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校長先生のお話

暗闇の中に輝く光-クリスマスとCompassion(共感する心)

暗闇の中に輝く光-クリスマスとCompassion(共感する心)
《2021年12月23日 終業式 校長講話》

 

◎ 登下校中の生徒の行動と善きサマリア人
2年近く続いている新型コロナウイルスによるパンデミックも、日本ではこの3ヶ月ほど感染者数が少なくなって、学校生活も日常を取り戻しつつあるように思います。変異種による感染の再拡大の可能性を考えると、まだまだ世界が危機的な状況から脱したとはいえませんが、精神的には少し落ち着きを取り戻した人たちもいるかもしれません。     ただ、この2年近くの中で生活が一変したり、人とのつながりがとぎれたり、大切な人を失ったりして、まだまだ暗闇の中を歩いているような心の状態の人も少なくはないと思います。暗く深刻な思いにさせられるような出来事が社会の中で起こり続けていることも、しんどい思いから抜け出せない一因になっているのかも知れません。そうした中でも、人の善意に触れられるような出来事を見聞きしたり体験したりすると、それがたとえささやかな行為であっても、暗闇を照らす光のように、励まされたり希望を与えられたりすることはあると思います。明日はクリスマス・イブで、聖書のヨハネ福音書1章5節には、イエスの誕生を「暗闇の中で輝く光」(「光は暗闇の中で輝いている」)と表現されているのですが、1年が終わろうとするこの時期に、暗闇にいるような状況の最中で輝く光を見出すような出来事があっただろうかと振り返えってみることは、意味のあることかもしれません。最近聞いた生徒の行為の中にも、2つほど「光」を感じさせるような出来事がありましたので紹介します。

12月に入って、学校の近くにお住まいの方から生徒の行いについての感謝やお褒めのお言葉を頂く機会があり、嬉しく思いました。一つは、小学一年生が水筒を落としてしまって、それが学校の横を流れる大月川まで落ちて、さらに下流に転がってゆこうとするところを、川底まで降りて拾い、小学生に渡したという中学生の行動です。もう一つは六甲川に架かる勝岡橋前の横断歩道のところで、雨に濡れた路面で滑って転び、うずくまって苦しそうにしている男性に生徒2~3人で近寄って助け起こし、その男性を支えて横断歩道を渡るまで付き添ったという高校生の行動です。人が困っていたり苦しんでいたりするのを見て助けようとする行動は、ただ放っておけないと思って自然に体が動くこともあれば、ためらってしまって勇気が必要だったりすることもあると思います。この話を聴いて私が思い出したのは、新約聖書のルカ福音書の「善きサマリア人」と呼ばれる有名な個所です。

 善きサマリア人(ルカによる福音書10.29-37)
彼(ある律法の専門家)は、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨2枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの3人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

◎ Man for OthersとCompassion
イエズス会学校がめざす人間像として知られている”Man for Others”「他者のための人間」の生き方を、端的に示す第一の人物はイエス・キリストなのですが、このたとえ話の中の「追いはぎに襲われた人を助けたサマリア人」もモデルの一人であると言われています。“Man for Others”を提唱したアルペ神父自身が、このサマリア人の行為がイメージの中心にあったことを述べています。
この聖書箇所ではサマリア人が、追いはぎに襲われてけがをしている人のそばに来て「その人を見て憐れに思い」と書かれています。その思いを英語ではCompassionと表現します。世界のイエズス会教育では、人が“Man for Others, with Others”になるために育てるべき4つの人間性を、4C‘s(4つのC)と呼んでいるのですが、Compassionはそのうちの一つです。弱い立場の人たち(Others)の苦しみに「共感する心」です。水筒を落として困っている子どものために拾うことや、転んで苦しそうにしている人に近寄って助けることは、このCompassionの心が動いて行動に移ったものと言ってよいと思います。Compassionの心は、その人に特定の信仰があるなしを超えて、この世界を救おうとされる神の人々への思いとそのままつながります。旧約聖書の出エジプト記(3章7~8節)には、次のようにあります。
「主は言われた。わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降(くだ)って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地へ彼らを導き上(のぼ)る。」
紀元前13世紀ごろの出来事と言われているのですが、当時、エジプトではイスラエルの人々が奴隷として過酷な強制労働をさせられていました。この聖書箇所では、神はそのイスラエルの民の苦しむ「叫び声を聞き、その痛みを知った」とあります。神は人々の苦しみに共感し、そこから人々を救い出し、モーセというリーダーを立てて、安心して暮らせる広々とした土地へと導きます。そして、明日の晩から明後日にかけて、クリスマスとして祝うイエス・キリストの降誕も、神がこの世界の中で暗闇にいるような人々の苦しみに共感し救いたいという思いから、起こった出来事です。イエスという人をこの世界に誕生させて、その方の生き方を通して人々を救おうとされます。

◎ 「おとぎ話」ではないイエス・キリストの誕生の物語
イエス・キリストの誕生の物語は、聖書の中ではマタイとルカの2つの福音書の中にあります。クリスマス間近のこの季節には、聖書の記述をもとにして教会や幼稚園では「聖劇」が演じられたり馬小屋が作られたりして、時におとぎ話のように語られます。しかし、実はイエスの母親マリアとその夫のヨセフの置かれた立場から見ると、決して明るく温かい「おとぎ話」ではありません。
まず、イエスを身ごもってお産の近いマリアは、ヨセフとともにナザレからベツレヘムへの長旅を強いられます。この世の最高権力者であるローマ皇帝の一方的な勅令によって、住民登録をするためです。ベツレヘムに到着してすぐに陣痛が始まっても、泊まるための宿屋がなく安心してお産をする場所さえ見つかりません。赤ちゃんのお産というのは女性にとってはただでさえ命がけの出来事なのに、産気づいた中での初産に「泊まる場所がなかった」という事実は、母子の命さえ危うい切迫した状況だったはずです。人間的な目で見れば、絶望にさえ陥りかねない事態だったのではないかと思います。結局イエスが生まれた場所は旅先の家畜小屋であり、最初に寝かされたのは家畜のエサを置く器である飼い葉桶です。その上、誕生直後にマリアとヨゼフは、ユダヤを統治していたヘロデ王がイエスを殺害しようとしていることを知って、ベツレヘムからエジプトへと逃れます。身重の体で旅をしたマリアは出産の後に安静にする間もなく、初子を連れてエジプトまで逃避しなければなりませんでした。
私はかつてイスラエルの都市テルアビブからエジプトの首都カイロまで旅をしたことがあるのですが、荒れた道で砂塵の舞う砂漠の光景の中をバスで14~15時間ほど走ります。イエスの生まれた時代は交通機関の整わない2000年以上も前のことですから、マリアとヨセフにとって幼子を連れての未知な場所への旅は、極めて過酷なものであったに違いありません。人間的な観点から見れば、イエスの誕生の物語は、全く暗闇の中に突然投げ出されたような、理不尽で困難な状況を強いられた出来事だったと思います。
このように救い主の誕生にまつわる話は、まるで先の見えない真夜中の暗闇の中での出来事です。そうでありながら闇の中に輝く光を見出すような出来事ともなるのは、人間的に見れば悲惨な暗闇の状況にあっても、希望の光は与えられることを教えてくれるからです。

◎ 2011年に被災地石巻で聞いた話
私が聖書のイエスの誕生の物語を読んで思い出すのは、2011年の夏休みに生徒たちと東日本大震災の被災地ボランティアに行った時に石巻で聴いた話です。その年に生徒たちが被災地支援のために描いて送った横断幕の一枚が石巻女子高校に届いたので、ボランティアの合間に学校に寄って、たまたま会ったブラスバンド部の生徒2名から話を聴きました。
3月11日は、その高校ではもう授業のない春休み期間に入っていて、学校に来ていたのは部活動の練習のある生徒だけでした。揺れ始めたときにはすぐにおさまると思ったけれども、だんだん大きくなってきて、まるで船の中にいるような揺れが一分間以上続きました。異様な揺れ方に驚いたそうです。
携帯電話を持っていた子から、地震の規模の大きさや津波の危険があるという情報は知ることが出来ました。学校は高台にあるので待機しているうちに、海岸に近い街に津波が襲ってきました。校舎の窓から津波に街が飲み込まれてゆく光景を、息をのむ思いで見ていた生徒もいれば、その場にはいられない生徒もいたようです。
津波が来る頃には、海辺の街に住んでいる人たちが、警報を聞き必死で逃げ出して、高台にある学校に避難しに来始めていました。地震が来るまで部活動をしていた生徒たちは、教室一つずつ、避難場所になるように机椅子を寄せていって、街から来る人々を誘導したそうです。瓦礫を押し流す津波の中を避難してきた人たちのうちには、怪我をしている人もいたので、保健室に連れていきました。自分の子供や親類・知人を必死で探している人もおられたので、生徒たちは掲示板を作り、人捜しの情報をそこに集めて掲示する作業もしました。
敷地が隣り合わせで坂道を下った所に門脇小学校があります。小学校の方は大地震の来たその日が卒業式でした。式典のあったその日の放課後に津波に襲われ、自動車が津波に流され、ぶつかり合ううちに火がついて、その炎が小学校の校舎に燃え移りました。
石巻女子高校では、一旦は学校を避難所として被災した方々に寝ていただくようにしましたが、校舎下にある門脇小学校の炎は夜半になって激しくなったそうです。燃え上がる炎が学校から間近に見えます。石巻女子高校に燃え移る危険性が生じてきたので、この学校に身を寄せた被災者たちを、より高台の海から遠い学校へ避難していただくように女子生徒たちは誘導しました。すでに夜中の1時を過ぎていたそうです。
石巻女子高校の生徒の中には家の人が学校まで迎えに来て、心配していた家族と巡り会えて帰った子たちもいました。避難所となった学校に残って、一晩中街の人たちのために働いた生徒たちもいました。学校に残った生徒たちは自分の家族のことを案じ無事を祈りながら、目の前にいる避難してきた人たちの世話をしていたのだと思います。

◎ 暗闇の中の光-”Man for Others”となるために
以上が石巻女子高の生徒2人からボランティアの合間に聞いた話です。2011年のクリスマスの聖書朗読の中で、ふっと被災地で聞いたこの話が思い浮かんでから、なぜか私の中ではクリスマスとこの話とがつながって思い出されます。その理由は、私自身にもわかりませんでした。自然の力であるにせよ人間の力であるにせよ、抗えない力を前にして暮らしていた家から離れざるを得ず、差し迫る状況の中で身を寄せる場所を求める人たちの姿が、マリアとヨセフの姿と重なったのかも知れません。イエスの降誕の物語では暗闇の中に輝く光は天上的な幸福をもたらすものであったのに、それとはまったく対照的な、津波に襲われた日の闇夜の中で街を焼き尽くす炎を連想してしまったのかも知れません。しかし心の中心には、避難してくる人々に手を差し延べた高校生たちの思いと行動のうちに、暗闇としか見えないような悲惨な出来事の最中に、温かい光を見いだした喜びもあったように思います。
最初に紹介した六甲の生徒の行動にも、聖書の中のサマリア人の行動にも、石巻の高校で被災した人々を助ける生徒の行動にも共通するのは、苦しみの中にある人を救おうとする共感の心-Compassion―です。それはエジプトで奴隷として働いている人々を救い出そうとする神の思いともつながっています。そして、私たちがめざすMan For Others, With Others の生き方の中心にあるのは、この共感の心―Compassion―なのだと思います。

新型コロナによる感染拡大をきっかけに生活面でも精神面でも苦しむ人々が多いこの世界の中で、神が人の行いを通して困難の中にある人々を助け支え導かれますように、私たちが、その働きを暗闇の中に輝く光のように見いだすことのできる心の眼が育ちますように、また私たち自身が苦難の中にあっても世の光となる行動が取れる人間―Man for Others―へと成長しますようにと、クリスマスを迎えるにあたって祈り求めたいと思います。