーキングプア(working poor-働いてはいても貧しくて、日々の食事にも事欠く人たち)への炊き出し活動を案内していただきました。その施設には法律相談所が併設されていて、そこでの説明を聴く中で、法律を通して社会的で困窮する人たちを助ける仕事ができることに目が開かれて、六甲でしてきたことと将来していきたいこととがつながりました。それで法学部に行く決心をした、という話をしてくれました。

 

(3)六甲学院ならではの経験からFor Others, With Othersの生き方へ
この卒業生の体験からもわかるように、春休みに行われるニューヨーク研修旅行では、格差社会の現実を知り、繁栄の陰にある貧しさに触れることが目的の一つです。マンハッタン地区の北にあるブロンクス地区のフォーダム高校を訪れ、高校からも近く生徒の社会奉仕活動先にもなっているPOTSという福祉施設に行きます。
1階は炊き出し活動のための食堂や食料倉庫があり、地下には医療相談・診療所や散髪やシャワー室があり、2階が経済的支援も含めた法律相談所になっています。クロストークを聴きながら、六甲学院で学んでいたからこそ見聞きすることのできた話や経験や出会いを通して、自分なりに志を持つ人が育っていることを、大変嬉しく思いました。その志が、働いてはいても炊き出しに並ばざるをえないような、社会の中で弱い境遇の人たちの側に立つ仕事をしたい、そのために法律をしっかりと学びたいという、そのままFor Others, With Othersの生き方に繋がるものでしたので、これからも陰ながら応援したいとも思いました。

 

(4) 民族・宗教の違いによる敵対関係や差別偏見を超える“善いサマリア人”
Man For Others, With Othersを最初にイエズス会教育のモットーとして提唱したのは、アルペ神父でした。彼自身が第二次世界大戦中に原爆が投下された広島で、爆風と閃光によるけが人を懸命に助け、Man For Others を実践した人物であったことは、1学期の終業式で述べました。アルペ神父が “Man For Others” という言葉で第一にイメージをしていたのは、聖書の中の善いサマリア人の譬えの中の、追いはぎに襲われて大けがをした人を助けたサマリア人でした。恐らくこの個所は、一年間で朝礼やMAGISの日、先日の高校卒業式のサリ理事長の話を含めて、最も多く登場した聖書の話ではなかったかと思います。
ルカによる福音書10章で、「私の隣人とはだれですか」という律法の専門家の問いに対して、イエスが答えた譬え話です。
「ある人がエルサレムからエリコへ下っていく途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じようにレビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶとう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨2枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います』さて、あなたはこの3人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
この話の中で一つ背景知識として知っておきたいことは、当時、怪我をしたユダヤ人と助けたサマリア人とは、民族的にも宗教的にも敵対関係にあって、お互いに話をするのもはばかれるような間柄だったことです。それにもかかわらず、このサマリア人は、敵対意識や偏見や差別感情を超えて、「その人を見て憐れに思い」、助ける行為に出ます。人として怪我をして苦しんでいる人を放っておけないという気持ちが、すべての壁を超えて、その人を助ける行動へと動かしたのだと思います。今の時代の人間にこそ必要なメッセージが含まれています。

 

(5) ヨルダン川西岸地区の現状取材―安田菜津紀さんの記事から
この聖書の譬え話の中に出てくる「エリコ」という町は現在も存在しています。報道でも時々聞かれる「ヨルダン川西岸地区」に位置しています。パレスチナ人の主な居住地域は、西を地中海、南をエジプトに接する「ガザ地区」と、東をヨルダンに接する「ヨルダン川西岸地区」との2か所が、パレスチナ自治区としてあります。「パレスチナ自治政府」はありますが、現実には自治区の半分以上がイスラエルの軍事支配下に置かれています。
岩波書店の『世界』という雑誌の3月号に、フォトジャーナリストの安田菜津紀さんが、昨年の暮れから今年の初めまで、このヨルダン川西岸地区に行って取材した記事が載っていました。これまで中東や東南アジア、アフリカ、東日本大震災の被災地などを取材してきた人です。この方は、広島学院のある社会科の先生の前任校での教え子であり、上智大学の卒業生でもあります。そうした縁もあって、昨年の夏休みに六甲学院の先生を含めてイエズス会4校の先生方20人程が、鎌倉の「アルペ難民センター」という所で、安田さんからお話を伺う機会がありました。常に紛争地や被災地に暮らす女性や子どもたち、また日本社会の中で暮らす外国にルーツを持つ難民・移民など、弱い立場の人たちの側に立って、写真を撮影し記事を発信し続けているジャーナリストです。
安田さんは、パレスティナ・ガザ地区に暮らす友人たちの声や、ヨルダン川西岸地区の「自治区」に暮らす人たちの現状を紹介しながら、今回のイスラエル軍の侵攻以前から、パレスチナの人たちの生活は、人として「尊厳ある暮らしを保つことが困難」であった上に、今回ガザ地区は「攻撃により、学校や病院、道路、生活に欠かせないインフラはことごとく破壊され、これまで以上に人間が住居不可能な空間となってしまった」と述べています。そして、ガザ地区での戦闘は昨年の「10月7日、ガザを実効支配するイスラム組織ハマスがイスラエル市民を攻撃したことをきっかけに」起きたという文脈で報じられることが多いのですが、事態はその日に急に始まったわけではないことを伝えています。
ガザ地区と同様にパレスチナ自治区であるヨルダン川西岸地区を今回訪れた安田さんは、そこでは「昨年7月にもイスラエル軍の激しい侵攻」があり、10月7日以降も「襲撃の頻度が増している」ことを報告しています。1万4000人のパレスチナ人が住む西岸地区内のジェニン難民キャンプでは、日常的に普通に暮らす家庭にイスラエル兵が踏み込み、お金を強奪し家を踏み荒らすようなことが頻繁に起きており、上空を飛ぶドローンの攻撃による爆発音や銃声も日常の出来事になっています。安田さんが取材した話の一つには、昨年11月末に路上で遊んでいた15歳と8歳の少年がイスラエル兵に「テロリスト」として射殺されたという出来事が紹介されていました。パレスチナ自治区と呼ばれ、この難民キャンプはパレスチナ自治政府が行政・治安の権限を持つ地区であるとされながら、自治区とは名ばかりの実態であり、こうした理不尽な状況が国際社会の中で放置されてきたことは問題視する必要があることを、今回の取材記事の中で、安田さんは伝えていました。
聖書の中の善いサマリア人の譬えの舞台になるような地域が、未だに民族や宗教などの違いを乗り越えられず、殺傷を含む理不尽な暴力が続いていることは、ほんとうに人類として悲しむべきことだと思います。

 

(6) 日本で暮らす私たちが難民や移民の隣人となること
安田さんの著書の中には、「隣人のあなたー『移民社会』日本でいま起きていること」という岩波ブックレットの中の一冊があります。海外にルーツを持ちつつ、安全で平和な生活を求めて日本に来る人たち-難民や移民や外国人労働者たち-にとって、日本で暮らす私たちは本当の「隣人」になることができるだろうか? 特に生命の危機を感じて日本に避難し、ここで市民として暮らすことを望む人たちにとって、私たちが「隣人」となるためには、社会や自分自身をどう変えてゆく必要があるだろうか? 外国から日本に来て懸命にこの社会の中で暮らそうとする人たちのことを取材しつつ、そうしたことを問うているように思います。学習センターには、カウンター前に青木光博先生の紹介で、この本が展示されていますので、ぜひ手に取ってくれたら、と思います。

 

(7) 国内外で弱い立場に苦しむ人たちへの取材の原点―マイノリティの視点から 
安田さんがなぜ、国際的な関心の中で苦境にある女性と子どもの視点に立った取材をされているか、また日本の中での難民や移民への関心を持っておられるのかについては、著者紹介や著書を読むと、ある程度推察することができます。16歳の高校生のときに「国境なき子どもたち」友情のレポーターとしてカンボジアで貧困にさらされる子どもたちを取材した経験があること、また、パスポートを取得するにあたって、自分の父親が韓国籍であったことを初めて知ったこと、そうした経験が世界の弱い立場にある人たちに向けて目が開かれるとともに、日本の中で外国をルーツに持つ人たちが、現在どういう境遇にあるかについて、目を向ける契機になったのだと思います。
『あなたのルーツを教えてください』(左右社)という本の中では、次のように述べています。
「私自身もまた、ルーツを知るまでは、自分や家族が『日本人』であることを疑わず、そうした意味での社会的「マジョリティ(多数派)」として生きていました。……韓国を「日本より遅れている国」という文脈で報じる映像を、無意識に受け入れてしまっていたのです。それどころか、「変な国だな」と、自分とは違う『異質な何か』として考えていた節さえあります。こうして自分が日本社会で「マジョリティ」でいる限り、差別やヘイトの問題は、私の皮膚の外側にあるものとして、痛みを感じることすらなかったのです。……自分の出自(しゅつじ)が、実は「矛先を向けられる側」にあると知るまで、私はその刃がどれほど人の心を、生活をずたずたに切り裂いてきたのか、肌感覚で考えたことがほとんどなかったと言っても過言ではありません。」(17ページ)
そういう安田さんは、マジョリティ(多数派・大多数の側)としてではなくマイノリティ(少数派・少数の側)の立場で、同じ社会のマイノリティの人たちの側に立って社会を変えてゆく使命を感じて、フォトジャーナリストの道を選んできたのでしょう。社会の中で人間の尊厳を大切にされずに差別されがちな立場の人たち、子どもや女性や民族として少数の人たちが、苦境にあるとわかった時に、放ってはおけないという思いになったのではないかと思います。

 

(8) 経験と振り返りを通して―誰の「隣人」になりたいと思うか?
日々学ぶための原動力としても、進路を考えるにあたっても、六甲学院では「経験」と「振り返り」を大切にしています。訓育や社会奉仕、行事や海外研修の経験が有機的につながり、高い学びへと向かえばよいと思います。もちろん、望む進路に向かうために最も必要なのは日々の授業で身につける基礎学力ですので、それを十分身につけた上での進路選択です。世界の情勢を幅広く見ながら、自分が「誰を放っておけないと思うか」「誰の隣人になりたいと思うか」を大事な観点にしてくれたら、と思います。現代にあって「善いサマリア人」のような行為ができる人、For Others, With Othersを生きる人になることは、大きなチャレンジですし、めざすべき目標にもなると思います。そして、最初に述べた81期の卒業生やフォトジャーナリストの安田さんのように、自分の経験が将来自分のしたいことや使命と結びついて、大学の進路や仕事に繋がっていけばよいと思います。自己実現の道が、他者の幸せを実現する道でもあると、自然に思えるような選択ができれば…と願っています。

 

六甲学院中学校 84期生卒業式 校長祝辞

《2024年3月19日 六甲学院中学校 84期生卒業式 校長式辞》

 

『君たち…』の成長―経験の意味を振り返ることを通して「いい人間になる」

 

(1)84期中学3年生の卒業にあたって
84期中学3年生の皆さん、卒業おめでとうございます。中高一貫校である六甲学院の場合、中学卒業という区切り目は、一人ひとりがよほど意識しないと、実感があまり湧きにくいかもしれません。ただ、84期生は、学年主任石川先生を中心に学年団のご指導の下に、自分で考え行動する自律した大人に向けて成長してきた学年であると思います。84期生には学びの面でも行動の面でも、今後も、謙虚に学び続ける素直さを生かして、自律した一人の人間としての成長を、期待しています。この学年から始まった「中3卒業論文」の取り組みも、自分で思考し判断し行動する人になるための一ステップになればよいと思います。

 

(2)アカデミー賞ダブル受賞-暗い世相の中での明るいニュース
さて、最近の世界を見渡すと21世紀も四半世紀を迎えようとしているこの時代に、ウクライナやガザでは相変わらず陰惨な戦闘が続き、国内では政党の派閥による裏金問題は納得のいく解決には程遠く、元旦に起きた能登半島地震も被災者が希望を持って生活再建に向かうには遠い道のりであることが察せられて、明るいニュース報道がほとんどありませんでした。そうした中で、一週間前の映画のアカデミー賞ダブル受賞は、久々に入って来た明るいニュースでした。『ゴジラ-1.0(マイナスワン)』が「視覚効果賞」を受賞し『君たちはどう生きるか』は「長編アニメーション賞」を受賞しました。日本アニメの受賞は同じ宮崎駿(はやお)監督が2003年に『千と千尋の神隠し』で受賞して以来、2度目の快挙です。

 

(3)『君たちはどう生きるか』―少年が成長する物語として
宮崎駿監督の作品には、別世界や異次元の世界を旅する中で、思春期の子どもが様々な人や出来事と出会い成長する物語は、これまでにもありましたが、『魔女の宅急便』や『千と千尋の神隠し』など、少女の物語が殆どで、今回の作品のように少年が主人公の物語は、なかったのではないかと思います。私がこの映画を見たのは昨年の夏休みの終り頃だったかと思いますが、見終わって映画館を出る途中で、後ろにいた学生風の二人が「真人(まひと)は、いつあんな風に成長したのだろう」という会話をしていました。物語は複雑で難解でもあり、必ずしも主人公の成長が中心テーマとは言い切れないとは思うのですが、真人という最初は不愛想で心を閉ざしている主人公が、何かをきっかけに変ってゆき、感情豊かで人を受け入れられる人間に成長してゆくストーリーが、物語の筋の一つとして含まれていることは確かです。

 

(4) 成長への転換点―経験の中にある意味を振り返ること
私は、主人公の内面が成長する転換点の一つは、この映画の題名にもなっている『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎著) という本を主人公が読んでいるその時だと思います。この本は母親から真人に託され、それを見出した主人公が読む場面があります。それは場面としては一瞬のことで、本の内容は映画の物語とはほとんど全くと言っていいほど、無関係に見えますが、製作者は特別な思いを込めてこの場面を描き込んでいるはずです。
この『君たちはどう生きるか』という本は、六甲学院の創立と同じ1937年に刊行された“古典的”な本です。私自身が中学生の現代国語を担当する時には、必ず課題図書として選んでいた本のうちの一つでした。40期代から70期代のうちの5期ほどの生徒たちには読んでもらっていました。コペル君というあだ名の15歳の少年本田潤一君が、身近な生活の中で、社会科学、自然科学、歴史、文化、芸術などに幅広く関心を持ち、目が開かれ、また、友人関係に悩んだりする中で、成長してゆく姿が描かれています。84期のみんなが中学を卒業するにあたって、ぜひ読んでほしい推薦本として紹介したいと思います。
父親を失っている主人公コペル君が、日常の中での経験や気づきを話す相手は、自分の母方の叔父さんです。その叔父が主人公の経験や気づきをより深く振り返らせ、さらに新しい気づきや成長へと導く役割を持っています。このコペル君と叔父さんとの間には、イエズス会教育の中でイグナチオ的教育法と呼んでいる方法のモデルとなるような関係があります。コペル君に向けて叔父さんが書いている「おじさんのNote」には、例えば「肝心なことは、いつでも自分が本当に感じたことや、真実心をうごかされたことから出発して、その意味を考えてゆくことだ」「ある時、ある所で、君がある感動を受けたという、繰り返すことのない、ただ一度の経験の中に、その時だけにとどまらない意味のあることがわかって来る」「常に自分の体験から出発して正直に考えてゆけ」(岩波文庫版53~54ページ)というアドバイスがあるのですが、それらはそのまま、イエズス会教育の専門家が話していると言ってもおかしくない内容です。自分が感動したり心が動いた体験をていねいに振り返ることによって、その体験のうちに込められた真実の意味を見出すイエズス会の教育方法と、そのまま繋がります。また叔父さんは次のようにも言います。「もしも君が、学校でこう教えられ、世間でもそれが立派なこととして通っているからといって、ただそれだけで、いわれたとおりに行動し、教えられたとおりに生きてゆこうとするならば、―コペル君、いいか、-それじゃあ、君はいつまでたっても一人前の人間にはなれないんだ」(同書 55ページ)。 そうであるとするならば、どうしたら一人前の人間になれるのか、この本を読みながら考えてほしいところです。(それは、84期のテーマ「自律(自立)した人間になる」ことを、本当の意味で理解し実践することに繋がります。)

(5)映画の主人公真人の読書場面と本の主人公コペル君の「雪の日の出来事」
84期の卒業にあたって、同じ年齢のコペル君が主人公のこの本については、もう少し映画とも関連させつつ紹介したいと思います。宮崎駿監督の映画『君たちはどう生きるか』の主人公真人は、ある出来事がきっかけで学校を行き渋るのですが、そうして部屋にこもっている中で、先ほども述べたように、母親から自分宛てに贈られたこの本の存在に気づき、涙を流しながら夢中で読む場面があります。映画の主人公真人がこの本のどこを読んで涙を流すほど感動したかを想像することには、それほど意味はないかもしれませんが、この本をそれなりの共感を持って読んだことのある人にとっては、思い当たる箇所があると思います。「雪の日の出来事」と「石段の思い出」という章です。
本の『君たちはどう生きるか』の中で、コペル君には3人の仲の良い友人がいます。「雪の日の出来事」では、そのうちの一人が上級生4~5人に囲まれ不当に扱われているときに、コペル君以外の友人2人はその上級生から攻撃されている友人のもとに駆け寄り、怖さでぶるぶると震えながらも友人を守ろうとします。しかし、コペル君は足がすくんで友人のいるところに近寄ることができません。そのまま事が過ぎてしまいます。親友が暴力を振るわれるのを見ながら、何一つ抗議もせず助けようともしなかった卑怯な自分を責め後悔したまま、体調を崩して何日も休むことになります。

 

(6)コペル君の母親の「石段の思い出」―経験の意味に気づくこと
病床の中でコペル君は雪の日の出来事を繰り返し思い返し、自分の臆病さや卑屈さへの自己嫌悪に陥りながらも、友人3人とは会いたいし元の仲の良い関係に戻りたいと願いつつ、学校に行って会うことへの不安やつらい思いに苛(さいな)まれます。
体調がよくなった頃にコペル君の母親は、コペル君の心の内を察していたのか、女学校時代の学校の帰り道に、神社の石段を登っていたときの体験を話してくれます。
石段を登りかけた時に、5~6段先を70過ぎくらいのおばあさんが手に重そうな風呂敷包みを持って登っていました。その荷物を持ってあげなければいけないと思いながら、何度か話しかけようと思いつつきっかけがつかめないうちに、おばあさんは登り切ってしまいました。そんな些細な出来事をお母さんは忘れられずに、色々な時に色々な思いで思い出す、と言います。そして次のように話します。
「おばあさんの大儀そうな様子を見かねて、代わりに荷物をもってあげようと思いながら、おなかの中でそう思っただけで、とうとう果たさないでしまった、――まあ、それだけの話ですけれど、このことは、妙に深くお母さんの心に残ったんです。……心に思ったそのことをする機会は、二度と来ないのでしょう。その機会というものは、おばあさんが石段の一番上のところに立つと同時に、まあ、永遠に去ってしまったわけね。ほんの些細なことでしたけれど、おかあさんは、やっぱり後悔したんです。あとになって、なんと思って見たところで、もう追っつかない。」「潤一さん。大人になっても、ああ、なぜあのとき、心に思ったとおりしてしまわなかったんだろうと、残念な気持ちで思いかえすことは、よくあるものなのよ。どんな人だって、しみじみ自分を振り返って見たら、みんなそんな思い出を一つや二つもっているでしょう。」「でもね、潤一さん、石段の思い出は、お母さんには厭な思い出じゃあないの。そりゃあ、お母さんには、ああすればよかった、こうすればよかったって、あとから悔やむことがたくさんあるけれど、でも、『あのときああしてほんとによかった』と思うことだって、ないわけじゃあありません。それは損得から考えてそう言うんじゃないんですよ。自分の心の中の温かい気持やきれいな気持を、そのまま行いにあらわして、あとから、ああよかったと思ったことが、それでも少しはあるってことなの。そうして、今になってそれを考えてみると、それはみんな、あの石段の思い出のおかげのように思われるんです。」「人間の一生のうちに出会う一つ一つの出来事が、みんな一回限りのもので、二度と繰り返すことはないのだということも、――だから、その時、その時に、自分の中のきれいな心をしっかりと生かしてゆかなければいけないのだということも、あの思い出がなかったら、ずっとあのままで、気がつかなかったかもしれないんです。」 「その後悔のおかげで、人間として肝心なことを、心にしみとおるようにして知れば、その経験は無駄じゃあないんです。」(同書 244~248ページ)
コペル君は、母親からのこうした言葉を、目に涙をあふれさせながら聞いているのですが、おそらく映画の中の主人公真人(まひと)も、自分の母親から直接話を聞いているように感じながら、こうした箇所を読んでいたのではないかとも想像します。

 

(7)経験を成長の糧として「よい人間になる」ことを目指す
きっと、今日中学を卒業する84期を含めて、「石段の思い出」のような出来事は、だれにでもあることなのだと思います。そして、この本をこの機会に読むことは、中学時代を振り返り高校生になるにあたっての、一番の心の準備になるのではないかとも思います。この本の最後の方にはコペル君が叔父さんに宛てた、次のような手紙の文章があります。紹介して中学卒業の祝辞を終えます。
「僕、ほんとうにいい人間にならなければいけないと思いはじめました。叔父さんのいうように、僕は、消費専門家で、なに一つ生産していません。僕には、いま何か生産しようと思っても、なんにも出来ません。しかし、僕は、いい人間になることは出来ます。自分がいい人間になって、いい人間を一人この世の中に生み出すことは、僕にでもできるのです。そして、そのつもりになりさえすれば、これ以上のものを生み出せる人間にだって、なれると思います。」(同書 297ページ)
単純な目標ではありますが、経験を成長の糧として「いい人間になる」ことを、まずは目指してくれたら、と願います。

※高校生に向けて:
以上のように吉野源三郎著『君たちはどう生きるか』を紹介すると、中学生向けの本のように受け取られるかもしれませんが、岩波文庫版には「『君たちはどう生きるか』をめぐる回想」という題で、日本の最も優れた政治・歴史学者の一人である思想家丸山真男の解説が掲載されています。本書が、高校生や大学生だけでなく教養のある大人にとっても、どれだけ高度な内容が、見事な筆致によってわかりやすく書かれているかも、理解できる解説になっています。また、丸山氏自身が高校2年生の終わり頃に、戦時下に思想犯として不当に逮捕された留置場経験から、「どんなに弱く臆病な人間でも、それを自覚させるような経験を通じて、モラルの面でもわずかなりとも『成長』が可能なのだ、ということを学んだ」という個人的な出来事も記されています。ぜひ、高校生も解説を含めてこの本を読んだ上で、映画『君たちはどういきるか』が再上映されることがあれば、映画も併せて観てくれるとよいと思います。本と映画とは無関係といいながら、案外、難解ともいわれる映画を読み解く鍵が、この本にはあるかもしれません。