在校生・保護者の方へ

HOME > 在校生保護者の方へ > 校長先生のお話 > 二学期終業式 校長講話

校長先生のお話

二学期終業式 校長講話

《2025年 12月23日 終業式 校長講話》

 

救い主イエスの誕生と“For Others, With Others”
- 人に寄り添い「祝福」を送り続ける生き方

 

(1)クリスマス-イエス・キリスト誕生の祝い
 2学期が今日で終わりを迎え、明日はクリスマス・イブです。キリスト教の家庭でなくても靴や靴下に入ったお菓子やおもちゃをプレゼントされたり、家族皆でケーキやチキンを食べたりと、楽しい思い出のある生徒たちもいるのではないでしょうか。キリスト教を知る人々にとっては、もちろんイエス・キリストの誕生を記念して祝う日です。そして、幼い子ども達が元気に生まれすくすくと育ってゆくことを祈り祝福します。

 

(2)”祝福”-「あなたの存在は喜び」という全肯定のメッセージ
 私は朝礼で先生方や生徒たちの話を聞くことを楽しみにしていて学ぶことも多いのですが、講演会も含めた2学期の講話の中で、心の中に残り続けている言葉が2つありました。一つは「祝福」、もう一つは「人に寄り添う」という言葉です。11月末の高校朝礼では、「祝福と呪い」について話をしてくださった先生がいました。留学先で孤独な思いに落ち込んでしまった時に、外国人の友人がその気持ちを察して、自分の思いに寄り添ってくれ、優しい行為(しぐさ)を通して、あなたはここにいていいんだ、ここにいてくれるだけで私は嬉しい、と思わせてくれたことが、どれだけ有難く、自分にとっての救いになったか、という体験を話してくださいました。この、あなたはここにいてくれるだけでいいしそれは私にとって喜ばしい事です、という自分の存在への全肯定のメッセージを「祝福」という言葉で表現されていました。

 

(3)支えの必要な人々に”寄り添う”こと
 同じ週には、宗教部講演会もありました。六甲学院でかつて英語科の教師をされていて、今は保護司をしている正岡康子先生から話を伺いました。非行や犯罪を償い更生して社会復帰をめざす人たちに寄り添い、偏見の目で見られがちな彼らを支え、社会に適応できるよう対話し相談に乗り見守り続ける保護司という役割について話をしてくださいました。また講演会の後半には、正岡先生が個人的に支援してこられたアフリカ・ジンバブエの野球選手たちの映像を視聴しました。経済的に貧しく隣国の南アフリカへチームで試合に行くのにも、飛行機は使えずバスで16時間かけて試合会場まで移動する様子なども写されていました。正岡先生の一貫して、差別や偏見を持たれがちな人々や、弱く貧しい側の人たちのために、ささやかでも自分にできることをしよう、寄り添っていこうとする姿勢は、六甲学院が最も大事にしたい思いとつながっているように感じました。

 

(4)「恵まれている」ことの気づきから世界に繋がる生き方へ
 正岡先生の講話の中には、「その地域に行った事がある、とかそこに知り合いがいる、というだけで、世界と繋がれるし、世界で起こる出来事が身近になります」という言葉や、「自分がこうした活動に参加しようと思い始めたのは、何不自由なく学ぶことができる自分がどれほど恵まれているか、にあるとき気づいて、その有難いという思いを何らかの形で返したいと思ったからです」、というメッセージもあって、心に残りました。
 その前の週のMAGISの日には、イエズス会学校の教職員の方々がこの8月に行ったインド研修旅行について話を伺う機会がありました。姉妹校の方々は、六甲学院がインドで差別を受け続けているハンセン病の方々とその子ども達に、長年にわたって支援をしていることがどれだけ貴重で感謝されているかを、施設の子ども達の歓迎の様子から感じて感銘を受けておられたとのことでした。私たちが毎月当たり前のようにしているインド募金がどれだけ価値のあることかを、改めて気づかせてくれたように思います。

 

(5)「祝福・受容」と「呪い・排除」-イエス誕生の物語と私たち
 こうした社会の中で弱い立場の人たち、苦しむ側の人たちに寄り添い共に生きる仲間として受け入れる側に立つか(受け入れる側のありようを英語でinclusiveと表現します)、それとも自分たちの今の恵まれた生活を優先しその特権を守る保身の気持ちから、そうした人々を排除し虐げる側に立つか(排除する側のありようを英語でexclusiveと表現します)、祝福する側に立つか、呪う側に立つかは、そのまま聖書のイエスの誕生物語、クリスマスのテーマと繋がります。聖書には、祝福する側として、イエスの誕生の知らせに喜んで会いに行く羊飼いや占星術の学者もいる一方で、呪う側として、生まれたばかりのイエスを自分の地位を脅かす存在として恐れ殺そうとするユダヤの王ヘロデが登場します。

 

(6)「泊まる場所がなかった」-排除される側のイエスの父母
 イエスの誕生した2030年ほど前には、ユダヤ地方はローマ帝国に統治されていて、ルカ福音書によると、皇帝アウグストゥスが全領土に住民登録を命じ、イエスの父親で大工をしていたヨセフは、当時暮らしていたガリラヤの町ナザレから祖先のダビデの町ベツレヘムに、いいなづけのマリアを連れて行きました。身ごもっていたマリアはそのベツレヘムの町にいるうちに男の子を生みます。聖書には「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」とあます。身重の女性を連れ添いながら、ヨセフが泊まる部屋を用意してもらえなかったということは、周囲から大切に扱われることのない、経済的にも社会的にも貧しく弱い立場であったのかもしれません。彼らは宿屋には泊まれずに、家畜小屋に泊ることにし、そこで、赤ん坊を産み布でくるんで、家畜の餌を入れるために使う飼い葉おけに寝かせます。

 

(7)排除されがちな立場の「羊飼い」に向けた喜びの知らせ
 ルカ福音書の中で、イエスの誕生を最初に知らされたのは羊飼いたちでした。聖書には「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた」、とあります。この「地方」という言葉は、ギリシャ語の原文ではChora(コーラ)という言葉で、都市や豊かな耕作地と対照的な、耕作もされておらず住む人もほとんどいない地域を指す言葉だそうです。そして、当時のユダヤ地方において羊飼いとは、主に都市に適応できなかった人たち、失業者、罪を犯して追放された者たちが就いた職業であったようです。豊かで華やかで洗練された都会とは対照的な、中心からは引き離された地域で身分や立場を問われずになんとか生活できる糧を得られる仕事が、羊飼いだったのでしょう。そうした影の世界で孤独な生活を強いられていた彼らは、聖書の記述によると、夜中に突然周りを明るく照らされ、恐れを抱いた羊飼いたちにむけて天使から、次のように告げられます。「恐れるな、わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町(ベツレヘム)で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそメシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉おけの中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これが、あなた方へのしるしである」。

 

(8)共に喜び祝う相手として社会の隅にいる人々を選ばれる神
 2000年以上も前の羊飼いでも、現代でも、社会的なルールや法律から外れたために人々から距離を置かれ、社会に復帰し適応することに困難を抱える人たちは、同様にいたのだろうと思います。また、聖書には羊飼いは「野宿」をしていたとの記述もある通り、六甲生たちも神戸の社会活動センターや釜ヶ崎の炊き出し活動の中で出会う人たちのように、屋根のない場所で寝泊まりせざるをえない人々が昔も今もいたのだろうと思います。聖書のイエス・キリストの誕生物語の中では、そうした「羊飼い」たちに向けて、神は救い主であるイエスが生まれたことを、真っ先に告げ知らせています。社会の中で、中央でなく端っこにいる人たち、偏見をもたれながら貧しい生活せざるを得ない人たちに向けて、あえて神は彼らを選んで、共に喜び祝い合う相手として救い主イエスの誕生を一番に知らせています。

 

(9)弱く貧しい人々を心にかけ大切に思われる神-フィリピンのスラムでの経験
 私自身は、こうした社会の中心でなく隅っこにいる人たちに、とりわけ心をかける神の思いを感じられた体験をしたのは、フィリピンのスラムの中でした。私にとっては「祝福」という言葉を聞くと思い浮かぶ、思い出でもあります。
 2008年、フィリピンに研修のために3ヶ月ほどいたときのことです。マニラの海辺沿いにナボタスというスラムがあります。海の浜辺や海の上に木材でバラックを建て、多くの人たちが生活をしていました。2週間に1回、土曜日にそこを訪れることにしていたのですが、フィリピンの人たちはスラムでもホスピタリティに溢れていて、通りがかりの家に招かれて食事をごちそうになったこともありました。貧しくても、あるいは貧しいからこそ熱心な信仰を持っていて、聖書を祈りながら自分たちの思いを分かち合う集まりもされていて、そこに加えて頂いたことがありました。国民性として根っから明るい人たちではあるのですが、苦しい生活を強いられていることは確かで、思い患(わずら)いや悲しみも多い人たちでした。分かち合いでは、5歳の息子を病気で失ったことをどうしても受け入れられない母親の苦しみや、自分の娘夫婦が突然失踪してしまい、多くの孫を育てなければならないおばあさんの途方に暮れた思いなどを、涙を流しながら話してくれます。そうした不条理な苦しみの中でも彼らは、神さまにその苦しみを訴え、今の苦しみを乗り越える力をいただけるようにと真剣に祈っていました。
 大人だけでなく皆とそれほど変わらない若い世代の集まりに参加したこともありました。スラムの家庭は兄弟姉妹が多いため(スラム地域では当時平均7人の兄弟姉妹がいると聞きました)学校に行きたくても貧しい家計から教育費を出すのは困難です。中学・高校・専門学校や大学へと進学して勉強し続けるためには、NGO(貧困・飢餓・環境など、世界的な問題に取り組む市民団体)からの援助が必要です。あるNGOから奨学金を受けている子ども達が、週1回聖書を読みながら生活の中での思いを分かち合う集まりをしていました。私が訪れたグループは12歳から22歳までの青少年でした。自分が勉強してよい就職先を見つけ、兄弟姉妹の養育費を稼いで家計を助けたいと思っていると分かち合ってくれた、まだ中学生くらいの女の子がいました。自分の下に5人ほどの妹弟がいる長女で、まだあどけなさは残っているけれども芯の強そうな子でした。自分の兄弟姉妹を大切に思い、NGOから教育資金の支援を得ながら、自分のためばかりではなく家族のため、弟妹のために勉強しています。私はこの子の話を聴きながら、
 この子のことを応援したいという気持ちと共に、神さまがこの子を、その兄弟姉妹への気持ちを、尊いもの、美しいもの、愛おしいものとして応援しているように感じました。そしてそれを一言で表現すると、神さまがこの子を「祝福されている」という言葉が自然に浮かんできました。

 

(10)社会の隅にいる人々と共にいて寄り添うイエス
 ただ、彼らの生活の体験を分かち合う話は、すべてが穏やかな心和ませるものばかりではなく、兄弟げんかをしてしまったことや中々言うことを聞かない弟妹への不満なども話すのですが、彼らには自然な信仰があって、イエスを心の中の話し相手として、まるで身近な兄や教師のように苦情を訴え頼りにしているのが伝わってきました。イエスが確かに生活の中で彼らと共にいて寄り添ってくれているように感じられました。また、自分と自分の家族の将来のために希望をもって生きている姿からは、日本の若者に接する中では感じることの少ない、素朴ではあるけれど力強い夢や、家族への思いや絆から生まれる幸せも伝わってきました。彼らのけなげな姿を見ているだけで、応援したい気持ちがわき起こってくるとともに、何か日本の生活の中では感じることのない静かで平和な思いが心の中に生まれました。そうした思いを抱かせる彼らも、やはり神から「祝福されている」と感じられました。

 

(11)“For Others, With Others”-人に寄り添い“祝福”を送り続ける生き方
 神が、励ましや支えや生きる力を与えたいと思われるとしたら、それは、何不自由なく暮らし、自分だけでなんとかなると思っている人たちよりはまず、こうした人たちなのだろうとも思います。神がこうした人達の側に立って彼らに寄り添い、「こんなに家族を思うあなたがいることが嬉しいし、とても大切に思っている」という祝福を送り続けているように感じる体験を、フィリピンのスラムの人たちと関わる中でしました。
 孤独な人、心が弱っている人、偏見の目で見られがちな人、支援や助けが必要な人、そういう人に寄り添う生き方が、そのまま“For Others, With Others”の生き方につながるのだと思います。そして、自分が恵まれている存在、祝福された存在だと思えた時に、その思いは他者に向けての生き方へと連鎖し広まってゆくもののようにも思います。

 

(12)クリスマスを本当の意味で祝うために
 -神がこの世界の救いの道を示し人間に寄り添う人を誕生させた出来事として
マリアから生まれる男の子の名前イエスとは「神は私たちと共におられる(インマヌエル)」という意味であることを、マタイの第一章で伝えています。その名前の通り、イエスの誕生は、神が自分の子イエスを私たち人間と常に共にいて寄り添って生きるものとして、この世界に送られた出来事なのだと思います。神がイエスをこの世界に遣わし、そこに生きる人々と直接に関り寄り添うことを願って下さり、人々がそのことに考えられないほどの恵みと喜びを感じることが出来たときに、クリスマスは本当の意味で祝いの出来事になるのではないかと思います。