《2022年3月19日 3学期終業式 校長講話》
1 ロシアのウクライナ侵攻と難民への校内募金活動
21世紀になってから、それもヨーロッパで、このような侵略戦争が起こるとは思いませんでした。独立した主権国家であり、日常を平和に送っていたウクライナに、大国ロシアの戦車が国境を超えて攻撃したりミサイルで攻撃したり、3週間たった今は軍事施設だけでなく劇場に避難したり列車で移動したりしている普通の民間人に向けて攻撃が行われています。隣国へ避難している人々が300万人を超えていると言われています。
何かをしなければと思っている最中に、社会奉仕委員が主体的に動き出して募金活動をしてくれました。考査返却期間の3日間、登校時の限られた時間に東西両広場への階段前で呼びかけて、78,107円の募金が集まりました。ウクライナからの難民のための活動に生かしたいと思います。
昨年4月に大洪水の災害のあった東ティモールへの募金の時にも感じたことですが、世界の動きに応じてこうした活動がすぐに始まるのは、イエズス会教育を基本にしている六甲学院の生徒たちの特徴であり良さだと思っています。
イエズス会教育の特徴は、こうした募金活動にも表れているのですが、グローバルな視点と未来志向であることです。どんな厳しい状況になっても、自分のこと、自分の国のことだけを考えず、世界のことを考え、希望を失わずにより良い未来にするためにはどうしたらいいかを思案し行動する精神が、基本にあります。
2 地球儀を見るように世界を見渡す「グローバルな視点」
初期の創立者の一人にヨーロッパから日本にまで来たザビエルがいたように、イエズス会はその初めから「グローバルな視点」を持っていました。必要であればどんな場所でも行く心の自由さがあるだけではなく、地球儀を見るように世界全体を見渡して、特に痛んだところ、傷ついたところに目を向ける視点を持っています。イエズス会学校が大抵、坂の上にあるのはこの全体を見渡す―「眺望する視点」を持つ―ためだと言われることもあります。イエズス会教育の基礎にある創立者イグナチオの精神を体得する祈り方<霊操>の中には、世界を見渡してそこに暮らす人たちをできるだけ具体的に思い浮かべる訓練があります。
イエズス会学校が実際にグローバルな広がりを持っていること、全世界にあることを、ぜひ在校中に様々な機会を捉えて実感してほしいとも願っています。この春休みはチリとグァテマラの姉妹校の生徒たちと六甲の14名の中2・高1の生徒が交流することになっているのですが、そうしたことができるのも全世界に姉妹校があるからです。こうしたプログラムにはぜひ積極的に参加してください。実際にグローバルな視点を持つための助けになると思います。
3 振り返りから社会の変革をめざす「未来志向」
もう一つの特徴である未来志向についてなのですが、イエズス会教育はその初期から「若者の教育は、世界の変革である」という言葉がモットーの一つになっています。イエズス会学校創成期の16世紀後半に活躍した司祭ボニファシオ(Juan de Bonifacio1538-1606)の言葉です。将来の世界をより良いものに変えてゆくために教育に取り組んでいるという意識が、イエズス会教育の初めからありました。
実際に社会を変革するためには、根拠のない夢や妄想を抱くのではなく、しっかりと現実を踏まえたうえで、常により良い未来を考える必要があります。そのために、他者のために何をしてきたか、過去を振り返り、今何をしているか、現在を確かめ、これからこの社会をよりよくしてゆくために何をしてゆくか、自分に何ができるか、将来を考えます。これもイグナチオの精神を体得する祈り<霊操>に、日々の生活の中で過去、現在、未来を、つねに振り返りつつ次の行動を選択する習慣を染み込ませるための訓練があります。「瞑目」の原点にある祈りです。
今回のロシアのウクライナ侵攻にあたって、社会奉仕委員が自主的に募金活動をする動きも、グローバルな視点で世界の特に傷んでいる地域を見て、今の私たちに何ができるかを問う中で、現実的にできることを考えて選択し実現した行動です。
4 教皇フランシスコ来校記念表彰と教皇のメッセージ
今年度、六甲学院のインド募金・インド訪問を始めとした社会奉仕活動が、上智学院の教皇フランシスコ来校記念表彰に選ばれました。教皇とは、世界のカトリック教会のリーダーです。この受賞の意味については、今日配布する学院通信に書きましたので読んでもらえればよいと思います。現在の教皇フランシスコは、貧しく社会から排除されている人々や環境破壊に傷ついている地球を救うことを、メッセージの中心に据えています。教皇はイエズス会出身ですので、彼自身が常にグローバルな視点に立って未来志向の行動をしていることも特徴的です。
賞状には「貴殿は教皇フランシスコが2019年11月26日来日時にくださったメッセージに呼応する活動に、多大なる熱意をもって取り組んでこられました」とあります。教皇フランシスコが上智大学で、その来日時に話した講演メッセージの一部を紹介します。
教皇は講話の中で「貧しい人たちを忘れてはいけません」(ガラテア2・10)という聖書の言葉を引きながら、私たちが「現代社会において貧しい人や隅に追いやられた人とともに歩む」ようにと呼びかけています。そして学校が「単に知的教育の場であるだけでなく、よりよい社会と希望にあふれた未来を形成していくための場となるべきです」と話されます。ただ知識を身につけるだけでなく真の叡智(ソフィア=上智)を身につけ、「己の行動において、何が正義であり、人間性にかない、まっとうであり、責任あるものかに関心を持つ者」「決然と弱者を擁護する者」となるようにと励まされています。教皇はイエズス会の司祭出身ですので、こうした言葉の中にもグローバルな視点と未来志向がみられます。
この「何が正義であり人間性にかない弱者を擁護する行動になるのか」を見極めることを、「識別」といいます。そして教皇は「教員と学生が等しく思索と識別の力を深めていく環境を作り出すよう、推進していかなければなりません」とも述べています。どういう方向へと世界を変革してゆくかを識別する力を、生徒も教師も身につけ深めてゆくことが求められています。
今回の受賞は、こうした方向性をさらに今後も推し進めるようにと、励ますために与えられた賞であるということができます。
5 未来に向けての行動として-平和に導く政治家を選ぶための見識を持つ
もう一つ、皆の将来に向けて大切な願いを伝えたいと思います。私たち国民を戦争に巻き込むような考え方を持っている政治家を、選挙で選ばないということです。今回のことで一人の、あるいは少数の政治家の決断がどれだけの自国と他国の人々の生活を変え、不幸にしてゆくかはわかると思います。日本は選挙で政治家を選ぶことができる国です。選挙というとみんなには縁遠いように思われるかもしれませんが、昨年10月の総選挙の日までに誕生日を迎えた高校3年生は、すでに選挙に行っています。皆も高校3年生になり誕生日を迎えれば選挙で一票を投じる権利を持ちます。中学高校時代は、大人として社会に参加することにそのままつながる準備の期間です。今から卒業までの間で、学校の授業や新聞・テレビなどのメディアや読書やインターネットなどを通して、しっかりとした見識と価値基準とを身につける必要があります。この人が政治家となれば日本や世界は平和の方向に向かうのか、それとも平和を脅かす危険な方向に向かうのか、見分ける力をつけてほしいと思います。それも識別であり未来に向けての行動の一つです。
《2022年3月19日 中学校卒業式 校長式辞》
82期生の六甲中学ご卒業おめでとうございます。
コロナ感染パンデミックとロシアのウクライナ侵攻が続くこの時代に、皆が中学を卒業するにあたって、どのような人々と出会い、どういう人たちの生き方や心の在り方をめざしてほしいか、について話したいと思います。
1 ロシアの国営放送で「戦争反対」を訴えた勇気ある女性スタッフ
ロシアのウクライナ侵攻から3週間が過ぎ、ロシア軍の攻撃が劇場や列車など子どもを含む民間人にも向けられる中、この戦争を止めるためのメッセージを込めた行動がロシア国内でもあることを示す象徴的な出来事がありました。ロシアで多くの市民が視聴する9時の国営テレビの生放送中に、テレビ局女性スタッフの一人が「戦争反対、プロパガンダを信じないで。ここではあなたにウソをついている」という手書きポスターを掲げた行為が、映像とともに報道されました。「砲撃はウクライナのしわざだ」「ロシア軍はウクライナ政府に苦しめられている市民を解放するために戦っている」といったロシア政府から国営放送を通じてロシア市民に流されるプロパガンダを信じずに、ロシア軍が他国に軍隊を送って攻撃している今の戦争を一刻も早く止めるように、ロシア国民も目覚めて、協力してほしいという訴えです。ロシア内の厳しい言論統制の中、また戦争に反対する市民への弾圧も続く中で、こうした行動を取ることは大変勇気のいることです。本人も「これから自分がどういう処罰を受けるかは、こわい」という心情を話していました。命の危険まで覚悟したうえでの行動だったのだろうと思います。
2 遠藤周作「ヴェロニカ」の物語
カトリックの小説家である遠藤周作の短編に「ヴェロニカ」という小説があります。
教会の暦の上ではこの3月から4月中旬にかけて、イエスの受難と復活を記念する聖週間に向けての40日間の心の準備の期間です。「四旬節」と呼んでいて、世界の苦しむ人々とも心を合わせる時期でもあるのですが、小説「ヴェロニカ」は、この四旬節の時期に私が毎年読むことにしている文章の一つです。国語の教科書にも載ったことのある文章です。その小説の中では、第二次世界大戦中の南フランスでの話が紹介されています。フランスのある山村に住む内儀(かみ)さんが自分の家の納屋で、占領軍として来た敵国ドイツ兵の若者が、怪我をして血を流しながら隠れているのを発見しました。このドイツ人の若い兵士を助けたらドイツ兵に協力した者として処罰されるかもしれない。しかし、どうしても怪我に苦しむ若者を見捨てることができなくて、この女性は敵国の兵士を介抱します。ドイツ兵の苦しみに同情し共感する思いを、作者は「激しい憐憫の情」と表現しています。この傷ついた敵兵は結局見つかって村の青年たちに殺され、それだけでなく青年たちはこの女性もフランスを裏切った者として、ののしりながら殺し古井戸の中に投げ込んでしまいます。のちに村の人々は自分たちの過ちに気づいて悔い、この女性の行為を称え、「あなたはわれわれよりほんとうのフランス人だった。人間だった……。」と文字を刻んだ像を、村の入り口に立てているということです。
3 小説「ヴェロニカ」のメッセージ
小説の中では、人間が集団になると残酷で凶暴な行動に向かってしまう群集心理のこわさと人間の弱さを描きながら、そうした中でも人間としての良心と憐憫の情を失わない人がいることを語ります。同時に小説では、この話と関連させて、凶暴な興奮に駆り立てられた群集が、残酷なむち打ちに傷つき十字架を肩に背負って歩くイエスに罵声を浴びせる中で、あえぎ倒れるイエスに駆け寄って汗と血にまみれた彼の顔を布でぬぐった女性がいたことを、伝承として語っています。その女性の名前が小説の題名である「ヴェロニカ」です。作者は次のように述べます。
「ヴェロニカの小さな存在は、社会や群集がどんなに堕落しても、人間の中にはなお信頼できる優しい人のいることを僕たちに教えてくれるようです。」
4 希望をもたらす人―「憐憫の情」を抱き良心の声に従う生き方
偽りであることを承知で自国の侵略行為を正当化する内容を報道するロシア国営放送の最中に、命をかけて反戦を訴える勇気や、何よりも戦争で苦しむ人たちのことを思いやり自分の良心の声に従おうとする女性の思いは、ドイツ兵を同じ人間として助けたフランスの内儀さんやイエスを助けたヴェロニカとつながるものではないかと思います。国家や民族を超えて傷つき苦しむ人々に憐憫の情を抱き、人間の尊厳や命の尊さを何よりも大切にする人間への愛がその根底にはあるのでしょう。
3月5日の高校3年生の卒業式では、卒業した79期生は『カラマーゾフの兄弟』という小説を読んでいましたので、どんな状況になっても人間としての良心と善良さを失わない「アリョーシャ」という登場人物を例に挙げたのですが、こういう人がいるからまだ人間には望みをかけられると思える人物は、小説の中だけでなく私たちが見聞きし出会う人たちの中にもいるはずです。ロシアの国営放送のスタッフもその一人です。コロナウイルスパンデミックが収まりきらない中でヨーロッパに戦争が起きて、先の見通せない暗い思いが世界を覆いそうなこの時代だからこそ、希望を見出す目を持ってほしいと思います。できれば身近なつながりの中でも、希望となる人たちと出会う機会をもってほしいですし、自分たち自身がそういう人になることをめざしてくれたらよいと思います。
《2022年3月5日 高校卒業式 校長式辞》
1 コロナ禍・ウクライナ戦禍と生き方の軸の模索
79期生のご卒業、おめでとうございます。2年前の政府からの突然の一斉休校要請に始まり、今回のオミクロン株の感染流行に至るまで、皆の高校生活のうちの2年間はコロナウィルスに翻弄され続けました。そのコロナのパンデミックに加えて、10日前のロシアのウクライナへの侵攻によって、世界はますます混迷の度合いを深め、不確実で不透明な時代を今後も生きざるをえない状況になっています。そうした時代でも懸命に重篤なコロナ感染者を救おうとする医療関係者や、戦争に反対し平和の回復を願う世界の人々の連帯の動きなど、人間の尊い行動に目を向けることも忘れてはならないと思います。社会も個人も危機的状況の中で、何を生き方の軸とし、一旦へこんだ心をどう回復させて、経験を次の糧にしていくか、おそらくこの2年間の中で皆が問われたことでもあり、まだ模索中の人もいれば日々の生活や行事の中で何らかの手立てを見つけ出した人もいるのではないかと思います。
79期生が担った2大行事のうち文化祭は映像の配信が中心になり、体育祭は午前中の実施という形にはなりましたが、それぞれを制限された範囲でアイディアを出し合い創意工夫しながら実行していました。特に体育祭は、その一年前に実施できなかった78期の卒業生たちの思いを受け継ぎつつ、まずは練習ができることに感謝しようと全校生徒に呼びかけながら、精一杯取り組んでいた姿が印象的でした。実は、この「感謝する」気持ちは最もポジティブな感情で、逆境や危機に直面していたとしても「感謝」の感情を持つことができたときには、すでに危機的な状況からは一歩抜け出し立ち直っていると言われています。体育祭委員長は、逆境から抜け出す手立てを全校生にメッセージとして伝えてくれていたとも言えるでしょう。
2 79期生の『カラマーゾフの兄弟』の授業
私は授業を担当したことのない学年ではありましたが、印象に残る授業はあります。高2の2学期後半から3学期にかけて、継続的に参観した現代国語の青柳先生の『カラマーゾフの兄弟』の授業です。今日の卒業式の生徒参加者は(コロナ感染対策のため他学年が参加できず)、この小説を読んだ経験のある79期生ですので、この小説を題材にして、話をしたいと思います。
一般的に言えば、高校でドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』のそれも「大審問官」の場面を、授業で扱うのは無謀です。しかし、内容的にも難解な箇所を丁寧に熟読しつつ、解釈の根拠を探し比喩を的確に言い換えながら、筆者の“イイタイコト”を掴み、正当な解釈を導き出す現国の授業として、しっかりと成り立っていました。おそらくグループ発表に当たって、テキストの記述に即してお互いの解釈を出し合い、グループとしての解釈を作り上げてゆく知的な面白さを感じた生徒は多かったのではないかと思います。青柳先生がご家族の事情で東京の学校に転任されることは知っていましたので、私からは、「正確に文章を読み解く授業としてならば、東京に行っても、『カラマーゾフ』を使って同じような授業は可能なのではないでしょうか?」と先生には申し上げたのですが「いや、カラマーゾフの授業は六甲の生徒でないとできないんです」という答えが返ってきました。
授業が進むにつれて、その意味が私なりに少しずつ解ってきました。あくまでも授業は国語としての解釈の授業であり、書かれている文章を根拠に正解を探っていくのですが、時に文字面(づら)だけ、表面的な言葉の意味を理解するだけでは、作者ドストエフスキーが本当に表現しようとした内容までは届きません。特に青柳先生が選んだ「大審問官」とその前の章は、キリスト教の思想というよりは人間としてのイエスがどういう人か、その心もわからないと解釈が根本からズレて、見当違いの表層的な理解になってしまう可能性がある箇所です。六甲の生徒たちは、たとえイエスについての知識は多いとは言えなくても、六甲の生活で、例えば弱い立場の人たちへの共感や、だからこそ生まれて来るこの世界への疑問や、権威を持った人の横暴さへの怒りや、対立の中で和解を望む心や人をゆるすことの大切さと難しさなどを体験しています。学校生活の中でのその共通体験が、こうした深い内容の小説の解釈にも生きてくるように思います。
例えば「人間に『自由』が与えられても、地球上に皆のためにあるはずの食べ物をうまく配分できない」という大審問官の指摘は21世紀にいたるまで本当です。「パン」-つまり生活の糧-を有り余るほど与えられている一部の富裕層が、自分の自由を行使してますます富み、貧しく飢えた人たちに生活の糧が配分されないために格差がますます広まってゆくという現代的な問題を、すでにイワンが描く大審問官は鋭く指摘しています。そうした世界の課題や疑問が、授業や社会奉仕の諸活動の中で生徒の間に共有されているからこそ、また、社会の矛盾や人間の弱さへの洞察を、授業や活動を通して経験しているからこそ、書かれている内容や登場人物への共感も生まれますし、共に解釈を真剣に考え合う場も生まれるのではないかと思います。
3 世界の理不尽さに苦しむ人々への共感からのキリスト教教育
そうした共通体験は79期生だけではなく、在校生も同様にしています。学年末考査一週間前でも、ロシアのウクライナ侵攻について、いくつかの学年では新聞などを用いながら考える授業をしていました。そうした授業を通して権力の横暴さやこの世界の理不尽さを知ることになります。
例えば、キエフの街で10日前までは普通に日常を平和に暮らしていた小学生の女の子が、その2日後には地下壕の中で、「爆弾のドーンという音で目が覚めた。今戦争が起こっていることはわかっている。死にたくない。」と涙を流しながら訴えています。その姿は、カラマーゾフの兄弟の中で「どうして罪のない子どもまで苦しまなくてはいけないんだ」というこの世界の理不尽さに対してのイワンの疑問とつながります。そして、彼の創作する大審問官の物語の中でイエスは終始無言ではあっても、大審問官への態度からは、無垢な人々が苦しむこの世界に根本的な疑問を持つ人間に、苦しみに無関心な人々よりも、共感し受け入れようとしているように読み取れます。それは、イエス自身も強大な権力による横暴さのために死に直面し、その理不尽さを丸ごと経験したうちの一人だからです。
六甲学院は、一般に言う「ミッションスクール」のイメージとは違って、一緒に声を合わせて祈りを唱えたり聖歌を歌ったり、校舎の中に十字架や聖像などを置いたりしない学校です。教えとして系統立てて、キリスト教について学ぶ機会もほとんどないかもしれません。しかし、知識としてそれほどイエスことは知らなくても、気づかぬうちにイエスの生き方や思いと通じる種が心の中に蒔かれて、いつの間にか育っているように思います。その共通の土壌が、「カラマーゾフの兄弟」の授業であれば、作者ドストエフスキーの伝えたかったメッセージをある程度の深みをもってつかむことにもつながり、解釈の表現の中にも自然に表れて来るのではないでしょうか。青柳先生のおっしゃる「六甲でなければ成り立たない授業」というのは、一つには、そういうことなのではないかと思います。
4 危機の中で心の支え・生き方の軸を見出すために(3つのヒント)
コロナ禍の中で、世界的な危機でもあり、時には個人にとっても精神的な危機でもあったこの2年間は、初めに話したように、何を支えにしてどう乗り切るかを問われていた時期であったと思います。危機を乗り切る手立てを探るヒントとして、「カラマーゾフの兄弟」と関連させながら最後に3点話したいと思います。
一つ目は、イワンにとって心の支えになるアリョーシャのような存在に出会ってほしい、または誰かにとってのアリョーシャのような人物になることをめざしてほしいと思います。
イワンは弟のアリョーシャに「大審問官」の物語を話した後に次のように言います。「もしほんとうにぼくに若葉を愛するだけの力があるとしても、おまえを思い出すことによってだけ、ぼくはその愛を持ちつづけていけるんだ。おまえがこの世界のどこかにいると思うだけで、ぼくは生きて行く気力をまだなくさずにすむんだ。」(江川卓訳)
どんなに理不尽な状況下にあっても人間らしさや善良さを失わない人物、人間関係がどれだけ険悪な最中でもより良い方向へむかうよう努力する人物、こういう人がいるから人間に対して失望しきらずに生きてみようと思える人物、そういう人物に出会ってほしいと思いますし、できれば、六甲を卒業する一人一人が、他者に生きる希望や気力や元気さをもたらす人になってくれることを願っています。
二つ目は『カラマーゾフの兄弟』の最終章に、アリョーシャが中学生たちにひとまとまりの話をする場面があります。アリョーシャが、暮らしてきた街を出て行くにあたって子どもたちとの別れのあいさつをする場面です。もしも、『カラマーゾフの兄弟』を最後まで読んでいないのであれば、大学に合格したらぜひ読んでみてください。アリョーシャは物語の終わりに次のように話します。
「子どもの頃から持ち続けられている、何かすばらしく美しい、神聖な思い出、それこそが、おそらく、何よりもすばらしい教育なのです。もしそのような思い出をたくさん身につけて人生に踏み出せるなら、その人は一生を通じて救われるでしょう。そして、そういう美しい思い出がぼくたちの心にはたった一つしか残らなくなるとしても、それでもいつかはそれがぼくたちの救いに役立つのです。」
よい思い出を共有できる仲間がいることは大切です。仲間とのつながりも、その仲間との思い出も、支えになりますし、アリョーシャが言うように、そういう大切な思い出が一つでもあれば危機的な場面でも自分の「救い」になりうると思います。卒業式予行の日に配られた卒業アルバムは、そのための役にも立つでしょう。
6年間をともに過ごした仲間とのつながりと思い出を、大切にしてもらえたらよいと思います。
- 与えられた命を人のために活かす‐「使命」に気づくこと
三つ目に紹介したいのは、高名な医師であり105歳まで生きて2017年に亡くなられた日野原重明(ひのはらしげあき)さんの話です。1970年、58歳の時によど号ハイジャック事件に巻き込まれて、命の危機を体験されています。犯人たちは乗客を人質にとって、北朝鮮の平壌(ピョンヤン)へ向かうように要求します。朝鮮海峡上を飛んでいるときに「平壌(ピョンヤン)までは時間があるから読み物を貸す」と犯人の一人が言ったその読み物リストの中に『カラマーゾフの兄弟』があったそうです。飛行機は平壌(ピョンヤン)まで直には行かず韓国の金浦空港に着陸して日本の政府とハイジャック犯たちとの折衝が始まり、日野原さんは4日間飛行機の中に拘束されます。もしも韓国軍の部隊が操縦室に突入して犯人たちを撃破しようとすれば、犯人たちはダイナマイトで自爆して、乗客たちは巻き添えになる危険性がある。そういう命の危機の中で日野原さんは犯人から『カラマーゾフの兄弟』を借りて、特に危険度の高まる夜間に、心の平静を保つためにこの小説を読んでいたといいます。
日野原さんは『カラマーゾフの兄弟』の扉ページ冒頭に引用されていた聖書のことば 「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」(ヨハネによる福音書12章24節)という一節を読んで「今ここで僕のいのちが失われたとしたら、自分の死は、果たしてその麦のように多くの実りをもたらすごとができるのだろうか。僕はそのことを自分自身が問われているように受け止めた」といいます。そして、当時の政府高官の一人が乗客の身代わりになるという折衝の結果、拘束から4日目に乗客全員が解放されました。日野原さんは金浦空港の地面に足をつけた瞬間、無事生還した感激とともに、「僕は再びいのちを与えられた」という「感謝」の思いが強く沸き起こったそうです。そして「これからの僕は、与えられたいのちを生きる僕なのだから、誰かのためにこのいのちを捧げよう、そういう気持ちが自然にわいてきた」といいます。「一時は失われることも覚悟したいのちが再び与えられ、こうして地球の地面を踏むことができた。僕はその恵みに対して、自分の名誉などのためではなくて、人のために何かをすることこそが使命だ、と素直に思いました」とも述べています。日野原さんはその後の人生を「第二の人生」というほど、この出来事が大きな転機になりました。
今回のコロナウイルスパンデミックのように、危機に直面することは辛いことではありますが、次を生きるための新しい人生観に気づく契機にもなりうるのではないかと思います。
自分の命は与えられたものであり、その生命を終えるときには豊かな実をむすぶような、人のために何かをする使命が与えられている、そうした気づきが得られたとき、また自分の使命が何かを自覚できたとき、それはこれからの危機を乗り切るための力にもなるだとうと思います。キエフの地下壕で「死にたくない」と訴えている女の子のために何ができるか、それは小説の中の問題ではなく現実の問題です。最初に述べましたように、ますます混迷の度を深めてゆく世界の中で、だからこそこの世界のため、人のために自分にできる何か、自分にとって生きる意味であり使命と言える何かを、79期生一人一人が見つけ出してくれれば、と願っています。