《2025年3月1日 六甲学院高等学校 82期生卒業式 上智大学 曄道学長 祝辞》
皆さん、ご卒業誠におめでとうございます。また、ご父母、ご関係の皆さまにも心よりお祝い申し上げます。節目の時を迎えられ、ご本人もご家族も、そして皆さんを見守り続けるご関係の方々も、それぞれの感慨をお持ちのことと思います。
私はご紹介を頂きましたように、六甲学院と同じくカトリック・イエズス会を母体とする東京の上智大学で学長を拝命しております。同じ法人下であることもあり、本日このような機会を頂戴いたしました。私にとっても、皆さんは仲間であり、ファミリーであります。新たな門出を迎えられる皆さんに一言お祝いを述べさせて頂きます。
さて、社会は黎明期にあります。技術革新、国際関係の複雑化、新たな価値の出現など、私たちが直面している社会変革の進行は、これまでの延長ではない人間社会の在りようを描こうとしています。私たちの社会は重要な岐路にあると言えるでしょう。「岐路にある」と表現した理由は、おそらく人間社会は、今、いくつかの選択肢を持っているであろうからです。今日の革新的なデジタル技術の出現を、産業革命時の蒸気機関の出現のインパクトに準える見方がありますが、技術革新が次から次へと社会の変革を促した当時も、そして今までも、おそらく人間社会は多くの選択肢を持っていたでしょう。様々な無数の選択肢を前にして、私たちは利便性、高効率、大量生産を過度に追い求め、地球環境に対する犠牲を見過ごしました。自らが選択し、何かを追い求め、何かを享受した事実があるのですから、それは私たちの選択の結果であったと言わざるを得ません。
このことは個人についても当てはまります。今みなさんは卒業を経て新たな道を進むその入り口に立っていると言えます。その道は皆さんによって選択されたものです。今後、皆さんの人生は、多層的にいくつものステージによって構成されていきます。これまでの中学、高校への進学によって到達したステージでは、主にある枠組みの中にある体系化された学びの機会が提供されてきました。これからのステージでは、多くの人には大学を指すでしょうが、学びは皆さん自身によって、自由に様々に選択することによって彩られていきます。そしてその彩こそが皆さんの個性になるのです。その選択は、大きさ、重要性、選択肢の数から、いつその選択を行う機会が訪れるかというタイミングに至るまで、今予測できるものではありません。その折々において、「選択の自由度をいかに多く持ち得るか」が、人生をデザインするための支配的な要因、要素となるでしょう。例えば大学での学び、研究は、この選択の自由度を拡げるための大きな力になると言えます。皆さんの人生における数々の選択は、その対となる選択との比較はできません。皆さんが通る道は、実に多くの選択によって形作られますが、無数の選択肢の中から皆さん自身によって選ばれ形成された道筋、すなわち人生は一通りだけです。これが人生の醍醐味であろうと思います。この道筋に納得がいく、誇りを持てるということを、充実した人生と呼ぶのだと思います。
上智大学は六甲学院と同じ学校法人に属しています。その教育精神は、「他者のために、他者とともに」として共有されています。この教育精神は、支えの必要な人たちに、弱い立場にある人たちに向けた私たちのあるべき姿勢を示しています。皆さんがこれから向き合うマルチステージへの選択はハードルの低いものではないでしょう。むしろ果敢にチャレンジするハードルの高さが皆さんを奮い立たせることでしょう。しかし、どのような状況にあろうとも、皆さんの耳を、目を、心を、立場の弱い人にも向けてください。先頭に立つ者こそ、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になるべきと聖書は説いています。様々な選択によって自分自身の目標に近づいていくということが、他者に仕える自分の在りようを高めていくことでもあって欲しいと思います。真のリーダーとは、自分の目標がアップデートされていく中でこの心得を実践しようとする人であろうと思います。真のリーダーとは、まさに自分が困難な時にあってもこの心得を実践しようとする人であろうと思います。
本日祝辞としてお話させて頂いた「選択」の意味は、この社会においてますます重要性を帯びるものと認識しています。無数にある個人の選択、組織の選択、そして社会の選択が、知らぬ間に人間社会の、そして地球の将来を描き出していきます。そしてその社会像と私たち一人ひとりの人生は密接に関係し、どちらかだけが満足のいく結果を得るという結末が訪れることはありません。自分の成功の陰で弱者が放置されることがあってはなりません。地球環境の悪化の中で、一時の利便や利益が尊重されてもなりません。これからの個人の、組織の、社会の日々の「選択」は、責任のある拠り所によってなされていくべきものと思います。そのような自覚の下で、皆さんが人生を大いに謳歌してくださることを祈念致します。高度な専門性を、世界に通じる広い教養を、他者との合意形成を得るコミュニケーション力を、そして私たちの教育精神である「他者のために、他者とともに」に基づく深い人間性を身に付けた皆さんにとって、「責任ある選択」の追求もまた、人生の彩なのであろうと確信し、私からの祝辞とさせて頂きます。
ご卒業誠におめでとうございます。
2025年3月1日
上智大学長 曄道佳明
《2025年3月1日 六甲学院高等学校 82期生卒業式 校長式辞》
「感謝」と「共通善」の追求
―「命」と「人の支え」に感謝し、壁を越えて共に平和を築く仲間づくりへ
(1) 中高6年間の成長
82期の皆さんのご卒業、おめでとうございます。保護者の皆様、ご子息のご卒業、本当におめでとうございます。82期の皆は、この6年間をどういう思いで振り返っているでしょうか。少年期から青年期に向かうこの6年間の心身の成長には、著しいものがあります。例えば、入学して程なく行われる体育祭総行進では、先輩の指導についてゆくのに必死で、目の前の生徒の後を追って歩くのに精一杯だった中学1年生が、高校3年生になると立派に全校生を指揮して総行進を創り上げ、後輩の手本として堂々と歩くまでに成長します。
(2) 高3生の朝礼スピーチー「支えられて生きている『命』への感謝」
昨年6月初めの、体育祭を週末に控えた月曜日に、高校3年生のある生徒が、生徒会朝礼で、「感謝」をテーマに4~5分ほどの短い時間、話をしてくれました。命の大切さや生まれて今ここに生きていることへのありがたさについて、語ってくれました。
「自分は700グラムという超未熟児で生まれた。生まれ落ちてそのままの状態だったら生きてはいられなかった。それが、設備の整った病院で手厚く医療スタッフからの手当・看護のもとに命を保つことができた。そして、今、こうして好きなスポーツが思い切りできるくらい元気に生きている。自分をあきらめずに生んでくれた親への感謝とともに、超未熟児で生まれながらも多くの人たちに支えられて、今生きていることへの感謝の気持ちを忘れずに、恩返しをしてゆきたい」と話してくれました。体育祭をするにあたって、「後輩は先輩へ、先輩は後輩への感謝を忘れないでほしい」とも加えて話をしてくれていました。
(3) 体育祭-受け継がれたテーマ「覇」と先輩(78期生)への感謝
82期は、中2から高1までの3年間、思いがけなくコロナ禍の中で生活することになり、学校生活にも様々な制約がありました。皆にとって中1指導員のいる学年であった78期生は、2020年、3ヶ月にも及ぶ新型コロナ学校閉鎖の影響を受けて、無念な思いの中で体育祭が中止となり、高校生活最後で最大の行事を後輩たちと創り上げることができませんでした。皆にとっては中学2年生の時の出来事でしたが、その時高3であった78期の先輩たちの気持ちを察し、お世話になった先輩たちに向けてできることはないかという思いを、その後も保ち続けていたのだろうと思います。78期が決めていた「覇(はたがしら)」というテーマを82期はそのまま受け継いで、総行進を含めて見事な体育祭を仕上げてくれました。それは82期が6年間のうちで示した行為の中で、最も印象に残ることの一つでした。中1から自分たちの成長を願って日々世話をしてくれた先輩たちに向けて、感謝の気持ちを表し、立派に体育祭を創り上げることで自分たちの成長も表現し、恩返しをしたいという思いの表れだったのだと思います。こうした先輩・後輩の関係は、六甲学院ならではの出来事であるともいえるでしょう。
(4) 後輩を励まし褒めねぎらい感謝しつつ、「高み」を目指す姿勢
総行進をするにあたって、歩きながら図柄を作る上で目印になる、グラウンドに打つ杭(くい)の数は、昨年度は1800個であったと聴いています。それだけのポイント数の多さからして、例年以上に複雑で難度の高い絵模様に、生徒たちは挑戦したのだと思います。六甲で伝統として受け継がれてきた六列交差、六角形の幾何学模様、一昨年野球界の覇者となった阪神タイガースの黄色と黒色を基調にした虎のマーク、古代から昨年のパリオリンピックまで受け継がれてきた聖火、漫画界の覇(はだがしら)であるドラゴンボール、昨年の干支(えと)の空を勢いよく昇る龍、全校生1000人で作るテーマ「覇(はたがしら)」の絵文字など、一つひとつがすばらしく見ごたえのあるものでした。
仕上がるまでの過程は、必ずしも順調であったというわけではなかったと思います。前々日、前日の練習風景を見ていると、本番に間に合うだろうかとやや不安に思うようなことも、高校3年生の中にはあったのではないでしょうか。より理想に近い形を追究する中で修正・微調整を繰り返しつつ、なかなか思い通りには行かないあせりやいらだちを感じていた上級生もいたかも知れません。練習光景を見ながら私が感心したのは、上級生の下級生たちへの声掛けの中に、感謝や励まし・ねぎらいの言葉が終始中心であったことです。あせりやいらだちは、容易に怒りの感情へと移ってしまい兼ねないと思うのですが、「ありがとう」「よくなった」「おつかれ」「よく頑張っている」と、下級生を終始、よく励まし褒(ほ)めていました。褒めつつ励ましつつ、的確に注意やアドバイスをその中に込めていました。そうして、励ましねぎらい、感謝の言葉を伝え続けていたことが、しんどい中でもう一歩下級生を頑張らせる力になっていたように思います。高校3年生たちの、難易度が高いからと諦めたり妥協したりせずに、粘り強く、その高度で困難なものを、より完成度の高いパフォーマンスへと創り上げていこうとする姿勢にも感心しました。
上級生たちのそうした姿勢のうちに、6年間の身体面だけでなく精神的な面での著しい成長を感じますし、そうした経験を通して、六甲学院の卒業生として、また「社会に仕えるリーダー」としての在り方を身につけてきたのではないかと思います。
(5) 海外研修-現在の国際情勢の中で多様性を体験する意義
もうひとつ、私が82期の学年行事として印象深かったのは、一昨年の6月に行われたシンガポール・マレーシアへの研修旅行でした。82期は、コロナ禍からなんとか抜け出して、最初にシンガポール・マレーシア研修旅行に皆で行くことのできた学年でした。卒業してこれからより広い世界に向かう中で、この研修旅行の体験が、何らかの形で活かされればと願っています。
このシンガポール・マレーシアへの研修は、今、世界の中で国家間や民族間の対立・分裂・分断による紛争が起こり、環境問題がより深刻化し経済格差が広がってゆく中で、特別に意味のある体験ができる旅行ではではないかと思います。シンガポールは民族・宗教・文化などの違いを乗り越えて共存の道を探る上で、一つのモデルとなりうる国だと考えています。街歩きをしたりバスで街中を巡ったりする中でも実感することですが、この国には世界の縮図でもあるかのように、中華系・マレー系・アラブ系・インド系等の多民族・多文化が存在し、イスラム教・キリスト教・仏教等の多宗教が国内で共存しています。そして、水や資源の不足が致命的な弱点・課題としてありながらも、経済と外交努力を通して周囲の国々とも共存して発展してきた国です。
背景が多様な人々の集まりである故に国際語でもある英語を共通言語として使い、国が将来を見据えた明確な目標やヴィジョンを持って、街作りや教育や環境問題などに取り組んできました。シンガポール国立大学の学生たちとの世界課題についてのセッションや、現地で活躍する六甲の卒業生との交流会の中でも、日本とは対照的に、多様性を特長として受け入れて、むしろ積極的に活かそうとする前向きさを、この国に感じた生徒もいたのではないかと思います。
(6) 学校交流-垣根を超えて協調・和解する原体験として
82期の皆が、研修旅行の中で最も表情が明るく楽しんでいたのは、マレーシアのアヤヒタム村での高校生たちとの学校交流だったのではないかと思います。マレーシアはイスラム教文化の影響が強く、交流校もその文化を大切にしている公立学校だったのですが、同世代として国や民族・宗教・文化の垣根を越えて交流ができた、貴重な体験だったのではないでしょうか。若い同世代同士ならば2~3時間の交流の中で、こんなにも親しくなれるのかと思うくらい、和気藹々(わきあいあい)とした雰囲気でした。
そうした一つ一つの体験が、今後、さらに分裂や分断へと向かいかねない世界の中で、融和や協調や和解へとつながる方向へ物事を進めてゆくための原点のひとつになれば、と願います。そして、何らかの形でそうした働きを担う「社会に仕えるリーダー」として、将来活躍してくれることを期待しています。
(7) 「共通善を追求する社会的交友」を築く
教皇フランシスコは、現在全世界のカトリック教会のリーダーであり、六甲の創立修道会と同じイエズス会の司祭であった方ですが、青年に向けて次のようなメッセージを述べています。「若者の皆さんには、内輪のグループを超え出て、『「共通善を追求する社会的交友」を築いていただきたいと思います』」(『キリストは生きている』169)。さらに教皇は、反目や敵意によって家庭が崩壊し、国が滅び世界が戦争によって壊されつつある危機を指摘しつつ、次のように語ります。「すべての人の幸福を思って『共通善を追求する社会的交友』を築くならば、共通の目的に向けてともに闘うために、互いの相違を問題にしないというすばらしい体験を手にすることができるでしょう」。
ここで言う共通善とは、英語でいえば“common good”で「個人の価値観や思想の違い、国家や民族間の対立を超えて、皆が人として幸福に暮らすことができる「だれにとっても(common)よいもの(good)」=「普遍的な善」を指します。「皆が幸福に暮らせる誰にとってもよいもの」ですから、「共通善」を「平和」と置き換えるとわかりやすいかもしれません。「共通善を追求する社会的交友を築く」とは「違いの壁を越えて共に社会の平和を追求する仲間を作る」ことと言ってもよいように思います。
実は「共通善を追求する社会的交友」は、六甲生が六甲学院の在学6年間で、委員会活動・社会奉仕活動やクラブ活動をする中でも、クラス・学年の運営や、体育祭・文化祭・研修旅行などの学校行事・学年行事を担う中でも、築いてきた経験のあるものだと思います。少しでも皆に喜んでもらおう、その場をより良くしてゆこうと、意見や価値観の違いがあっても話し合って仲間同士が協力してきた経験は、それに当たります。また、82期生は身近な学校の仲間を超えて、シンガポール・マレーシアやカンボジア、ニューヨークやガーナに行って、「互いの相違を超えて共通の目的に向けてともに闘う友人」となりうる人たちと、すでに海外でも出会っているかもしれません。今後も、国内・海外を問わず友人を作り、それがこれから多くの人々の幸福をめざす社会的交友になることはありうると思いますし、違いの壁を越えて平和を築く仲間作りをめざしてほしいと思います。
この世界に命を与えられて今生きていること、多くの人たちに支えられて今があることに感謝しつつ、困難な状況にあったり失望したりしている人たちに、生きる勇気や希望を与える人となりますように、そして様々な違いや壁を超えて多くの人々が幸せに暮らすために、仲間と共にこの世界をより良くし平和をもたら