校長先生のお話
《2学期 始業式 校長講話 2024年9月2日》
インド訪問と“resilience(しなやかな強靭さ)”を身につける教育
(1) 夏休みの経験の振り返りから
2学期が始まり、今日から早速授業があります。夏休みは皆にとってはどうだったでしょうか?
校内でのクラブ・文化祭準備の活動や補習、課外活動としては施設への社会奉仕や前島キャンプ、立山キャンプ、クラブの合宿、大阪・神戸へのOB職場訪問や、名古屋等へのフィールドワーク、東京でのガーナからの生徒との交流等、それぞれの学年を対象にして様々な経験をする機会がありました。海外交流の有志企画としては、高校3年生も含めて7名の生徒が、アフリカのガーナに行って現地の高校生たちと交流する貴重な体験をし、学校行事のインド訪問旅行も6年ぶりに行われ、高2・高1の生徒が19名、学校の代表としてインド募金の送金先の施設などを訪問し交流をしました。それぞれ、学期中にはできない心に残る体験をしたことでしょう。自分にとってどんなことが印象に残りどんな意味があったか、どんな気づきや成長があったかを、振り返ってくれたらよいと思います。
(2) 6年ぶりのインド訪問での生徒の前向きな参加姿勢
私自身は、第12回インド訪問旅行に参加したことが、特に印象に残る経験でした。六甲学院着任時から社会奉仕活動に携わっていましたので、第2回、第5回、第7回の3回、インド訪問を経験してきました。14年ぶりで、今回が4回目になります。コロナ禍の2020年と2022年にインド訪問に行くことができなかったため、学校としては2018年以来6年ぶりのインド訪問でしたので、現地の状況を知るためにインド訪問旅行についてゆくことにしました。これまでの訪問では、日本とは環境も大変異なり深刻な現実と直面する中で、生徒が数日体調を崩し病院診療に付き添うケースなども経験してきましたので、そうした役割を担う必要があるかもしれないと考えていました。
私が感心したことの一つは、今回のインド訪問でも腹痛・発熱の生徒は出たのですが、歓迎会や交流会でのスポーツや激しい動きのある出し物のパフォーマンスなど、主要な交流プログラムをしっかりと準備し、大きくは体調を崩さずに皆が熱心に参加できたことです。インドに来ると健康面での不調は、それぞれ程度の差があってもほとんどの生徒は抱えます。今回も恐らくそうだったと思うのですが、多少しんどいと感じてはいても、準備段階での学習会などを通して、自分たちが学校の代表としてインドに来ている意味を理解しているために、前向きに頑張り抜いた面があったように思います。
(3) “resilient mind”を育てる-コロナ禍後のイエズス会教育の方向性
今年の6月末にインドネシアのジョグジャカルタで、イエズス会教育についての世界レベルの会議がありました。インド訪問の中での生徒の様子を見つつ、その国際会議のテーマになったキーワードを思い出しました。その会議では、コロナ禍を経てこれからのイエズス会教育の中で、生徒が身につけてほしいことの中心に「レジリエンスresilience」(またはレジリエント マインドresilient mind )という言葉が挙げられていました。この言葉自体は、3年前のコロナ禍の校長講話の中で私も紹介しています。今はパリでパラリンピックが行われていますが、3年前に行われた東京パラリンピックで、陸上トラック競技をテレビで観戦しているときに、雨が降りしきる中、障がいを持った選手と同伴して走る伴走者に向けて、悪いコンディションの中でもひるまずに走り続けるひたむきな姿に、解説者が使った言葉でした。しなやかな強靭さ、多少しんどいことがあっても粘り強く頑張り抜ける力、危機の中でひるんだりダメージを受けたりしても、すぐに回復して立ち向かえる精神を指す言葉です。弾力のあるしなやかな枝のように、強い風や外圧で曲げられてもポキッと折れることなく元に戻る枝のイメージです。コロナ禍の中で生徒に身につけてほしい能力・精神力として、講話で紹介したのを覚えています。
イエズス会教育の世界会議の中でこの“resilience”「しなやかな強靭さ」(“resilient mind” 「しなやかで強靭な心」)を、今の時代の生徒たちが身につけることを、教育目標として掲げたことは、大変的を射ているように思います。世界中でコロナ禍に人との交わりが希薄になり、内にこもってリアルな生の経験がしにくい状況が継続した中で、若い世代を含めて人々の心が脆弱になったことの影響は、今も根強く残っているからです。夏休みに奉仕活動やキャンプや合宿や様々な研修活動などを、多くの生徒たちがリアルな経験としてすることができたことは、そうした観点からもとても大切なことだと言ってよいと思います。
(4) インド訪問参加者の姿勢に見られる“レジリエンス”と六甲の教育
インド訪問は日本とは環境ギャップがある中で、心身ともにかなり激しく揺さぶられる体験をするプログラムですので、教師側も多くを詰め込み過ぎずに生徒が心身を整えて回復させる時間を取る配慮はするのですが、生徒自身も与えられた時間を活用して自分なりに心身を調整し、多少の不調や困難さは感じていても、インド訪問の目標に沿って、歓迎式典や日本文化の披露や交流会ではできる限りのことをやり抜こうとするグループ全体の意志を、様々な場面で感じました。そして、その生徒の姿勢の中に、この「レジリエンス」を見たように思いました。自分たちなりの役割や責任や目標を自覚していることが、それぞれの内にある「レジリエンス」を引き出すことに繋がっているのではないかとも、生徒を見ていて思いました。
六甲という学校は、日々の掃除や、体育祭の練習や、クラブ活動・委員会活動・社会奉仕活動や、これから始まる文化祭の準備活動も含めて、一つ一つの日常の習慣や行事に取り組む中で、乗り越えるべきしんどさや困難さと出会いつつ、この「レジリエンス」―しなやかで強靭な心―を育てる方向性は、もともと備わっているのかもしれません。そうして鍛えられた心が、インド訪問の場面でも生かされていたように思います。
(5) 弱い立場の人たちを受け入れること-振り返りを通してのグループの成長
インド訪問では、その日その日の経験を、必ず振り返り分かち合う時間を設けます。それをすることが、生徒全体の気づきとなり、一貫したテーマとなり、個人としての成長にもグループ全体としての成長にも繋がります。その出来事の一つを紹介します。
インド訪問の中で、インドに着いて三日目に、コルカタでマザー・テレサの設立した「子どもの家」を訪問しました。そこでは、障がいを持った子どもたちに対して、どう接してよいかわからず、笑顔で話しかけることも手を差し伸べて握手することもほとんどできずに、傍観者的な態度になってしまったという、全体としての振り返りがありました。
そうした反省も踏まえて、私たちがインド募金で支援しているダンバードのダミアン社会福祉センターでは、ハンセン病で家族に見捨てられてしまった高齢の方々やハンセン病に罹(かか)って病院で療養されている方々には、「ナマステ」と言いながら積極的に笑顔で握手しにゆく姿勢が見られました。短い期間の中で生徒の大きな成長が確かにありました。ダミアン社会福祉センターの所長アジャイ神父様は、ハンセン病の元患者の方々をそうした姿勢で受け入れてくれた生徒たちに、本当に感激し感謝されていました。
私たちがインド募金で支援している中心施設、ダミアン社会福祉センター内の学校であるニルマラ学院では、歓迎式典での交流会以外にも、学校の隣にある寄宿舎の寮生たちとの交流を2回行うことができました。両親家族がハンセン病である家庭を含めて、様々な事情で親元を離れて(または帰る家庭がなくて)寄宿舎で生活している生徒たちです。支援している生徒たちとの直接の交流の中で感じたことについては、参加した生徒たちの感想をじかに聞いた方がよいと思いますので、その機会は「報告会」に取っておきたいと思います。
(6) インド募金の実り-コロニーでの支援してきた学校の出身者との出会い
私が、今回のインド訪問の中でこれまで長年インド募金を続けてきたことの一つの実りを感じたのは、訪れたコロニーで出会った22歳の青年から聞いた話です。コロニーというのは、家族がハンセン病に罹って差別を受けたり仕事を失ったりしたために、それまで住んでいたところでは暮らすことができなくなった家族が集まって、助け合いながら生活している集落です。
出会った22歳の青年は、そのコロニーに住んでいて、子どものころからデブリット・スクールに通っていたとのことです。デブリット・スクールは元々親がハンセン病の子弟を受け入れる養育施設として設立され、ニルマラと共に六甲学院が40年以上支援してきた学校です。小学生・中学生だった頃に、3回ほど六甲の生徒たちが日本から訪問団として来てくれて、その歓迎交流会が楽しかったのを、今でも印象深く覚えているとのことでした。現在は大学で経営学(ビジネス)を学んでいて、MBA(Master of Business Administration経営学修士)を修得することを目指している、と話してくれました。
インドではハンセン病の家族がいるというだけで、教育面では普通の学校にも通いにくい現状がありましたから、この若者がコロニーからデブリット・スクールに通えて小学校から高校までの基礎的な学力が習得できたのは、六甲学院の生徒募金の支援があったからこそ、ということができます。そうした中で本人の勉強面での努力もあって大学まで進み、大学院で経営学修士を取って仕事に活かす夢まで持つことができています。生徒たちと写真を撮る機会を持てたことを喜んでいましたが、おそらく支援してくれた六甲学院の人たちと再び出会えた喜びや、これまでの支援への感謝の気持ちがあってのことだったのでしょう。教育がなければ、着の身着のままで街に出て人から金品を請い求めて暮らす「物乞い」になる以外に殆ど生活の手立てがない身の上の人々が、こうして教育を受けて夢を持つことができ、社会に貢献すると共に自分の家族を養うことができるようになるのならば、それは人の一生を根本から変える大きなサポートだと思います。
(7) インド募金の意義の確認と「しなやかな強靭さ」の修得を目指すこと
早速明日から二学期最初のインド募金が始まります。インド訪問参加生徒からの報告はしばらく後になりますが、教育を受けられることの意味やそれをサポートすることの大切さなども考えつつ、インド募金に協力して下さい。
この2学期は、「レジリエンス」―しなやかや強靭さ-を身につけることをテーマの一つとして、一つ一つのことにしっかり取り組んでくれればよいと思います。
《2024年7月19日 終業式 校長講話》
社会変革をめざす3.5%の“さきがけリーダー”になる
1 世界が抱える共通課題と社会正義の実現
六甲学院の創立修道会イエズス会の、今の世界のリーダー(総長)であるソーサ神父は、今年の「世界社会正義の日」のメッセージの中で、現代の様々な不正義・不公正な社会の現実を次のように伝えています。
2022年以降、40万8000人以上が戦争や武力紛争で命を落としており(世界平和度指数、武力紛争発生地・発生事象データプロジェクト)、2023年だけでも1億1000万人以上が難民・移民として避難を余儀なくされています(国連難民高等弁務官事務所)。毎時、砂漠化が6.4平方キロメートルの肥沃な土地を脅かしており(The World Counts)、約25万トンのプラスティックが世界中の海を汚染しています(科学誌「プロスワン」)。2024年世界人口の半数が選挙に参加しますが、2005年から2021年の間60か国が民主的自由度を低下させており(世界の自由2023年)、2022年7億3600万人の女性がジェンダー暴力の被害を受けています(国連女性機関)。5歳未満の子どものうち、10人に3人が急性栄養失調に苦しんでいます(ユニセフ)。
そうした世界の現状を指摘しつつ、ソーサ総長は「私たちはさらに何をしなければならないのか?」と問いかけます。
2 3.5%の人々が非暴力で動けば社会は変わる
こうした様々な現実を突きつけられると、世界の課題は多様で深刻で大規模で、解決するのにはあまりにも自分たちは無力なのではないか、私たちがこの世界を変えることなど、とてもできないのではないかと、取り組もうとする前にひるんであきらめてしまいそうになる人も多いのではないかと思います。希望を持ち続ける手掛かりになる何かがないかと思っていたところ、最近手にした本の中に、“色々な社会変革の事例を調べてゆくと、世界の3.5%の人たちが非暴力で本気で立ち上がると社会は大きく変わる”、と述べている書籍がありました(NHK ACADEMIA 5月28日 斎藤幸平氏紹介)。2022年に出版された「市民的抵抗(CIVIL RESISTANCE)」という書物です。「市民的抵抗」という言葉は、もともとはイギリスの植民地であったインドを、非暴力不服従の方法(市民的不服従の非暴力的方法)で独立へと導いたガンジーが生み出した言葉です。エリカ・チェノウェスというハーバード大学教授が、この「市民的抵抗」という言葉を表題にして執筆した著書で、「暴力に寄らずに非暴力で3.5%が本気で動けば社会は変革する」ことを、様々な実例を検証しながら述べています。
3 NY在住の卒業生のメッセージ-物事を始める最初の5%のリーダーになれ
読みながら3.5%とはどのくらいなのか、もうひとつイメージが湧かないと思っていたところ、ちょうどその実例になる集いがありました。今週7月16日の火曜日に学校の多目的1教室であった中高生の有志の集まりです。毎年春休みのニューヨーク研修でお世話になる39期卒業生の滝浦浩先輩(建築家)が一時帰国され、その講話とワークショップが行われました。そこに集まって来た生徒が約30名、教師が5~6名で、偶然なのですが、1000人の学校でいえば、ちょうどこのくらいの人数が、約3.5%でした。家庭学習日のこの日に、自分たちから関心を持ってわざわざ学校まで来て、このワークショップに参加した人たちです。瀧浦さんの話にインスパイアされて、本気でこの学校を、あるいは1000人規模の社会を変えようと思ったら、変えることができる人数がこのくらいなのか、とイメージがより具体的になりました。
私自身は3時間半講義とワークショップをされた瀧浦氏の話を、30分ほどしか伺えなかったので、全体としての講話の流れを十分把握しているわけではないのですが、ちょうど話を聴いていた時には、物事を始める最初の5%のリーダーになりなさいという話をされていました。新しい分野を開拓したり新しい発想の組織をつくったりするのに、直感的にこれはいいと思ったら、失敗を恐れずに立ち上げる最初の5%のリーダーとして動き出しなさいという話をされていました。安定だけを求めるのであれば、何かの活動をするにも何かを購入するのにも、社会の中で良いものとして認知され評価された後に、それに乗っかるのが普通の人であるけれども、そうではなくて、ある人が新しい何かを立ち上げようとする時に、また新しいものが世に出たりしたときに、その価値をいち早く認めたら繋がり協力する人になることの大切さを、話されていました。そのほうが、仕事として楽しいし、やりがいがあるし、人生が豊かにもなるということです。前提として、日ごろから自分自身が、どういう人たちのために何をしたいか、何を信じどういうことに意味を感じているか、が大事で、そうしたなぜ?・何のために? という、自分なりに大切だと思える動きと繋がるための価値観なり理念なりをしっかりと持っていることが、重要であることも話されていました。様々な課題の多いこの世界の中で、何かしらより良い方向に社会を変えたり、新しい発想で社会を活性化させたりするためには、そうした物事のさきがけとなる3.5%、または5%のリーダーを目指してくれたらよいと思います。
4 若者の社会参加を促すデンマークの青年リーダーとの出会い
今の若者の中で、そうした社会をより良くしていこうとしている3.5%や5%にあたる人たちとは、どのような人たちなのでしょうか? そうした実例になると思える若い人たち最近出会う機会がありました。
今週7月15日の月曜日に、尼崎の園田でデンマークの若者リーダーを招いて、若い人たちの社会参加について考えるシンポジウムを聴講しました。招待されていたのはデンマークの26歳の青年で、社会活動の青年部リーダーを4年間してきたフレデリック・デイラーさんです。若者の社会参加を進める活動を日本でしている同年代の能條桃子さんという方が、デンマーク留学時にこの方のことを知って、日本に招待したとのことでした。フレデリックさんはデンマークの若者運動のリーダーとして、短期間で1000人ほどの社会的影響力を持つ若者グループを育て率いてきました。公共交通機関無償化を掲げた全国キャンペーンや気候変動・環境などへの取り組みを、大臣への手紙を集めて送ったり、ステッカーを街中に張ったりと、若者の意見を社会に反映させる楽しく効果的な企画を、工夫して展開してきた方です。
フレデリックさんによると現代のデンマークで若者が直面している最大の課題の一つはメンタルヘルス(心の健康を保つこと)だということです。デンマークは世界の中で幸福度ランキングがここ数年2位の国なのですが、気候変動や経済的不安などの構造的な問題が若い世代の不安の根底にあって、「未来」への捉え方も、これまでの世代と若い世代では全く異なること、SNSを通して世界で何が起きているかを知ることができるこの時代には、未来を怖いものとして捉えてしまい、経済的にも不安定な生活を強いられている中で、若者が精神的にも不健康になりがちであることが、社会の課題になっていると話されていました。
精神的な安定や心の健康は個人の問題と思われがちですので、現代の社会構造が精神的な健康を損なわせる主要因であるということは、新しい視点ではないかと思います。確かに新型コロナパンデミックから戦争や紛争、様々な気候変動による災害が続き、経済的にも暮らしにくい社会の仕組みの中で、不安定な生活をせざるを得ない若者にとって、心の健康を保つことは社会のあり方と連動する重要な課題であろうと思います。
フレデリック・デイラーさんの社会参加の出発点は、13歳の中学生の時だそうです。自分の住んでいた地域の路線バスの本数が大幅に削減される計画であることを知って、学校の行き帰りも友達の家に遊びに行くにしてもとても困ると思い、寝袋を持って友達数人と路上で泊りがけのストライキをしたと話してくれました。この中学時代の抗議活動は、聞き入れられず実らなかったけれども、とてもよい経験として思い出に残っているとのことです。その後も、学生自治会(日本でいう生徒会)に参加したりして活動を続けていました。聞いてみると日本の生徒会と違うのは、学校を超えた全国的なネットワークがあり、高校生の代表が政治家に要求を伝えることもあるということです。学生自治会の活動の中で、同じ考えを持つ仲間と社会をより良くするために政治に参加することに充実感とやりがいを感じたそうです。そうした仲間と共に社会を作ってゆく、社会を変えてゆく実感が持てることが、心の健康-メンタルヘルス-にも良い影響を与えるということも話していました。こうした新しい観点を持って若い人たちを集め、リーダーとなって最先端の活動をしてきたという点では、瀧浦さんの話されていた「最初の5%のリーダー」のうちの一人と言ってよいと思います。そして、デンマークの幸福度が高いとしたらそれは、社会に問題がないからではなくて、問題があったとしても若い人たちが協力し連帯すれば社会はより良く変えてゆけるという希望が持てるし、実際に力を合わせて社会を変えてきているという実感があるからなのではないかと思います。
5 若者の社会参加で社会が変わる実感が持てる社会へ
そういうデンマークでは、日本よりも若者の社会活動への参加のハードルが低いように思うのですが、それは若い時から政治家になることができ、年齢や人生経験が近い人を選挙で選べるという制度面が影響しているのかもしれません。デンマークでは政治家になるため立候補できる年齢が18歳で、選挙権を得るのと同年齢です。六甲学院では、生徒会の立候補者は高2の16~17歳でちょうど今日決選投票が行われますが、デンマークでは18歳になったら、国政選挙に投票できるだけでなく議員になるための立候補もできるということです。20代の政治家が多くいて、大臣(閣僚)の平均年齢が47.4歳(2018年統計)と若いことも、若者の社会参加によい影響を与えているのだと思います。デンマークの大臣の平均年齢は、統計のあるOECDのデータの中で、35か国中4番目に若く、ちなみに日本は62.4歳で35か国中35番目です。デンマークの2019年の総選挙での投票率が84.6%で、同じ年の日本の参議院議員選挙は48.8%、2年後の衆議院議員選挙では55.9%です。
政治によって社会が変わるという期待度が極めて低いのが今の日本の課題の一つであるように思うのですが、若い政治家を増やし、投票によって人を選ぶことで社会は変わり得るという意識を持つことができたら、投票率ももっと高くなるのかもしれません。実際に、こうした状況を変えるため、若者の社会参加や投票を呼びかけ、被選挙権の年齢を下げる活動をしているのが、今回デンマークからフレデリックさんを招待した能條さんで、「NO YOUTH NO JAPAN」という団体の代表をされています。日本にそうした若い世代を中心にしたグループがあることも、私にとっては希望を感じることができる出会いでした。日本社会はこのままではいけないと、社会を変えることを目指して、本気で立ち上がった3.5%のグループの一つではないかと思います。
6 世界中の人々と共感・団結して心の健康と社会の変革をめざす
フレデリック・デイラーさんは「世界中の人と共感し、団結することで心の安定を得ることができる。現代の社会の中で心の健康を保つことは、個人の問題ではなく構造的な社会の問題であり、社会が変えるべき問題です」と述べています。話の最初に述べたように、世界には数々の社会課題があり、そうした深刻な課題が未来についての不安につながり心の健康に影響することも確かです。自分や周りの人たちの精神的な健康・健全さを保つためにも、どの社会課題を入り口としてもよいので、社会を変えていこうとするさきがけの3.5%・5%の人間に、一人でも多くの六甲生がなってくれたらと期待しています。社会課題に取り組む活動と繋がったり、自分がそうした活動の担い手になることが、自分や周りの人たちの心の健康を保つことに繋がり、社会をより良い方向に変えることにも繋がると思います。そのために、日ごろの学びと経験を通して広い視野と大きな志を持ち、社会を変える“さきがけ-リーダー”となってくれたらと願っています。
《2024年4月6日 一学期始業式 校長講話》
「復活」という出来事-出会いの喜びと希望の源泉として
(1)新しい命の息吹-新学期と復活祭のお祝い
2024年度の新学期が始まりました。3月に、幾分寒い日々が続いたおかげで、ちょうど新しい学年が始まるこの時期に、桜の花が美しく花開き、新しい命の息吹を感じられる季節になりました。教会の暦では、この前の日曜日3月31日が復活祭でした。イースターとも呼ばれるこの復活祭は、春分の日の後の最初の満月を迎えた次の日曜日と決められています。早ければ今年のように3月末、遅いと4月中旬過ぎになることもあります。キリスト教の信仰の中では、イエスの誕生を祝うクリスマスよりも、意味のある大切な日です。聖書には、受難の苦しみの末に十字架上で亡くなって、3日目の早朝にイエスの墓に弟子たちが行くと、その墓に安置されているはずのイエスの亡骸(なきがら)はなく、女性の弟子たちを初めとして、幾人かの弟子たちが、亡くなっているはずのイエスと出会うという不思議な出来事が記されています。
イエスに新しい命が与えられて、目の前に姿が見えて会話もしたということを、もちろんにわかには信じがたい弟子たちでしたが、イエスとの出会いを驚きながらも喜び、仲間たちに知らせる様子が聖書には記されています。世界中のクリスチャンはこの出来事を、イースター・復活祭で祝います。皆が通学路の途中で前を通るカトリック六甲教会でも、3月31日のミサの後には、教会学校に通う子どもたちが、新しい命の誕生のお祝いとして、スヌーピーなどの絵柄をつけたゆでたまごを配っていました。その日は、六甲学院のラグビー部の生徒たちが、合宿中でミサに参加していましたので、絵柄のついたゆでたまご(イースターエッグ)をもらった生徒もいたかもしれません。世界中の教会で、思い思いに絵を描いたり、きれいな模様の紙やセロハンで包んだりして、この日はゆでたまごを配ってイースターを祝っています。
(2)フィリピンでの復活祭-イエスと母マリアとの出会いを喜び祝う
私がこれまで参加した復活祭の中で、最も喜びをもって迎える人々の姿を見たのは、フィリピンのマニラでした。イエズス会大学のアテネオ・デ・マニラの研究施設で3か月学んだ最後の週の日曜日が、復活祭の日でした。16年前、2008年の3月30日です。その地域一帯に住む人たちは、早朝3時頃から、私のいた大学の隣にある国立のフィリピン大学の広大なキャンパスに集まります。キャンバスの最も離れた両端の2箇所に置かれた、7~8メートルほどのイエス像と、イエスの母親のマリア像の周りに、それぞれ集まって長い行列を作ります。その2つの像は、日本の祭りの山車(だし)のように大きな車輪がついた台車に乗っていて、動かせるようになっています。その地域の人たちはまだ暗いうちから集まり、その山車に乗せた像はそれぞれに、キャンパスの両端から中央にあるグラウンドを目指して近づいてゆきます。大勢の民衆はその像を囲んだり後に行列になってついてきたりして、朝の5時頃でしょうか、薄明るくなったときに、イエスとその母マリアはグラウンドの中央で出会います。
聖書には書かれていないのですが、キリスト教の伝統として、復活したイエスが最初に出会ったのは母マリアだったという言い伝えがあります。フィリピンのその地域では、伝承に則(のっと)って復活祭を迎えます。2つの像が出会ったときの拍手や喝采(かっさい)は陽気な国民性もあって大変なもので、子どもたちは、用意していた南国の草花の花びらを、満面に笑みを浮かべながら二つの像に向けてふり撒(ま)きます。その後に、数千人集まっての荘厳なミサが、グラウンドで始まります。それまでもその後も、復活祭の祝い方として、これほどの喜びを表したものはありませんでした。
それだけ喜ぶのは、ただ、人の命が死んで無に帰すのではなく復活の命のうちに生きるという希望を示されたというだけではなく、とても親しい大事な人が死んでもう二度と会えないと思い込んで嘆き悲しんでいたのに、思いがけなく生きているその人と出会えたという、母マリアや弟子たちの喜びを追体験することができるからだろうと思います。
(3)人間の弱さ・醜さ・残忍さが表れる受難の出来事
聖書の中で、復活の物語だけ読むとやはり何か非現実的で、にわかには信じがたい話ではあるのですが、その前の受難の出来事から読むと、聖書は決して夢物語ではなく、人間の弱さや醜さや残忍さがかなりリアルに表現されている書物であることが分かります。
当時のユダヤ社会の祭司や律法学者など宗教リーダーたちは、民衆の心を捉え引き寄せるイエスの言葉や行いに嫉妬し、その妬(ねた)みの感情が悪意を生み、それがイエスを十字架刑へと物事を進ませる動機の中心になっています。そうした人間の嫉妬心や悪意の恐ろしさが、聖書には表現されています。
もう一つは凶暴化した群集心理の恐ろしさです。イェルサレムの人々は、イエスが支配者ローマ帝国に対抗するリーダーになりうると期待していました。そうした思いの中で、歓喜のうちにイエスをエルサレムに迎え入れた民衆たちも、イエスを亡き者としようとしている宗教リーダーに扇動されると、十字架につけることに賛同してゆきます。少し煽(あお)られて一旦残忍な刑につけることに付和雷同すると、その集団の言葉や行動は、穏便に済ませようとした政治のリーダーにも止められないくらいの凶暴な勢いになります。扇動に容易に乗って徒党を組んだ人間は、一人ひとりが悪人でなくても、集団としていくらでも残酷になれる恐ろしさがあります。罪びととしてイエスを捕らえた人々も、イエスを侮辱しなぶりものにし暴力をふるいます。集団化して凶悪化することは、子どもの間でのいじめから紛争地域の虐殺行為まで、今の時代でも人間の行為として続いていることです。
さらに、イエスの最も傷つき心を痛めた出来事は、宣教活動の中で共に生活し身近にメッセージを伝え、最も親しく理解してくれていたはずの弟子たちに、裏切られたことではないかと思います。十字架刑につけようとする人々にイエスを引き渡す手引きをしたのがユダという弟子でした。弟子のリーダー格だったペトロも、イエスが捉えられた後は、自分の身の危険を感じて、イエスとは関りのない者として振る舞い、イエスを助ける手立てを考えるよりも自分の身の保身を先に考えています。イエスの十字架刑に向かわざるを得ないと知った時の心の揺らぎや、最も信頼していた神も自分を見捨てたのではないかという思いも、聖書の中では表現されています。
(4)人間への失望・絶望から喜び・希望へ向かう復活の出来事
そうした人々の持つ心の醜さ、弱さ、残忍さ、裏切り、イエスの死への恐怖や信じていたものへの心の揺らぎなどを経て、その結果、苦しみの末に命を落としたイエスが、死ですべて終われば、キリスト教も生まれる余地はありませんでした。新しい命を与えられて生きているイエスと弟子たちとの出会いと交流が、なんらかの形であったことが、彼を信じる教会共同体の誕生に繋がります。
人間への失望や絶望感だけを残して終わってしまうような出来事のあとに、新たな命との出会いを感じさせるような喜びと希望につながる出来事が起こったこと、それがキリスト教徒にとっての復活祭になります。キリスト教は苦しいことや悲しいことがあったとしても、そのままでは終わらず、苦しみ・悲しみを経た後には喜びがあることを信じる宗教です。ヨハネ福音書16章にはイエスの言葉として「あなた方は悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。女は子どもを産むとき、苦しむものだ。しかし、子どもが生まれるとき、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。」とあります。受難の苦しみを経て新しい命を与えられた人との出会いを、弟子たちは身近に体験し喜びに満たされることを、イエスが予告している言葉のようにも読み取れます。
キリスト教には、どんなにひどく真っ暗な状況の中でも、光を見出そうとするどこか楽観的なたくましさがあります。私は時々復活祭の早朝、まだ暗いうちに大学のキャンパスに集まって、復活したイエスと出会い、明るくなってゆく中で喜びを分かち合うフィリピンの人たちを思い出します。大多数が貧しい人たちで日々の生活は楽なわけではないのですが、にもかかわらず底抜けに明るいたくましさを持っています。その源泉は受難から復活へと至る道があることをみなが信じており、思いを分かち合える仲間、共同体があるからなのではないかとも思います。
(5)私たちの出会いと希望の源泉でもある復活の出来事
復活の出来事を信じるか、信じないかは信仰の領域になるのですが、この出来事がなければ、キリスト教もイエズス会もなかったわけなので、今の六甲学院の建物もなく、生徒が集まるような学校もなく、クラスメイトとの出会いや先輩後輩との人間関係や教師と生徒とのつながりもなかったのかと思うと、不思議なことだと思います。私たちのこの学校での「出会い」や人間的なつながりそのものが、復活の出来事があったからこそ与えられた贈り物のようにも思えます。
新約聖書で「復活する」と訳されている動詞は「アニステーミ」と「エゲイロー」というギリシャ語で、どちらももともと「立ち上がる」「起き上がる」という意味だそうです。人間の弱さや醜さや、悪意を受けることから来る悲しみや苦しみは、だれにでもありうることです。それで立ち上がれないような状況に陥ることがあったとしても、起き上がれるたくましさは、これからの困難な時代を生きる私たちには必要なことなのではないかと思います。そして、大人になった卒業生たちを見てみると、危機の時に支え合い信頼できる人間的なつながりが、同期や先輩後輩の中にある人が多いようにも思います。そうした人間関係を築く場としても、この学校の存在は貴重なのかもしれません。信頼できる人間のネットワークを作りながら、希望を見出すことの難しい真っ暗に思える世界の中でも、希望の光を見出すたくましさを、キリスト教精神を基盤にする六甲の学びの場の中で、身につけられたらと思います。
《2024年4月6日 六甲学院中学校 87期生入学式式辞 校長講話》
六甲学院での「経験」から「夢」を見出す6年間に
(1)満開の桜の中で-87期の入学式
新入生の皆さん、六甲学院中学校へのご入学、おめでとうございます。
保護者の皆様、ご子息の六甲学院へのご入学、おめでとうございます。
ちょうど、桜が美しく花開いているこの日に、入学式が迎えられることを嬉しく思います。
新入生の皆さんは、六甲学院の87期生となります。
中学を入学するに当たって、おそらくこの長く急な坂道を、毎日重い荷物を背負いながら、通い続けられるだろうか、という心配から始まって、この学校の習慣になじめるだろうか、とか、勉強にはついていけるだろうか、というような不安もあるかもしれません。その一方で、学校説明会や入学オリエンテーションで案内された広々としたグラウンドや蔵書が充実し眺望も素晴らしい学習センターや、理科実験室・庭園などを知るにつれて、この学校で6年間を過ごせること思うと、期待や希望に胸をふくらませている新入生もいることと思います。
(2)一生涯続く先輩と後輩の人間関係-グローバルな広がりの中での成長
学校生活については、入学オリエンテーションですでに紹介されている中1指導員をはじめとして、クラブや委員会などで世話になる先輩たち、また校舎内で出会う先輩たちに、わからないこと・知りたいことがあれば、聞いてみたらよいと思います。きっと懇切丁寧に答えてくれるはずです。
特にこの学校の90年近い伝統の中で、はぐくまれてきたのは、様々な日常の学校生活や活動・行事において、先輩と後輩との間で共に成長する人間関係です。先輩が後輩を指導し、世話をし、自分の経験を分かち合い、アドバイスをする人間関係は、これからの6年間の中ではぐくまれながら、卒業してからも長く続いてゆきます。
例えば、この春休み中の行事、新高校3年生、新高校2年生のうち18名が参加した「ニューヨーク研修」では、最初に到着したアメリカ合衆国の首都のワシントンDCにもニューヨークにも卒業生がいて、アメリカで生活し仕事をすることの意味や喜びや大変さなどを、体験談も含めて分かち合ってくれています。そのうちの一人は、東京大学を卒業した後に中南米の発展途上国のスラムと関わるようになり、ワシントンDCの国際開発銀行の職員として働き、特に現在は中南米カリブ海沿岸の貧困地域に赴いて、経済格差と困窮した生活の改善に取り組む現地NGOのプロジェクト支援活動をしています。
また、昨年6月に初めて実施されたシンガポール・マレーシア研修は、高校2年生全員が参加する行事ですが、そこでも5人の卒業生が海外での自分の仕事について話をし、職場や大学を案内してくれました。そのうちの一人は特に脳の医学研究のために本拠地をアメリカからシンガポールに移して、大学内で研究活動をしており、その広々とした研究施設を見学する機会がありました。
昨年は初めて、中学3年生から高校2年生の22名の希望者がカンボジアへも研修旅行に行きました。首都プノンペンでは二人の卒業生が生徒たちの世話をしてくれました。そのうちの一人は、京都大学を卒業した後に、国連の支援のもとに行われた民主的選挙に国連ボランティアとして参加したことをきっかけに、カンボジアと30年以上にわたって関わっています。戦乱で荒廃した後の国の復興のために、主に現地に秩序をもたらす法律の作成に携わっています。日本国内でも同様で、東京・大阪など行く先々で、進路について考えている後輩たちに、親身になって話をし、職場を案内してくれる先輩が数多くいます。
生徒たちはそうした学校内から世界への広がりの中で活躍する先輩と交流し経験を見聞きして、進路について考え、自分なりの希望や使命を見出したり、こういう人になりたいという「めざす人間像」を見出したりして、その目標に向けて成長してゆきます。
(3)海外のイエズス会姉妹校のつながり-交流経験から進路選定へ
こうした世代を超えた先輩・後輩とのつながりの深さは、六甲学院の最も大きな特徴の一つです。それとともに、六甲学院はイエズス会学校として、世界中の姉妹校とつながり、ネットワークを生かした教育活動をしています。アメリカ合衆国のワシントンDCには、イエズス会の運営する世界的にも有名なジョージタウン大学があります。今回の訪問で大学案内の世話をしてくださったのは、かつて六甲学院で働かれていたアメリカ人イエズス会司祭ファージ神父の友人でした。ニューヨークでは、イエズス会系列の3つの高校、フォーダム高校、セントピーター高校、クリストレイ高校と交流する機会があります。カンボジア訪問旅行でも、生徒たちはシソフォンという地方の町にあるザビエル学院という姉妹校を訪れ、交流する機会を持ちました。
先輩との交流の中では、先輩たちの貴重な海外経験を話してくださいますし、姉妹校交流では、世界で同じ教育方針のもとに学ぶ生徒たちとの交流そのものが貴重な経験になります。そうした他者の経験に学んだり、自分たち自身が経験することを通して、生徒たちは、自分たちなりの将来の夢や希望をもち、進路を選んでゆく生徒が、六甲学院の中では比較的多いように思います。
(4)今年の中学入試国語問題-東大2023年入学式祝辞から
今年、2回の中学入試、国語の長文問題4問の中で、昨年4月12日の東京大学の入学式の祝辞の文章を扱った出題がありました。馬渕俊介(まぶちしゅんすけ)という方の祝辞です。彼は「世界の貧困や感染症に立ち向かう仕事」に従事してきていて、最近では「新型コロナのような感染症の壊滅的な大流行を二度と起こさないための国際システムの改善を提案」しています。「世界の感染症対策をリードするグローバルファンドという国際機関」に所属して「途上国の保健医療システムを強化して、感染症のパンデミックを起こさないように備える」部局のリーダーをしています。東京大学に入学した学生に向けて、「夢」についてと「経験」について、話をしています。彼自身が入学したときに決めたことは「人生をかけて取り組むことを決めたい」ということだったそうです。
(5)途上国の理不尽さの体験から抱いた「夢」
大学の授業でパプアニューギニアの先住民の儀礼を映像で見て、その美しさに感動し、異文化に飛び込んで学ぶ文化人類学者になりたいと、はじめは思っていたそうです。しかし、実際に途上国に行って見たことは「子どもが病気になっても医者も薬もない状況、毎日重労働と日焼け、栄養不足でおばあさんのような顔をしている若いお母さん、地域に根深く残る差別から仕事の機会がなくて、くすぶっている同年代の若者など」の多くの理不尽だったそうです。「自分は、学者としてそこから学ぶだけで終わりたくない。人々が自分たちの文化に誇りを持ちながら、理不尽と戦って、 日本なら簡単に直せる、あるいはかかることもない病気に命や可能性を奪われずに人生を生きられる、そのサポートをしたい」と思うようになったということです。彼がこのとき抱いた夢が、その後の人生の中で形になって、今も続いているという話です。そして、入学した皆に「夢に関わる、心震える仕事をしてほしい」「夢は、探し続けて行動し続ける人にしか見えてこない」という2つことをアドバイスとして伝えています。
(6)「経験」の組み合わせから危機を乗り越え問題解決へ
もう一つのテーマ、「経験」についてですが、彼は西アフリカで2014年に大流行したエボラ出血熱の緊急対策チームのリーダーを任された時の話をしています。感染者の半数が死に至るという恐ろしい感染症です。緊急対策にかかる費用を迅速に運用できるような仕組みづくりをし、感染が広がりやすい死者の埋葬について「現地の人たちの大切な価値観」を尊重しつつ、感染リスクのない「安全な尊厳ある埋葬」の方法を、話し合いのすえ見いだして、爆発的に広がっていた感染が一気に落ち着いたそうです。立場の全く異なる人たちが話し合いの場を持ち、自分もそれまでしてきたいくつかの重要な分野の経験を組み合わせることで、危機的な状況を乗り越え問題解決をすることができた、ということです。そして、彼はこのときの経験から、貧困や感染症、気候変動のような世界の問題に立ち向かうにあたって、問題が複雑に込み入っていて本当に自分のしていることが問題の解決に役立つのかと思うことがあっても、「世界は変えられるんだ」という希望を持つことができたと言います。六甲学院の入試問題として、こうした内容の文章が選ばれるのは、六甲のめざす方向性と繋がっていて、受験する生徒たちにぜひ読んでほしいという思いがあるからでもあります。
(7)六甲学院での「経験」から人生をかけられる「夢」を見出す
六甲学院の教育モットーは全世界のイエズス会学校共通の「他者のために、他者とともに」生きる人間、“For Others, With Others” です。昨年の東京大学入学式のこのメッセージは、そのまま“For Others, With Others” をめざす六甲学院の生徒たちに当てはまるように思いますし、今の若い人たちに向けての普遍的なメッセージでもあるように思われます。そして、六甲学院においては、「夢」を持つにあたっても、現場で様々な「経験」を積むことについても、すでに中学時代から、歩み始めることのできる恵まれた環境にあります。日常の生活の中で接する先輩との交流からはじめて、フィールドワークや社会奉仕活動や研修旅行など、グローバルな経験も含めて様々な経験の機会をつかみ、生かしてくれたらよいと思います。また、学校の進路の日や、国内海外の研修旅行を通して、先輩たちの物事に取り組む姿勢や、先輩がどんな選択を経て今の道を歩んでいるか、などを学んでほしいと思います。そして、そうした夢や経験を見聞きする中で、自分にとって人生をかけてしてみたいことや「夢」を、これからの6年間で見出してくれたらと願っています。
《2024年3月19日 三学期終業式 校長講話》
「経験」と「振り返り」を通してFor Others, With Othersの生き方へ
-現代の世界情勢の中で“善いサマリア人”を目指すということ-
(1)イグナチオ的教育法-経験→振り返り→次の行動の選択→実践(経験)のサイクル
六甲学院はイエズス会学校として、教育方法にも創立者イグナチオの精神が生かされています。その教育方法の基本は、一人ひとりの経験を大切にし、経験を振り返る時間を設け、その中で経験したことの意味を見出し、それをもとに次の行動を選んで実践することです。経験から振り返り(内省)へ、さらに次の行動を選択し実践(経験)することへ、そうしたサイクルの積み重ねの中で、自分の適性や将来の方向性や進路や意味のある生き方を見出してゆくところに特徴があります。この場合の「経験」とは、日常の中の些細な出来事を含めて、自分の心に触れるもの、感情を揺り動かすもの、思索や内省へと促すものすべてを指します。日々の地道な授業も清掃も経験ですし、友人との出来事も、朝礼や講演会で聴く話も、クラブ活動や委員会活動、体育祭・文化祭・強歩大会・研修旅行などの行事も経験です。
経験したことをそのままに放置しないで、自分の心を大きく動かしたり感動したりした出来事に着目しつつ、経験の奥にあるメッセージを見つけ出してゆくことが、「振り返る」という行為です。六甲で物事の区切り目にしている「瞑目」は、そのための時間でもあります。「振り返り」の中で気づいたメッセージ(経験の意味)をもとに次の行動を識別し(選び)、それを実践することが新たな経験となります。そうした積み重ねの中で、自分の生き方や進む道を選んでゆければよいと思います。先ほど84期中学卒業式で紹介した『君たちはどういきるか』(吉野源三郎著)の、コペル君のお母さんの「石段の思い出」などは、その好例としても読むことができます。最近聞いた今年の81期卒業生の経験を例として、紹介します。
(2) 社会奉仕活動と海外研修の経験の繋がりから進路選択へ
3月9日(土)、高校の卒業式の一週間後に、六甲学院受験を考えている児童と保護者向けに中学入試報告会をしました。その中で卒業したばかりの81期生2名と四宮先生とのクロストークがありました。一人は国立大の法学部に合格しているのですが、なぜそういう進路を選んだのかを四宮先生から聞かれたときの答えが印象に残りました。
入学時、六甲は第一志望であったわけではなく、最初は腐る気持ちもあったのだけれども、「せっかくここで6年間を過ごすならば、前向きに」と気持ちを切り替えたそうです。そして、六甲ならではの活動の一つが委員会活動だと思い、いくつかの委員会活動を経験しました。自分には社会奉仕員会が肌に合っているように思えたので、そこにコミットするようになりました。その中で、ホームレスの方への炊き出し活動などができたことは、貴重な体験だったようです。法学部を選んだのはニューヨーク研修に行ったことがきっかけでした。姉妹校フォーダム高校の生徒たちと、ワーキングプア(working poor-働いてはいても貧しくて、日々の食事にも事欠く人たち)への炊き出し活動を案内していただきました。その施設には法律相談所が併設されていて、そこでの説明を聴く中で、法律を通して社会的で困窮する人たちを助ける仕事ができることに目が開かれて、六甲でしてきたことと将来していきたいこととがつながりました。それで法学部に行く決心をした、という話をしてくれました。
(3)六甲学院ならではの経験からFor Others, With Othersの生き方へ
この卒業生の体験からもわかるように、春休みに行われるニューヨーク研修旅行では、格差社会の現実を知り、繁栄の陰にある貧しさに触れることが目的の一つです。マンハッタン地区の北にあるブロンクス地区のフォーダム高校を訪れ、高校からも近く生徒の社会奉仕活動先にもなっているPOTSという福祉施設に行きます。
1階は炊き出し活動のための食堂や食料倉庫があり、地下には医療相談・診療所や散髪やシャワー室があり、2階が経済的支援も含めた法律相談所になっています。クロストークを聴きながら、六甲学院で学んでいたからこそ見聞きすることのできた話や経験や出会いを通して、自分なりに志を持つ人が育っていることを、大変嬉しく思いました。その志が、働いてはいても炊き出しに並ばざるをえないような、社会の中で弱い境遇の人たちの側に立つ仕事をしたい、そのために法律をしっかりと学びたいという、そのままFor Others, With Othersの生き方に繋がるものでしたので、これからも陰ながら応援したいとも思いました。
(4) 民族・宗教の違いによる敵対関係や差別偏見を超える“善いサマリア人”
Man For Others, With Othersを最初にイエズス会教育のモットーとして提唱したのは、アルペ神父でした。彼自身が第二次世界大戦中に原爆が投下された広島で、爆風と閃光によるけが人を懸命に助け、Man For Others を実践した人物であったことは、1学期の終業式で述べました。アルペ神父が “Man For Others” という言葉で第一にイメージをしていたのは、聖書の中の善いサマリア人の譬えの中の、追いはぎに襲われて大けがをした人を助けたサマリア人でした。恐らくこの個所は、一年間で朝礼やMAGISの日、先日の高校卒業式のサリ理事長の話を含めて、最も多く登場した聖書の話ではなかったかと思います。
ルカによる福音書10章で、「私の隣人とはだれですか」という律法の専門家の問いに対して、イエスが答えた譬え話です。
「ある人がエルサレムからエリコへ下っていく途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じようにレビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶとう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨2枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います』さて、あなたはこの3人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
この話の中で一つ背景知識として知っておきたいことは、当時、怪我をしたユダヤ人と助けたサマリア人とは、民族的にも宗教的にも敵対関係にあって、お互いに話をするのもはばかれるような間柄だったことです。それにもかかわらず、このサマリア人は、敵対意識や偏見や差別感情を超えて、「その人を見て憐れに思い」、助ける行為に出ます。人として怪我をして苦しんでいる人を放っておけないという気持ちが、すべての壁を超えて、その人を助ける行動へと動かしたのだと思います。今の時代の人間にこそ必要なメッセージが含まれています。
(5) ヨルダン川西岸地区の現状取材―安田菜津紀さんの記事から
この聖書の譬え話の中に出てくる「エリコ」という町は現在も存在しています。報道でも時々聞かれる「ヨルダン川西岸地区」に位置しています。パレスチナ人の主な居住地域は、西を地中海、南をエジプトに接する「ガザ地区」と、東をヨルダンに接する「ヨルダン川西岸地区」との2か所が、パレスチナ自治区としてあります。「パレスチナ自治政府」はありますが、現実には自治区の半分以上がイスラエルの軍事支配下に置かれています。
岩波書店の『世界』という雑誌の3月号に、フォトジャーナリストの安田菜津紀さんが、昨年の暮れから今年の初めまで、このヨルダン川西岸地区に行って取材した記事が載っていました。これまで中東や東南アジア、アフリカ、東日本大震災の被災地などを取材してきた人です。この方は、広島学院のある社会科の先生の前任校での教え子であり、上智大学の卒業生でもあります。そうした縁もあって、昨年の夏休みに六甲学院の先生を含めてイエズス会4校の先生方20人程が、鎌倉の「アルペ難民センター」という所で、安田さんからお話を伺う機会がありました。常に紛争地や被災地に暮らす女性や子どもたち、また日本社会の中で暮らす外国にルーツを持つ難民・移民など、弱い立場の人たちの側に立って、写真を撮影し記事を発信し続けているジャーナリストです。
安田さんは、パレスティナ・ガザ地区に暮らす友人たちの声や、ヨルダン川西岸地区の「自治区」に暮らす人たちの現状を紹介しながら、今回のイスラエル軍の侵攻以前から、パレスチナの人たちの生活は、人として「尊厳ある暮らしを保つことが困難」であった上に、今回ガザ地区は「攻撃により、学校や病院、道路、生活に欠かせないインフラはことごとく破壊され、これまで以上に人間が住居不可能な空間となってしまった」と述べています。そして、ガザ地区での戦闘は昨年の「10月7日、ガザを実効支配するイスラム組織ハマスがイスラエル市民を攻撃したことをきっかけに」起きたという文脈で報じられることが多いのですが、事態はその日に急に始まったわけではないことを伝えています。
ガザ地区と同様にパレスチナ自治区であるヨルダン川西岸地区を今回訪れた安田さんは、そこでは「昨年7月にもイスラエル軍の激しい侵攻」があり、10月7日以降も「襲撃の頻度が増している」ことを報告しています。1万4000人のパレスチナ人が住む西岸地区内のジェニン難民キャンプでは、日常的に普通に暮らす家庭にイスラエル兵が踏み込み、お金を強奪し家を踏み荒らすようなことが頻繁に起きており、上空を飛ぶドローンの攻撃による爆発音や銃声も日常の出来事になっています。安田さんが取材した話の一つには、昨年11月末に路上で遊んでいた15歳と8歳の少年がイスラエル兵に「テロリスト」として射殺されたという出来事が紹介されていました。パレスチナ自治区と呼ばれ、この難民キャンプはパレスチナ自治政府が行政・治安の権限を持つ地区であるとされながら、自治区とは名ばかりの実態であり、こうした理不尽な状況が国際社会の中で放置されてきたことは問題視する必要があることを、今回の取材記事の中で、安田さんは伝えていました。
聖書の中の善いサマリア人の譬えの舞台になるような地域が、未だに民族や宗教などの違いを乗り越えられず、殺傷を含む理不尽な暴力が続いていることは、ほんとうに人類として悲しむべきことだと思います。
(6) 日本で暮らす私たちが難民や移民の隣人となること
安田さんの著書の中には、「隣人のあなたー『移民社会』日本でいま起きていること」という岩波ブックレットの中の一冊があります。海外にルーツを持ちつつ、安全で平和な生活を求めて日本に来る人たち-難民や移民や外国人労働者たち-にとって、日本で暮らす私たちは本当の「隣人」になることができるだろうか? 特に生命の危機を感じて日本に避難し、ここで市民として暮らすことを望む人たちにとって、私たちが「隣人」となるためには、社会や自分自身をどう変えてゆく必要があるだろうか? 外国から日本に来て懸命にこの社会の中で暮らそうとする人たちのことを取材しつつ、そうしたことを問うているように思います。学習センターには、カウンター前に青木光博先生の紹介で、この本が展示されていますので、ぜひ手に取ってくれたら、と思います。
(7) 国内外で弱い立場に苦しむ人たちへの取材の原点―マイノリティの視点から
安田さんがなぜ、国際的な関心の中で苦境にある女性と子どもの視点に立った取材をされているか、また日本の中での難民や移民への関心を持っておられるのかについては、著者紹介や著書を読むと、ある程度推察することができます。16歳の高校生のときに「国境なき子どもたち」友情のレポーターとしてカンボジアで貧困にさらされる子どもたちを取材した経験があること、また、パスポートを取得するにあたって、自分の父親が韓国籍であったことを初めて知ったこと、そうした経験が世界の弱い立場にある人たちに向けて目が開かれるとともに、日本の中で外国をルーツに持つ人たちが、現在どういう境遇にあるかについて、目を向ける契機になったのだと思います。
『あなたのルーツを教えてください』(左右社)という本の中では、次のように述べています。
「私自身もまた、ルーツを知るまでは、自分や家族が『日本人』であることを疑わず、そうした意味での社会的「マジョリティ(多数派)」として生きていました。……韓国を「日本より遅れている国」という文脈で報じる映像を、無意識に受け入れてしまっていたのです。それどころか、「変な国だな」と、自分とは違う『異質な何か』として考えていた節さえあります。こうして自分が日本社会で「マジョリティ」でいる限り、差別やヘイトの問題は、私の皮膚の外側にあるものとして、痛みを感じることすらなかったのです。……自分の出自(しゅつじ)が、実は「矛先を向けられる側」にあると知るまで、私はその刃がどれほど人の心を、生活をずたずたに切り裂いてきたのか、肌感覚で考えたことがほとんどなかったと言っても過言ではありません。」(17ページ)
そういう安田さんは、マジョリティ(多数派・大多数の側)としてではなくマイノリティ(少数派・少数の側)の立場で、同じ社会のマイノリティの人たちの側に立って社会を変えてゆく使命を感じて、フォトジャーナリストの道を選んできたのでしょう。社会の中で人間の尊厳を大切にされずに差別されがちな立場の人たち、子どもや女性や民族として少数の人たちが、苦境にあるとわかった時に、放ってはおけないという思いになったのではないかと思います。
(8) 経験と振り返りを通して―誰の「隣人」になりたいと思うか?
日々学ぶための原動力としても、進路を考えるにあたっても、六甲学院では「経験」と「振り返り」を大切にしています。訓育や社会奉仕、行事や海外研修の経験が有機的につながり、高い学びへと向かえばよいと思います。もちろん、望む進路に向かうために最も必要なのは日々の授業で身につける基礎学力ですので、それを十分身につけた上での進路選択です。世界の情勢を幅広く見ながら、自分が「誰を放っておけないと思うか」「誰の隣人になりたいと思うか」を大事な観点にしてくれたら、と思います。現代にあって「善いサマリア人」のような行為ができる人、For Others, With Othersを生きる人になることは、大きなチャレンジですし、めざすべき目標にもなると思います。そして、最初に述べた81期の卒業生やフォトジャーナリストの安田さんのように、自分の経験が将来自分のしたいことや使命と結びついて、大学の進路や仕事に繋がっていけばよいと思います。自己実現の道が、他者の幸せを実現する道でもあると、自然に思えるような選択ができれば…と願っています。
《2024年3月19日 六甲学院中学校 84期生卒業式 校長式辞》
『君たち…』の成長―経験の意味を振り返ることを通して「いい人間になる」
(1)84期中学3年生の卒業にあたって
84期中学3年生の皆さん、卒業おめでとうございます。中高一貫校である六甲学院の場合、中学卒業という区切り目は、一人ひとりがよほど意識しないと、実感があまり湧きにくいかもしれません。ただ、84期生は、学年主任石川先生を中心に学年団のご指導の下に、自分で考え行動する自律した大人に向けて成長してきた学年であると思います。84期生には学びの面でも行動の面でも、今後も、謙虚に学び続ける素直さを生かして、自律した一人の人間としての成長を、期待しています。この学年から始まった「中3卒業論文」の取り組みも、自分で思考し判断し行動する人になるための一ステップになればよいと思います。
(2)アカデミー賞ダブル受賞-暗い世相の中での明るいニュース
さて、最近の世界を見渡すと21世紀も四半世紀を迎えようとしているこの時代に、ウクライナやガザでは相変わらず陰惨な戦闘が続き、国内では政党の派閥による裏金問題は納得のいく解決には程遠く、元旦に起きた能登半島地震も被災者が希望を持って生活再建に向かうには遠い道のりであることが察せられて、明るいニュース報道がほとんどありませんでした。そうした中で、一週間前の映画のアカデミー賞ダブル受賞は、久々に入って来た明るいニュースでした。『ゴジラ-1.0(マイナスワン)』が「視覚効果賞」を受賞し『君たちはどう生きるか』は「長編アニメーション賞」を受賞しました。日本アニメの受賞は同じ宮崎駿(はやお)監督が2003年に『千と千尋の神隠し』で受賞して以来、2度目の快挙です。
(3)『君たちはどう生きるか』―少年が成長する物語として
宮崎駿監督の作品には、別世界や異次元の世界を旅する中で、思春期の子どもが様々な人や出来事と出会い成長する物語は、これまでにもありましたが、『魔女の宅急便』や『千と千尋の神隠し』など、少女の物語が殆どで、今回の作品のように少年が主人公の物語は、なかったのではないかと思います。私がこの映画を見たのは昨年の夏休みの終り頃だったかと思いますが、見終わって映画館を出る途中で、後ろにいた学生風の二人が「真人(まひと)は、いつあんな風に成長したのだろう」という会話をしていました。物語は複雑で難解でもあり、必ずしも主人公の成長が中心テーマとは言い切れないとは思うのですが、真人という最初は不愛想で心を閉ざしている主人公が、何かをきっかけに変ってゆき、感情豊かで人を受け入れられる人間に成長してゆくストーリーが、物語の筋の一つとして含まれていることは確かです。
(4) 成長への転換点―経験の中にある意味を振り返ること
私は、主人公の内面が成長する転換点の一つは、この映画の題名にもなっている『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎著) という本を主人公が読んでいるその時だと思います。この本は母親から真人に託され、それを見出した主人公が読む場面があります。それは場面としては一瞬のことで、本の内容は映画の物語とはほとんど全くと言っていいほど、無関係に見えますが、製作者は特別な思いを込めてこの場面を描き込んでいるはずです。
この『君たちはどう生きるか』という本は、六甲学院の創立と同じ1937年に刊行された“古典的”な本です。私自身が中学生の現代国語を担当する時には、必ず課題図書として選んでいた本のうちの一つでした。40期代から70期代のうちの5期ほどの生徒たちには読んでもらっていました。コペル君というあだ名の15歳の少年本田潤一君が、身近な生活の中で、社会科学、自然科学、歴史、文化、芸術などに幅広く関心を持ち、目が開かれ、また、友人関係に悩んだりする中で、成長してゆく姿が描かれています。84期のみんなが中学を卒業するにあたって、ぜひ読んでほしい推薦本として紹介したいと思います。
父親を失っている主人公コペル君が、日常の中での経験や気づきを話す相手は、自分の母方の叔父さんです。その叔父が主人公の経験や気づきをより深く振り返らせ、さらに新しい気づきや成長へと導く役割を持っています。このコペル君と叔父さんとの間には、イエズス会教育の中でイグナチオ的教育法と呼んでいる方法のモデルとなるような関係があります。コペル君に向けて叔父さんが書いている「おじさんのNote」には、例えば「肝心なことは、いつでも自分が本当に感じたことや、真実心をうごかされたことから出発して、その意味を考えてゆくことだ」「ある時、ある所で、君がある感動を受けたという、繰り返すことのない、ただ一度の経験の中に、その時だけにとどまらない意味のあることがわかって来る」「常に自分の体験から出発して正直に考えてゆけ」(岩波文庫版53~54ページ)というアドバイスがあるのですが、それらはそのまま、イエズス会教育の専門家が話していると言ってもおかしくない内容です。自分が感動したり心が動いた体験をていねいに振り返ることによって、その体験のうちに込められた真実の意味を見出すイエズス会の教育方法と、そのまま繋がります。また叔父さんは次のようにも言います。「もしも君が、学校でこう教えられ、世間でもそれが立派なこととして通っているからといって、ただそれだけで、いわれたとおりに行動し、教えられたとおりに生きてゆこうとするならば、―コペル君、いいか、-それじゃあ、君はいつまでたっても一人前の人間にはなれないんだ」(同書 55ページ)。 そうであるとするならば、どうしたら一人前の人間になれるのか、この本を読みながら考えてほしいところです。(それは、84期のテーマ「自律(自立)した人間になる」ことを、本当の意味で理解し実践することに繋がります。)
(5)映画の主人公真人の読書場面と本の主人公コペル君の「雪の日の出来事」
84期の卒業にあたって、同じ年齢のコペル君が主人公のこの本については、もう少し映画とも関連させつつ紹介したいと思います。宮崎駿監督の映画『君たちはどう生きるか』の主人公真人は、ある出来事がきっかけで学校を行き渋るのですが、そうして部屋にこもっている中で、先ほども述べたように、母親から自分宛てに贈られたこの本の存在に気づき、涙を流しながら夢中で読む場面があります。映画の主人公真人がこの本のどこを読んで涙を流すほど感動したかを想像することには、それほど意味はないかもしれませんが、この本をそれなりの共感を持って読んだことのある人にとっては、思い当たる箇所があると思います。「雪の日の出来事」と「石段の思い出」という章です。
本の『君たちはどう生きるか』の中で、コペル君には3人の仲の良い友人がいます。「雪の日の出来事」では、そのうちの一人が上級生4~5人に囲まれ不当に扱われているときに、コペル君以外の友人2人はその上級生から攻撃されている友人のもとに駆け寄り、怖さでぶるぶると震えながらも友人を守ろうとします。しかし、コペル君は足がすくんで友人のいるところに近寄ることができません。そのまま事が過ぎてしまいます。親友が暴力を振るわれるのを見ながら、何一つ抗議もせず助けようともしなかった卑怯な自分を責め後悔したまま、体調を崩して何日も休むことになります。
(6)コペル君の母親の「石段の思い出」―経験の意味に気づくこと
病床の中でコペル君は雪の日の出来事を繰り返し思い返し、自分の臆病さや卑屈さへの自己嫌悪に陥りながらも、友人3人とは会いたいし元の仲の良い関係に戻りたいと願いつつ、学校に行って会うことへの不安やつらい思いに苛(さいな)まれます。
体調がよくなった頃にコペル君の母親は、コペル君の心の内を察していたのか、女学校時代の学校の帰り道に、神社の石段を登っていたときの体験を話してくれます。
石段を登りかけた時に、5~6段先を70過ぎくらいのおばあさんが手に重そうな風呂敷包みを持って登っていました。その荷物を持ってあげなければいけないと思いながら、何度か話しかけようと思いつつきっかけがつかめないうちに、おばあさんは登り切ってしまいました。そんな些細な出来事をお母さんは忘れられずに、色々な時に色々な思いで思い出す、と言います。そして次のように話します。
「おばあさんの大儀そうな様子を見かねて、代わりに荷物をもってあげようと思いながら、おなかの中でそう思っただけで、とうとう果たさないでしまった、――まあ、それだけの話ですけれど、このことは、妙に深くお母さんの心に残ったんです。……心に思ったそのことをする機会は、二度と来ないのでしょう。その機会というものは、おばあさんが石段の一番上のところに立つと同時に、まあ、永遠に去ってしまったわけね。ほんの些細なことでしたけれど、おかあさんは、やっぱり後悔したんです。あとになって、なんと思って見たところで、もう追っつかない。」「潤一さん。大人になっても、ああ、なぜあのとき、心に思ったとおりしてしまわなかったんだろうと、残念な気持ちで思いかえすことは、よくあるものなのよ。どんな人だって、しみじみ自分を振り返って見たら、みんなそんな思い出を一つや二つもっているでしょう。」「でもね、潤一さん、石段の思い出は、お母さんには厭な思い出じゃあないの。そりゃあ、お母さんには、ああすればよかった、こうすればよかったって、あとから悔やむことがたくさんあるけれど、でも、『あのときああしてほんとによかった』と思うことだって、ないわけじゃあありません。それは損得から考えてそう言うんじゃないんですよ。自分の心の中の温かい気持やきれいな気持を、そのまま行いにあらわして、あとから、ああよかったと思ったことが、それでも少しはあるってことなの。そうして、今になってそれを考えてみると、それはみんな、あの石段の思い出のおかげのように思われるんです。」「人間の一生のうちに出会う一つ一つの出来事が、みんな一回限りのもので、二度と繰り返すことはないのだということも、――だから、その時、その時に、自分の中のきれいな心をしっかりと生かしてゆかなければいけないのだということも、あの思い出がなかったら、ずっとあのままで、気がつかなかったかもしれないんです。」 「その後悔のおかげで、人間として肝心なことを、心にしみとおるようにして知れば、その経験は無駄じゃあないんです。」(同書 244~248ページ)
コペル君は、母親からのこうした言葉を、目に涙をあふれさせながら聞いているのですが、おそらく映画の中の主人公真人(まひと)も、自分の母親から直接話を聞いているように感じながら、こうした箇所を読んでいたのではないかとも想像します。
(7)経験を成長の糧として「よい人間になる」ことを目指す
きっと、今日中学を卒業する84期を含めて、「石段の思い出」のような出来事は、だれにでもあることなのだと思います。そして、この本をこの機会に読むことは、中学時代を振り返り高校生になるにあたっての、一番の心の準備になるのではないかとも思います。この本の最後の方にはコペル君が叔父さんに宛てた、次のような手紙の文章があります。紹介して中学卒業の祝辞を終えます。
「僕、ほんとうにいい人間にならなければいけないと思いはじめました。叔父さんのいうように、僕は、消費専門家で、なに一つ生産していません。僕には、いま何か生産しようと思っても、なんにも出来ません。しかし、僕は、いい人間になることは出来ます。自分がいい人間になって、いい人間を一人この世の中に生み出すことは、僕にでもできるのです。そして、そのつもりになりさえすれば、これ以上のものを生み出せる人間にだって、なれると思います。」(同書 297ページ)
単純な目標ではありますが、経験を成長の糧として「いい人間になる」ことを、まずは目指してくれたら、と願います。
※高校生に向けて:
以上のように吉野源三郎著『君たちはどう生きるか』を紹介すると、中学生向けの本のように受け取られるかもしれませんが、岩波文庫版には「『君たちはどう生きるか』をめぐる回想」という題で、日本の最も優れた政治・歴史学者の一人である思想家丸山真男の解説が掲載されています。本書が、高校生や大学生だけでなく教養のある大人にとっても、どれだけ高度な内容が、見事な筆致によってわかりやすく書かれているかも、理解できる解説になっています。また、丸山氏自身が高校2年生の終わり頃に、戦時下に思想犯として不当に逮捕された留置場経験から、「どんなに弱く臆病な人間でも、それを自覚させるような経験を通じて、モラルの面でもわずかなりとも『成長』が可能なのだ、ということを学んだ」という個人的な出来事も記されています。ぜひ、高校生も解説を含めてこの本を読んだ上で、映画『君たちはどういきるか』が再上映されることがあれば、映画も併せて観てくれるとよいと思います。本と映画とは無関係といいながら、案外、難解ともいわれる映画を読み解く鍵が、この本にはあるかもしれません。
《2024年3月2日 六甲学院高等学校 81期生卒業式 校長祝辞》
1 81期生卒業式を迎えるにあたって
81期生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。保護者の皆様、ご子息のご卒業、おめでとうございます。本日の卒業式を迎えるにあたって、81期生の皆さんは6年間の様々な思い出深い出来事や場所を思い浮かべていることと思います。体育祭、文化祭、研修旅行、社会奉仕活動などの学校行事、クラブ活動や委員会活動、友人と休み時間ごとに遊んだ第2グラウンドや、神戸の街を一望しつつ勉強に励んだ学習センター、季節ごとに自然の美しい庭園など、様々な出来事や場所が、永く思い出に残るのではないでしょうか。
2 新型コロナ・パンデミックと生徒活動の継承
81期生にとっては、中高6年間の学生生活のうち、中核となる中学3年生から高校2年生までの3年間がコロナ期と重なりました。学校にとってはこれまで地道に続け積み上げてきた教育活動の多くを控えざるを得ず、生徒にとっては何をするにも様々な制約を受ける期間が3年以上にも渡って続きました。停止したり制限したりしたものには、本来は学校生活の中で楽しく人間関係を作る機会にもなるはずの食事中の会話を禁止して黙食としたり、六甲学院では人間教育の一環として行ってきた清掃活動や中間体操も控えざるを得ない時期がありました。
感染防止や衛生面での配慮とはいえ、その中には、長い抑制期間を経た後に、生徒が意義あるものとして再開し定着するかどうか、危ぶまれるものがありました。学校にとって有難く頼もしく思ったのは、81期生が中1・中2で体験し身に着けたことを、意味のある良いものとして後輩に受け継ぎたいという、熱い思いがあったことです。訓育や社会奉仕、中間体操などの委員会が担ってきた、清掃・インド募金・中間体操など、コロナ期を超えて今も六甲学院の生徒が担う活動として続いているのは、81期生がそうした活動を六甲の価値のあるよき伝統として受け継いでゆきたいという、強く熱い願いがあったからこそではないかと思います。そして、その集大成と言えるのが、後に述べる、昨年6月の体育祭でした。
3 コロナ禍の世界的な共通体験と気づき
コロナ・ウィルスの世界的な感染の広がりは、世界中が地域も世代も超えて身近な人たちを感染症で失うことへの不安や、自分自身が罹(かか)り苦しむことへの恐怖を、共通体験として味わった出来事でした。実際に、思いがけなく身近な人を失った悲しみや喪失感を経験した人もいるのではないかと思います。その一方で、社会には、自分自身が感染する可能性のある中で、患者を治療するために献身的に働く医療従事者がいました。また、衛生状態を保つために清掃をする人たちや、人々の日常生活に大きな支障をきたさないように、食品や生活物資や衣料品などの物品を運び並べ販売する人々など、感染リスクを承知で働くいわゆる“エッセンシャルワーカー”にも目が向けられて、感謝をする機運も生まれました。苦しい状況の中で、人間のもつ良さが引き出された面があったことも、忘れてはならないと思います。コロナ・パンデミックという、同じ課題を世界が克服しようとする中で見えてきたのは、もともと基礎疾患のある病気がちの人たちや、独居老人や障がいを持っている人たちなど、社会の中で目立たない弱い立場の人たちに配慮し、共に歩んでゆかないと、世界全体が困難な状況を克服できず、よい方向にむかわない、ということであったと思います。
4 コロナ禍後にあるべき世界を表現する3つのキーワード
コロナ後の世界には、様々な背景を持つ弱い立場の人たちと共に歩む社会の実現が、これからの社会にとって誰もが暮らしやすい平和な社会の実現につながる、という貴重な気づきが生まれたように思います。そうした方向性を表現するのに、英語では次の3つのキーワードを組み合わせて使うことがあります。
DIVERSITY(ダイバーシティ 多様性)
INCLUSION(インクルージョン 包含性)
MINORITY (マイノリティ 少数者)
の3語です。コロナ禍前にもそれぞれに使われてきた言葉ではあるのですが、コロナ禍の体験を経てより着目され、組み合わせて使われるようになった言葉であるように思います。
DIVERSITYダイバーシティとは、「多様性」という意味です。それぞれ一人ひとり違いがあっても受け入れ、違いをお互いに活かしあい、様々な個性があることの豊かさに気づくことにもつながります。
INCLUSION とは、「包含性(ほうがんせい)」という意味です。違いがあることを認めた上で排除をしないで、仲間として取り入れ共に歩むことです。一致・団結・協力や平和構築にもつながってゆきます。INCLUSIONの反対語はEXCLUSION-「排除」-で、分裂や差別や紛争につながります。
MINORITY マイノリティとは「少数者」のことです。社会は知らず知らずのうちに、多数派のうちでも力の強い人たちの都合のよいように作られていますので、社会の中の少数者は大抵は省みられることがなく、苦しむ声も聴き届けられることは少なく、時に排除されたり差別されたりして、社会の周辺に追いやられ弱い立場になります。そうした社会のあり方に対抗して、人々が多様性(DIVERSITY)を認め、少数者(MINORITY)を排除せず、仲間として受け入れ(INCLUSION)、共に歩む姿勢を持つことが、今の時代に平和をもたらす道につながるのではないかと思います。
5 今の時代に“隔ての壁”を超えて命を尊ぶ「生き方」を示すことの大切さ
ロシアのウクライナ侵攻から2年が経過しても収まる様子のない戦争や、10月から続くパレスティナ・ガザ地区の無差別な殺戮を伴う紛争だけでなく、世界には、民族や宗教や文化の“違い”を受け入れずに「隔ての壁」を作り、より小さな国や地域に暮らす人々を虐げ、排除しようとする力があちらこちらで働いているように思われます。そうした、人々を分断へと導き、武器を持たない女性や子どもを命の危険にさらし、人の命の尊さを踏みにじるような力に対して、私たちは、違う「生き方」を姿勢として示めしてゆかないと、この世界は平和な方向へとむかわないのではないかと思います。たとえコロナ・パンデミックが収束したとしても、世界には、環境問題を始めとして、協力して取り組まなければ解決の方向にむかわない課題は多く残されています。分断でなく協力して困難な課題と向き合い解決してゆくために、多くの人々が「隔ての壁」を超えてまとまってゆくための心構えとして、先ほど紹介した3つの言葉の通り、多様性を認め、違う立場の人を排除するのではなく受け入れ、少数の弱者の命を大切にしてゆく姿勢は、六甲学院の中で学び卒業してゆく人たちのうちに育ててゆきたい「生き方」です。
6 81期生が導いた体育祭の方向性―多様性を認めつつ団結する
そして実はこの、立場の違う人たちも受け入れつつ一致協力して物事を進めてゆく方向性は、81期生が体育祭を運営する中で実践してくれた道でもあったように思います。
この体育祭には、これからの六甲が伝統を生かしつつ新しい時代を築く萌芽があり、81期卒業生の将来にとっても、卒業生が築いたものを受け継ぐ在校生にとっても、汲み取るべき大切なものがあるように思いますので、最後に体育祭について話します。
81期が中心で作り上げた体育祭は、参加した生徒皆が楽しめて、見る側にとっても見応えのある充実したものでした。準備期間は必ずしも天候に恵まれず時間的な制約はありましたが、総行進はよく仕上げられていました。総行進だけでなく、個々の競技でも参加者は真剣で、観客の生徒たちもそれぞれの競技をよく応援していたことが印象に残っています。この、それぞれの競技で、白組・紅組がほとんど総出で応援するという光景は、昔からあったわけではなく、騎馬戦の一騎打ち対決以外は、最近のことです。競技で双方の見学者が応援しあい、体育祭全体が盛り上がり、生徒たちが団結してゆく雰囲気は、上級生が作り上げ生徒たちみなが協力してきた大きな成果であると思います。
総行進は、昼休みを終えて午後1時からという長年の伝統を変えて、最近2年間は午前10時に開始しました。一昨年は体育祭の日程自体が半日だったこと、昨年は午後の暑い最中に1時間近くの行進は、コロナ禍を経て体力的に弱っている中で厳しいという判断もあってのことでした。ただ、心配もありました。体育祭の目玉である総行進を午前中の半ばに行うことで、そのあとの競技は、メインの見せ場が早く終わって、生徒も緊張が解けて気の抜けた感じにならないかという懸念です。80期が中心で運営した一昨年の体育祭は、その後の競技もしっかりと引き締まって終えられました。そして、昼食後にも競技があった昨年は、80期を受け継いだ81期の指導のもとに、ゆるむことなく見応えのある競技が続いていました。
総行進が終わった後の競技も、午前・午後とも引き締まっており、真剣にしていたことは、体育祭役員の体育祭全体への意気込みが、生徒皆に浸透した結果だと思います。また、午後最初のプログラムである応援合戦も完成度が高いものでした。昨年のような応援合戦が今後も続けば、観客の人たちにとっては、六甲の体育祭の中で楽しみな目玉の一つになり得るのではないかと思います。
私たちは伝統というと、昔から続いている良いものをそのまま守ってゆくことと思いがちですが、むしろ時代の流れの中で、これまでの良さを生かしつつ工夫・改良を加え、新しい命を吹き込むことで初めて、伝統はそれぞれの時代に生きた意味のあるものとして、活性化し続いてゆくものです。見ごたえのある競技を真剣に行い、観客として楽しみつつ、生徒が熱心に行う応援、パフォーマンスとして練習の成果が伝わってくる見事な応援合戦、健康上の理由も含めて炎天下で1時間近い行進を上半身裸ではできない生徒がいる中で、そうした生徒を従来のように行進参加から排除するのではなく、生徒それぞれの意思を尊重しつつ全体として統一感を感じさせるような総行進を完成させることなど、今後も生徒みなが楽しさややりがいを感じながら、全体として一つにまとまれるような行事を、81期生は後輩を指導する中で、作ってくれたと思います。これまで受け継いできたことの良さを大切にしつつ、時のしるしを見極め、生徒たち自身の手で新しい団結力や統一感を表現する創造的な営みを推し進め、伝統を刷新し活性化してゆく過程を見せてくれていたように思います。
7 体育祭テーマと「自由の女神像」の掲げる「燎」(かがりび・トーチ)
-自由と平等の新世界をめざす人々の希望の光となること
体育祭テーマと総行進で作り上げる絵模様とに見事な統一感があったことも、昨年の体育祭の特徴でした。体育祭の初めや総行進の放送ナレーションの中では、メインテーマの「燎―かがりび」と共に、サブテーマの一つとして、「DIVERSITY ダイバーシティ」という言葉が何度か使われていました。先ほども述べた3つのキーワードの一つです。基本的な意味は、色々な種類や性質があること、多様であることを言います。
人間で言えば、肌の色・人種の違いや、考え方・価値観の違いや、文化的背景や宗教の違い、生まれた時からの男女間の性の違いや自分をどう捉えているかの違い、なども人によって多様です。人種・民族・宗教の違いだけでなく、健康面・身体面の特徴も、一人ひとり、生まれた時からのものもあれば生まれた後の育ち方や、後天的な病気や怪我などの要因による特徴があり、それぞれ個々に背景があり違いがあります。人それぞれに多様であることを知って、その違いを受け入れて一緒にやっていこう、という方向性を、81期の体育祭はメッセージの一つとして込めていました。
また、総行進ではアメリカ合衆国のニューヨークにある「自由の女神」の図柄が作られてられていました。(「自由の女神」の正式名称は「世界を照らす自由」と言い、アメリカ合衆国独立100周年を記念して1886年にフランスから寄贈されたものです。)おそらくコロナ期を経て4年ぶりにニューヨーク研修に行った生徒たちの思い入れもあって、実現した図柄なのではなかったかと思います。体育祭のアナウンスでは、その説明の中で「ダイバーシティ」と「人間の自由と平等」について語られていました。ヨーロッパからの移民が、アメリカを新天地として選んで、過酷な航海の末、ニューヨークの港にたどり着く中で、最初に眺めた巨大な像が「自由の女神」でした。ヨーロッパでは、貧しい生活に苦しみ根強い差別と偏見に虐げられた多くの人々が、自由で平等な新世界を夢見てアメリカ合衆国に移民として渡ってきました。その人たちを最初に愛情深く迎え入れたのが、ニューヨークの自由の女神像でした。体育祭のアナウンスにあったように、自由の女神像が掲げる「燎」(かがりび・トーチ)は、船で大西洋を渡ってきた移民を、自由と平等を理想とする国アメリカに迎え入れる灯台のような役割を担っていたともいえます。旧大陸でつらく苦しい思いをしてきた移民たちを愛情深く迎え入れ、新天地での生活への希望を与える、「かがりび」を高く掲げた自由の女神像を、総行進の図柄の一つとして選んだことには、大切な意味合いが込められているように思います。
体育祭で、81期生自らがテーマとして掲げた「燎―かがりび」のように、六甲を旅立つ卒業生一人ひとりが、周囲を明るく照らし、様々な人たちの多様性を尊重しつつ、自由と平等のもとに生きてゆけるような社会の実現に向けて、その方向性を指し示す希望の光になってくれたらと願っています。
《2024年1月9日 三学期始業式 校長式辞》
声なき声を聴く―震災・紛争・格差社会で苦しむ人々に耳を傾け行動する人へ
(1) パレスチナ・ガザ地区と能登半島地震―救援の手が届かない事態
三学期が始まりました。皆さんはどのような冬休みを過ごしたでしょうか?
この冬休み中も、パレスチナのガザ地区では、クリスマスも新年も停止することなく攻撃が続きました。日本では元旦に、石川県能登地方を震源とする最大震度7の地震が起き、発生から一週間が過ぎた昨日までの死者は168人に及び、まだ全容がつかめていません。心を騒がせ心配や不安な気持ちで過ごした新年だったのではないかと思います。
ガザ地区の紛争による死者は戦闘から3ヵ月経って22,000人を超え、そのうちの7割以上が子どもや女性たちだとのことです。避難生活を送る人々は住民の約85%の約190万人で、避難民のキャンプや病院でも空爆や攻撃が発生しているそうです。こうした紛争や飢餓の地域に入って救援活動をする団体として、世界的に知られているカトリック系の「カリタス」やプロテスタント系の「YMCA」のスタッフたちが、爆撃にあって命を落としているという現実もあります。人道的な配慮の全く見られない無差別な攻撃が続いている中で、食料や飲料水や衣服や医薬品などの支援が必要な人々のところに、ますます援助の手が届かなくなっている状況で、多くの人たちが怪我や感染症に苦しみ、命を落としています。恐らく、報道でも伝えきれていない深刻な状況が今も続いているのではないかと思います。
能登地方一帯の地震と津波の被災地も、電気や水道が通じず道路も寸断され、崖崩れや倒壊家屋のために、人がいるとわかっていても、救助の手の届かない家屋があります。救援物資を届けようとしても、その地域まで入ることができずに孤立している村落が、数多くあります。一週間以上が過ぎて、被災地に必要な救援物資が集まってきてはいても、本当に必要な人たちの所に届くための手立てが、まだ整っていないのが現状です。
人間の手による紛争と自然による災害の違いはあっても、苦しく困窮している状況の中で、助けを求める声を挙げようにも挙げられない人たちや、声を挙げても救援に対応する人たちには届いていない、あるいは声は届いていても対応する人員や手立てが全く足りていない状況が続いている点では、共通しているように思います。
(2)能登半島地震―124時間ぶりに90代女性を救出のニュース
そうした中で、1月6日(土)には、石川県珠洲(すず)市で、地震の発生から約124時間ぶりに90歳代の女性が救出されたという嬉しいニュースもありました。2階建て家屋の1階が倒壊して下敷きになり、ベッドの上で両足が挟まれていたところ、福岡県警の救助隊が慎重にがれきを取り除いて、助け出したそうです。救助隊は避難所での聞き込みによる安否確認の中で、家に取り残されている可能性が高いと判断して、現場まで行って生存者を助けることのできたケースでした。地域の人と人とのつながりの中で、あの家のおばあさんが避難所には来ていないので家に残されているのではないかという近所の方からの情報と、生存率が格段に低くなる地震発生から72時間を過ぎても丁寧な聞き取りをしつつ、生存者の救助を諦めなかった福岡県警の救助隊の意思があって助け出された命でした。福岡県警にそういう働きができたのは、恐らく2016年に起きた隣県の熊本地震での救援活動の経験が、生かされたからではないかと思います。
(3)阪神淡路大震災の経験―学校避難所での友人看護師の働き①
私は、こうした正月からの能登半島地震の報道を見聞きする中で、29年前に起こった阪神淡路大震災での経験を思い出していました。震災から間もない頃の避難所での個人的な体験です。
当時、私たち夫婦の友人で看護師をしていた方が、岡本に住んでいました。地震から3日程経ってから電話がつながり、その友人から連絡があって、次に大揺れが来るのが怖くて外に出ることが出来ないという話でした。最初の本震後も震度4から5の余震は度々起こっていたので、心細かったのだろうと思います。その週の日曜日、地震から5日経った頃に他の友人たちと、不安な中で一人暮らしをしているその友人を見舞いに、岡本のお宅まで行きました。私自身は比較的被害の少なかった神戸市北区に住んでいて、被害の大きかった灘区のこの学校に毎日自動車で通っていましたので、近所の人たちが作ってくれたおにぎりやおかず、持ち寄ってくれた衣類や毛布などの物資を、積めるだけ自動車に積んで、通勤の行き帰りに避難所を回って、配ることを始めていました。
その日も仲間と一緒に、近くにある小学校の避難所に行くことにしていましたので、看護師の友人も誘ってみました。看護師として何かできるならば……と思ったのか、その友人も避難所に行ってみると言ってくれました。個人としては地震の恐ろしさに飲み込まれて心がすくんでしまっていても、看護師として何か人の役に立つならば、という使命感が、塞(ふさ)がっていた気持ちを開かせてくれたのだと思います。
その看護師の友人と岡本駅の近くにある学校に行って、救護所としてけが人が収容されているという理科実験室に入りました。普通の机より広いからか、実験室の机がベッド代わりになっていて、5~6人のけが人や体調の悪いご老人が寝かされていました。一人の老婦人は左足がやけどでただれていました。暖房のない寒い部屋の中で、薄手のパジャマだけを身にまとって、ズボンも濡れていました。震災の精神的なショックも大きい様子でした。看護師の友人が、着替えややけどの手当ての世話をしてくれました。
(4)学校避難所での友人看護師の働き②―被災者の声なき声を聴くこと
このような状態のご老人のいる避難所になった学校に、物資が届いていないかというとそうではなく、その部屋から20メートルほど離れた校舎の廊下には様々な種類の医療品や大人用のおむつなどが山積みされていましたし、体育館の入り口には衣類や下着も豊富に届いており、自由に持って行っていいように並べられてはいました。
ただ、その老婦人は「寒いのでセーターを着させて欲しい」とも「足が痛くて歩けない」とも「下着を替えたい」とも言えなかったのだと思います。周りの人たちも、その人に気を留めて、その人が何を必要としており、どうしたらいいかを、状況から察して動くだけの余裕も人手もその時にはなかったのかも知れません。看護師の友人が、届いていた物資から必要なものを取り出して、手際よく、やけどの箇所の手当をして包帯を巻き、下着を取り替え体が凍(こご)えないように着替えさせてくれました。やはり、専門的な知識と技能と経験を持っている人が、窮地にある人を助けられるレベルは格段に違うと、その時に思いました。やけどをしていた老婦人の声なき声を察して、その人にとってどうすることが具体的な助けになるのかを的確に判断して、助けることが出来たケースでした。
(5)必要なものが必要な人へ届く支援を-被災地の報道と情報の格差
避難所では物資はあるところには豊富にあっても、本当に必要としている人の所には届いていない歯がゆさを、それ以後も、幾度となく経験しました。阪神淡路大震災から1週間経つと、被災地が都市部ですから幹線道路沿いの小中学校などの避難所には、全国各地からの善意の救援物資が届いています。幹線道路に近ければ報道機関各局の自動車も訪れやすいので立ち寄って、マスコミで報道されれば、一層そこに物資が集まってきます。マスコミ報道で取り上げられやすいそうした場所の限られた一光景から判断して、一週間たった被災地の避難所では、支援物資は十分届いているという報道をします。
しかし、だからといって、必要な人の所に必要なものが届いているかというと、それは全く別の問題です。一番必要としている人の所に着るものや医療品が届いているか、それを使って汚れた衣服の着替えや怪我ややけどの手当ができているかというと、動けない人に必要な物資を届けて世話をする人が居なければ、その物資はあっても活かされず役立っていないことになります。また、今回の能登半島地震と同様に、倒壊家屋が折り重なって、その奥にある半壊した家屋やテントを張って暮らしているような小さな公園などは、気づかれないまま被災者が取り残されていることがあります。そうした所に行きつくと、地震から一週間たっても、避難してきた時と同じ着の身着のままで、靴下も下着も替えることが出来ず、食べるものも底をついているという人たちに出くわしたことが、住吉や岩屋等の地図に名前もないような公園を回っている中でありました。
被害の甚大な場所は、電気もガスも水道もない中で、テレビも見ることができず電話も今のように携帯電話が普及していたわけでもないので、どこにも連絡が通じず、少し歩けば避難所になっている学校があり、そこに衣類や食べ物や応急手当ての医薬品があったとしても、そうした情報が伝わらずに、困難な状態のまま公園で生活している人たちがいました。
(6)避難者への物資調達から炊き出し活動へ―世界の格差への気づき
私自身は先ほども述べたように比較的被害の小さかった神戸市北区に住んでいて、地震から1週間後には近くのコープに品物が並びだしていましたので、勤務の帰り道に学校の避難所や公園の避難者が集まっている所に立ち寄って、必要なものを聞いて、その日持っていればそれを置き、避難所では調達できない品物については、手に入れられれば購入して、できる限り翌日に届けるというような活動を始めていました。
10日間ほど公園や避難所に物資を配る活動をした後、近所の人や教会の友人と共に炊き出しの活動に重点を置き、料理を手渡すその横で、その時々に必要な物資を配る形にして、次第に長田区や須磨区の学校や公園で、社会奉仕委員の生徒たちにも協力を呼び掛けながら、週に2~3回炊き出しをしていた時期がありました。
そうした活動をしながら知ったのは、自分の接している現実と報道との大きなずれや、これまでも述べてきた、ある所には豊富に物資があっても必要なところに届いていないという現実、そして、ある人たちは地震によってすべてを失い生活のめどが立たない中で避難所に取り残され、ある人たちはもとの通常に近い生活に早い段階で戻ってゆくという現実です。そうして気づいたのは、こうした現実は世界的なレベルでも同様に、様々な場所で起こっているのではないか、ということでした。
(7)格差社会の中で―被災地や貧困地域の現状を知り現場の声を聴く教育
その後、世界の中の経済格差、富んだ国と貧しい国、都市で暮らす人と農村で暮らす人との格差などを見聴きすると、この震災の避難所や公園での光景を思い出します。今も富んでいる国と貧しい国、発展した都市部と取り残された農村部などの生活の格差、不均衡は解決すべき課題です。世界の中には、有り余るほどの富と食べ物、着る物がある一方で、それが公平に配分されずに、三度の食事にも事欠き、衛生状態の悪い中で病気になる人たちの多い地域が、多くあることを知る機会―知識だけでなくできれば現場に行って直接見聴きする機会―は、学校教育の中にあっていいと思います。また、今回の能登地震のように、いつどこで起きるかもわからない地震などの自然災害が人間にもたらす被害の大きさや、その中でどう助け合って命を守ってゆくかについて、学び考える機会もあっていいと思います。困難にある人々の状況、声なき声を聴いて、その人々に必要なものが届く社会の仕組みを作るためにも、そうしたかすかな声を聴いて動くことの出来る感性を持っている人が、数多く育つことの大切さを感じます。
(8)六甲学院の中で-世界の困窮者の「声にならない声」を聴き行動する教育
皆が実際に支援している所との関連で言えば、ハンセン病患者が未だに発生するインド東北部のインド募金の支援地区や、一月のお年玉募金の一部を送金することになっている東ティモールの姉妹校近隣の農村部も、世界の経済や生活環境の格差の中で、支援が行き届かずに困窮している地域です。今年20名ほどの生徒が行ったカンボジアの農村部は、戦乱の中で農地にも地雷が埋め込まれ荒れ地になった後に、その地雷を除去しつつ、再び農地として開墾して使い始めている貧しい地域があります。共通しているのは、食事を一日三回しっかりと取ることの出来ない貧素な生活や、衛生的なトイレがなく感染症の広がるおそれのある不衛生な中で生活をしている人たちが、数多くいることです。それは、世界の貧しい農村地域だけでなく、紛争下にある人々の生活も、地震で被災した人たちの生活も同様です。
明日は「生命について考える日」の講演会があります。講演者は在校生のお父様で、若い頃に阪神淡路大震災を経験し、東日本大震災では西宮市の職員として被災地支援に関わりながら、ピアニストとして心の復興にも尽くして来られた方です。お話を伺い、海外でも大きな受賞歴を持つピアノの演奏も、聞く機会を持ちたいと思います。また、2週間後の中学2年生の東北研修では、蔵王でスキー実習をすると共に、明日の講演者の活動場所でもあった南三陸や、気仙沼や東松島を訪れます。いつどこで起きるかわからない自然災害への備えや防災についての理解を深める機会になれば、と願っています。
六甲学院の生活や行事を通して、避難所の救護所にいたご老人を助けた場合のように、声にならない声を聴いて、苦しむ人が本当に必要にしている何かを届けることが出来る人になってくれたたら良いと思います。個人のレベルでも、世界的なレベルの話としても、そうした役割を担える人になることは、六甲学院の教育の一つの目標です。六甲には、社会奉仕活動や研修旅行を始めとして、そうした声なき声を聴いて動く感受性を養うための場、誰も取り残されることなく必要な人の所に必要な支援が届く社会、紛争や災害や貧困の中で命の危険にさらされずに平和に暮らせる社会の仕組みを考える場は数多くあると思いますので、その機会を活かしてくれれば……と願っています。
《2023年12月23日 二学期終業式 校長式辞》
“For Others, With Others”を育てる六甲学院の体験教育
-研修旅行後の価値観の変化と生き方への影響について
(1)カンボジア研修旅行の振り返りの集いⅠ―教育の大切さについて
今年度、初めての企画として8月にカンボジア研修旅行がありました。中学3年生から高校2年生までの希望者20数名が参加ました。2学期の始業式では全校生に向けて報告会があり、9月23日・24日の文化祭での生徒のプレゼンテーションや展示も充実していて見応えがありました。先週12月16日の土曜日に、参加者が集まり研修旅行から4カ月ほどたっての振り返りの集いが行われました。現地でお世話になった44期卒業生(1987年卒)の坂野さんが一時帰国をされているので、坂野さんを招いての集いでした。カンボジアの現地で1990年代初めから紛争で荒れた国の復興に尽くされ、今もカンボジア法務省で法律作成に携われている方です。
生徒はいくつかのグループに分かれて、カンボジアを訪問し帰ってきてから、自分がどのように変わったか、価値観や物事の見方にどういう変化があったか、ということをテーマにした話し合いをしました。多くの生徒が話していたのは、日本の当たり前が決して世界の当たり前ではないこと、当然のことのように過ごしているこの日常は、とても恵まれた環境であるということです。特に日本が教育の面でどんなに恵まれた環境にあるか、カンボジアにとってどれほど教育が大切なことか、ということを実感した生徒が多くいました。カンボジアの貧しい農村地帯を訪れ、車椅子で生涯生活をせざるを得ない同世代の青年や、両親がいない中で奨学金を得て公立学校に通う生徒が、貧しく整わない環境の中でも必死に自分から勉強に励んでいる姿と出会って、自分たちがいかに恵まれた環境にいるか、そのことに感謝しないといけないし、やらされてしているような勉強から、もっと自分のうちからの動機や目標をもった勉強に変えてゆこうという思いになったことを話していました。学びたいことを学べる環境にある自分はもっとこの環境を生かして学び、勉強したくても思うようにできない人たちの環境がより良くなるように、学んで得たことを還元していかなければならないとも、話している生徒がいました。
(2)振り返りの集いⅡ―世界への関心から生活の改善・行動変容へ
また、海外に行って様々なことを見聞きし体験したことで、日本の国だけでなく世界で起こる出来事にも関心を持てるようになったという生徒や、カンボジアで様々な子どもたちと出会ったことで、色々な境遇の人たちがいることを知り、思うように学ぶ環境にない人や障がいを持つ人たちの境遇の背景にまで思いを向けられるようになったという生徒もいました。自分がどんなに小さく無力な存在であるかに気づかされると共に、一人ひとりが小さな存在でも、アンコールワットの壮大な建造物のように、何人もの人たちが集まって協力すれば、大きなことができること、そうして歴史の中で昔の人たちが築き上げつなげてきた伝統や文化を、さらに現代から未来へとつなげることの大切さに気づいたと話す生徒もいました。
また、日本に帰ってきてから生活の中でシャワーを流し続けて使うのをやめて、水を節約するようになった生徒の話を聞いて、水の貴重さについて旅行中に気づき、それを実際に行動の変化につなげている参加者がいることに心が動かされたと話してくれる生徒もいました。自分が見てきたことから何を感じ、具体的にどう行動を変えてゆけるかについて考えたいということも加えて話していました。これまではインド募金を、周りの人が出すからと当たり前のように出していたけれども、インド募金の持つ意味を考えられるようになり、その意味を実感しながら出すことができるようになってきた、と話してくれた生徒もいました。
そうした生徒の話を聞いていると、カンボジア研修旅行の参加者にとって、この研修旅行は帰ってきて終わりではなく、今もある意味で続いていて、その影響は今後も将来にわたって続いてゆくのではないか、と思わされました。
(3)坂野さんからのメッセージ-影響を与え合う仲間作りの大切さ
坂野さんからは、自分にとっては高校2年生の時に第一回インド訪問(1985年)に行って、その時に現地の人々の貧しさやハンセン病の方々の苦境に出会ったときのショックが、今のカンボジアでの活動にもつながっていること、六甲時代に互いに進路を決めるうえで大きな影響を与え合った友人の存在があったこと、その後も優れた先輩や友人・知人との出会いがあり、専門としている研究分野や活動内容は違っても、同じ方向性や価値観を共有していると、とても刺激になり励ましになること、そうした信頼できる先輩・友人・知人は色々な分野で意味のあることをしており、その出会いとつながりの輪の中で、自分のしていることの意味を確かめながら今の活動をしていること、などを話してくださいました。皆もそうした出会いやつながりを大切にしてほしいと、生徒に向けてのメッセージを伝えていただきました。
坂野さんにとって、インド訪問に参加したことが、戦乱後の荒廃したカンボジアに向かう体験の原点になったように、今回、カンボジア研修に行った生徒たちにとっては、進路を方向づける原点となるのではないかと思いますし、お互いに進路や生き方を決めるうえで影響を与え合うようなつながりが、このグループの中で生まれてくるのではないかと、今回の振り返りの集いを参観して思いました。また、普段の学校生活・委員会活動・部活動や体育祭・文化祭・研修旅行などの諸行事の中で、こうした深く掘り下げた話ができるグループ・共同体が生まれることは、目立たないとしても、とても大切な六甲学院のよさでもあると思います。
(4)私にとって初めてのインド旅行体験
私自身の若い頃に、六甲学院のインド訪問やカンボジア研修に近い体験があったかと振り返ると、やはり初めてインド旅行に行った時の体験は大きかったと思います。
フランシスコ・ザビエルの祝日12月3日の翌日の朝礼講話では、六甲学院の創立記念日がそのザビエルの祝日(命日)に当たることを伝え、今も生きていた頃の容姿を留めているザビエルの遺骸を参拝する機会が、彼の宣教拠点インドのゴアで10年に一度あること、私が六甲に赴任した1984年にゴアの教会で、その貴重な機会に偶然に巡り合ったことを話しました。ただ、六甲学院にとって大切にしたいと思うのは、亡くなった後の姿よりも、ポルトガルのリスボンからゴアに向かう一年余りの過酷な船旅の中で、気力も体力も時間もすべてを懸け費やして、次々に病気で倒れる人々を助け支え続けた姿であり生き方であることを伝えました。
そのインドへの旅行は個人的なものでしたが、おそらく44期の坂野さんにとっての高校時代のインド訪問や今回のカンボジア研修旅行に行った生徒たちの体験と似たような意味合いが、自分にとってはあったと思います。日本ではまず体験することのない世界の中の貧しさと出会ったことの衝撃が、その後の自分に影響を与え続けています。
私のインド旅行は冬休みを使っての旅でしたので、日本でクリスマスを迎えてすぐにインドに向かいました。最初にボンベイ、今のムンバイに到着し、その都市に3日間ほど滞在して、宿泊していた修道院のシスターやソーシャルワーカーに、海沿いのスラムを案内していただきました。少し強い風が吹けばつぶれてしまいそうな、また、少し大きな波が来れば飲み込まれ押し流されてしまいそうな掘立小屋の狭い空間に、子どもの多い家族が体を寄せ合うように暮らしている家々が、海岸沿いに密集していました。
海辺のスラムを案内していただく中で、シスターから“貧しさのために親が育てきれなくなって、幼い子どもが命を落としてしまう、そんな悲しい出来事が昨日もありました”と伝えられてショックを受けました。イエス・キリストの生誕を祝う想いの中で日本から旅立ち、インドに到着してすぐに、インドでは幼い子どもが貧しさのために命を失うことが度々あることを聞いて、そんな不条理な出来事をどう受け止め理解したらいいのか、この出来事に対して、自分には何ができるだろうかと、大変複雑な暗澹とした気持ちになりました。
(5)教師続行への一時的迷いとイエズス会学校としての教育の大切さ
インドに行ったのは六甲に赴任して1年目でした。インド旅行中や帰国してからしばらくは、日本で教師をし続けるよりも世界の貧しい地域で、旅先で出会ったソーシャルワーカーのような仕事をする方が、人々の役に立つ生き方になるのではないかと、思い悩んだ時期がありました。それを思いとどまったのは、今年カンボジア研修に行った生徒たちが抱いた感想と共通しています。教育の大切さを感じたからです。担当教科が国語でしたので、自分が選ぶ教材を通して人に共感する感受性を育てたり、世界へ関心を広げたりすることはできますし、社会奉仕活動を生徒と一緒にすることを通して、生徒が弱い立場の人たちに目を向け関わってゆく心を養うこともできるかもしれない、と思ったからです。自分一人が弱い立場の人たちのいる貧しい地域で働くよりも、自分も日本や世界のそういう地域と関わりつつ、そうした場所や人々のために志(こころざし)を持って何かができる若い人たちを育てることに、より大きな希望を感じたからです。
世界の理不尽な状況を少しずつでも変えて行くために、教育は一つの希望です。今回カンボジアでお世話になった坂野さんたちを含めて六甲学院の卒業生たちと出会うと、実際に社会から見捨てられがちな弱い立場の人々、貧しくて社会から排除されがちな困難を抱えている人々のために働いている人たちや、そうした人々を生み出す社会の仕組みを法律や経済や行政や科学技術などの様々な手段・方策を用いて変えていこうとしている人たちが、数多くいることが分かります。イエズス会教育の先駆者ともいえる16世紀の教育者ボニファシオ神父の「若者の教育は、世界の変革である」という言葉は、本当だと実感します。自然にそう思えることは、六甲学院にとって誇りでもあり、それが六甲学院の教師であり続けてきた自分の心の支えにもなっています。
来年度は、2018年以降コロナ禍等で実施できなかったインド訪問旅行を、6年ぶりにすることにしました。対象は今の中学3年生と高校1年生になります。イエズス会学校・六甲学院の教育モットーである“For Others, With Others(他者のために、他者と共に)” へ向かって価値観・生き方を変容させていくために、大きな影響を与える体験ができる機会の一つだと思います。ぜひ多くの生徒たちが、前向きに参加を考えてくれればと願っています。
《2023年12月4日 朝礼 校長講話》
「ザビエルについて-創立記念日にあたって」
(1)六甲学院を守り導く守護聖人「フランシスコ・ザビエル」
日本に初めてキリスト教を伝えたイエズス会司祭フランシスコ・ザビエルが、六甲学院を守り導く「守護聖人」です。彼が帰天した12月3日、昨日がカトリックの暦の中ではザビエルの祝日で、六甲学院の創立記念日でした。ザビエルは日本で2年2ヶ月間滞在して宣教活動をしたあと、中国への宣教をめざしました。日本人に対しては、礼儀正しくて善良で知的好奇心が旺盛で、こういう民族にキリスト教をより広く伝え続けられたらと強く願っていました。しかし日本滞在中、日本人のものの考え方や文化に中国の大きな影響があることがわかって、文化や宗教も中国から伝えられてきたことも知り、中国への布教が成功したら、中国から影響を受けている日本での布教活動ももっと順調にいくのではないかと考えました。そこで、中国への宣教を志したのですが、中国本土に入るために、中国の南の玄関口である広東近くの上川島まで来て、そこで高い熱を出して病気になり、1552年12月3日亡くなります。46歳の若さでした。
(2)帰天後の不思議な出来事-姿かたちを留めるザビエルの体
ザビエルのご遺体は上川島の岡の中腹に埋葬した後、2カ月半たってからマラッカ(現在のマレーシアの古都・港湾都市)まで運ぶために墓を掘り起こすと、不思議なことに、その体はたった今息をひき取ったと思われるほど生き生きとしていたといいます。マラッカの教会で葬儀が執り行われて、そこに安置されていたのですが、そこで5カ月たってもザビエルのご遺体はそのままだったので、体をさらにザビエルの宣教の拠点になっていたインドのゴアに移すことにして、亡くなって1年ほど経った時に、ゴアの神学院に安置されました。ゴアでも約5000人が集まる壮大な葬儀が行われたと言います。
ザビエルのご遺体は、今でも10年に1回、人々が間近に見られる形で教会内に置かれて、限られた期間に巡礼のように多くの人たちが世界中から集まってきます。先回が2014年で、一カ月半程の公開の時期(11月23日~翌年1月4日)に約500万人が世界中からお参りに来たと言います。すでに帰天してから460年以上経っていました。
(3)私の若い頃のインドでのザビエルとの対面
私は、個人的に初めてインドに行った1984年にその姿と対面しています。六甲学院に教師として赴任した1年目でクリスマスの後、10日程の旅でした。その期間にたまたま公開されていた姿を、ゴアで見ることができました。
ボンベイに3日ほど滞在した後でゴアに向かい、そのザビエルのご遺体が公開されているという教会に行って、間近に対面しました。当時亡くなってから430年以上経って、その姿は多少茶黒くなってはいましたが容姿はそのままを留めていて、確かにそれは不思議なことでした。巡礼して尊敬の思いで参拝するべきものではあったのですが、私にとっては自分の心が大きく動かされて、何かその出来事の中に大切なメッセージを感じ取るというようなことは、あまりなかったように思います。この体が、日本にまで宣教に来たのか、という感慨はありましたが、やはり、大切なのは死んでから後のことではなく、生きている間の彼がどう生きたかの方なのではないかと思います。
(4)生きていた時のザビエル―全てを懸けて困窮している他者に仕える姿
私がザビエルの伝記の中で最も共感するのは、1541年にヨーロッパのポルトガルのリスボンから、インドのゴアに向かうまでの船旅の中での彼の姿です。
リスボンからゴアへの航海にあたって、召使いや特別室や特別食などのポルトガル王からの“特別なはからい”を断って、ほかの乗船客と一緒に甲板の上で暮らしました。当時はアフリカ大陸を南端まで回ってインドに向かうのですが、航海中は無風状態の灼熱で、普通は7ヶ月程でインドまで到着する船旅は一年と一か月かかりました。食べ物が腐り水か足りなくなって人々が次々に病に倒れる中で、夜も寝ずに病人の看病をしたり汚れたものを洗濯したり、心がふさいでしまった人の話を聞き元気づけたりしていました。優れた学識や大きな志を持ちつつ、身近な現実の中で困っている人々がいれば、躊躇なく今持っている体力や気力や時間の全てを懸けてそこに飛び込み関わる姿を、六甲学院にとってのザビエルの人物像として大事にしたいと思っています。
助けが必要な人に関わるためには決断や勇気(精神力)が必要ですし、具体的に助けるのには健康な体(体力)も必要です。そうした現場の中に、いつでも躊躇なく飛び込み関われる心身を養い鍛えるための教育活動として、六甲学院では授業の合間の中間体操や放課後の徹底した清掃活動、30キロ近くを走る強歩会、施設への全員参加の奉仕活動、そして世界中で困窮している人々に目を向ける心を養うためにインド募金も行っているのだと思います。
創立記念日にあたって、その日をザビエルの祝日にしている学校として、ザビエルの生き方、人を助ける姿や思いに心をとめながら、過ごしてくれたらよいと思います。