在校生・保護者の方へ

校長先生のお話

二学期 始業式 校長講話

《2023年8月29日 二学期始業式 校長講話》

 

自分の人生を方向づける大切な出会いについて

 

1 自分を変えた経験を振り返ること

 夏休みが終わり、今日から2学期が始まります。皆にとってどのような夏休みだったでしょうか。どのような人たちと出会い、どのような刺激や影響を受けたでしょうか。些細な変化でもよいので、自分がどのように変わったかを、振り返る機会を持ってくれれば、と思います。

 私たちが、何かと、あるいは誰かと出会って、影響を受け、変えられる経験というのは、時に自分の一生を方向づける大切な出来事になります。始業式の後に、カンボジア研修旅行の報告会として、高2から中3までの参加者たちの体験発表をしてもらうのですが、おそらくその中には、この研修旅行での経験が、これまでの価値観が揺さぶられ自分を変えられるようなものになった生徒が多くいたのではないかと思います。

 

2 自分の人生が変えられる大切な出会いについて

 カトリック六甲教会には昨年から六甲学院35期卒業生の英(はなふさ)神父がおられます。おそらく六甲生で教会キャンプを手伝った生徒から、カンボジア研修での経験を聞いたのだと思いますが、8月20日のミサの説教の中で次のような話をしてくださいました。

 「私たちにとって、特に若いころに自分の人生が変えられるような影響を与える大切な出会いには、大きく分けて二種類あります。一つは、こういう人になりたいと思うような尊敬できる人に出会うことです。素晴らしい先輩や先生、神父などと出会って、影響を受けて変えられることがあります。もう一つは、大変な困難の中で苦しみ助けを必要としている人と出会うことです。」

 この、英神父様の言葉を聞いて、確かにその通りだと思いました。そして六甲という学校は、こういう人になりたいと思えるような人との出会いも、何かできることをさせてもらいたいと思うような助けを求めている人との出会いも、どちらの体験の機会も、行事や課外活動や授業を通して、自分が求めさえすれば豊かに与えられる学校ではないかと思います。

 

3 尊敬し憧れられる人との出会い―体育祭・総行進の体験を通して

 一つ目の、尊敬のできる人やこういう人になれたらという憧れられる人との出会いが、大きな影響を与えて自分が歩む方向性が決まるということを体験している人は、六甲生の中にすでにいるかもしれませんし、これからという人も多くいることと思います。

 例えば、夏休み中に六甲学院の体育祭の総行進を、生徒が作ってゆく姿を放映したNHKの番組「青春100K」には、総行進を小学生の時に見て、その姿にあこがれて、この学校に入学して総行進をしたいと思った中学生の話がありました。

 この番組については、六甲学院の卒業生だけでなく、六甲学院とは直接かかわりのない方々も見て「感激しました」という声を寄せてくださいました。上級生たちが熱心に指導する姿、下級生たちが一生懸命頑張る姿、数か月前から生徒たちが話し合いながら作り上げてゆくこと、伝統を大切にしつつ多様性を尊重し生かす方向で完成させていったこと等、感激した点は人によって様々です。総行進がこうして毎年続いてきた原動力は、先輩たちの熱い思いを後輩たちが練習の中で感じ理解し受け止めて、自分も先輩たちのようにしてゆきたい、という志を受け継いできたことから、生まれてきているように思います。番組の中での中学生の発言の中にあったように、後輩が先輩の姿を見て、こういう人になりたい、こういうことをしてゆきたい、という影響を受けることは、行事を作り上げてゆく中で、多くの生徒たちが体験したことなのではないでしょうか。

 そして、六甲学院の行事や日常の生活の中で、生徒時代に培われた先輩と後輩の関係の親密さ、その影響力の大きさというのは、他の学校では殆ど見られることのないくらい貴重な、六甲学院の特徴であり、良さでもあります。

 この先輩と後輩との親密な関係は、卒業後も長く続いています。例えば夏休み中に行われた行事でいえば、高1の東京・大阪・神戸それぞれの卒業生の職場訪問をする研修旅行や、海外在住の卒業生から現地で話を伺い交流をするカンボジア研修旅行でも、それを感じます。私自身がこの夏休みに直接出会った卒業生は、東京研修1日目の国土交通省46期足立氏、海上保安庁52期真鳥氏、東京大学教授の38期福井氏、名誉教授の30期寺井氏の4人だったのですが、先輩方はそれぞれに総行進の番組を見て自分の生徒時代のことを思い出し、感想を話してくださいました。福井教授は、番組を見ながら血がたぎり胸躍(おど)る思いになったと表現されていました。先輩たちの共通点は、後輩のために自分にできることがあるならばどんなことでもしたい、支援をしたいという思いです。六甲学院を卒業して50年を経て、70歳に近い東京大学の寺井名誉教授は、東京大学から生徒たちの宿泊施設までの数十分、徒歩で炎天下の中を道に迷わないようにと付き添ってくださっていました。そして、無事に目的地に到着したとわかると一言挨拶しただけで静かに立ち去って行かれました。社会的にも非常に偉い方ですし職歴も業績も尊敬すべき方なのですが、こうした姿勢の中に六甲で培われた謙遜さを感じて、人として尊敬すべき方だと思いました。

 六甲学院が、生徒時代に先輩や卒業生の方々と貴重な出会いを経験することができ、お話の内容だけでなく、また社会的立場や業績だけでなく、むしろその人柄や人間性や生き方から、様々な影響を受けて、生徒が人としてより高みへと成長してゆく学校であり続けられたらと願います。

 

4 困難の中で助けを必要としている人との出会いーカンボジア体験を通して

 さて、六甲教会の英神父様が話されていた、自分の人生が変えられるような影響を与える大切な出会いの二つ目についてなのですが、ミサの中で、次のように話を続けられていました。

 「自分は六甲学院や上智大学で本当に尊敬できる先生や神父様に出会ったけれども、本当に自分が人を救うための生き方に賭けたいという思いに変えられたのは、大学時代のボランティア活動で、戦乱によってカンボジアからタイに逃れた難民たちと出会い、国境沿いの難民キャンプの子どもたちと関わったことでした。それが、最も大きな影響を与え、自分が変えられた出来事です。

 私たちには、立派な人と出会って変わることもあれば、本当に困っている人に出会って変えられることもあります。ものすごく苦しんでいる人に出会って、その人と関わることによって、自分の持っていた考え方や価値観ががらがらと崩れて、何が大事なのかを一から考え直すような体験をすることがあります。世界には、先進国で暮らす私たちと同じような生活の中で暮らしている人だけではなく、日本で普通に生活をしていたら想像もできないような貧困のどん底で暮らしているような人たちもいます。そうした助けを必要としている人たちとの出会いは、その人の人生の方向性を変えるような大切な経験になることがあります。」

 

 皆の先輩でもある英神父様は、カンボジア研修を経験した生徒の話を聴いて、教会でこのような話をしてくださいました。英神父様は上智大学時代に私と同じ学年で、上智大学がタイの難民キャンプにボランティアとして学生を送り続けるプロジェクトに参加して、その時の経験をきっかけに人生の方向性を選んでいかれました。一方私は、あるサークルで知り合った新聞記者のご子息から、カンボジアからタイへ命がけで逃れる難民たちの姿を撮影した報道写真を見せてもらって心を動かされ、難民の写真パネルの展示会を大学内で仲間と共に始めました。そこから、募金活動や講演会・チャリティコンサートの支援活動に参加する中で、社会課題や社会奉仕に目覚めていきました。私がイエズス会の中学・高校の教師として、教育の中で社会奉仕的な仕事に携わりたいという願いを持ったのも、そうした経験があったからでした。

 英神父のように直接現地に行って、具体的に困難な状況にある人たちと出会う体験。はもちろんインパクトの大きいことなのですが、必ずしも現地に行って困難な状況の人たちと直接会わなくても、写真や映像や本などとの出会いから、大きく影響を受けることもあり得ます。

 カンボジアに行った生徒たちの体験発表は、直接行かなかった生徒にとっても、大事な体験となりうると考えています。ぜひ、この始業式の後に行われるカンボジア研修に行った生徒たちの発表を、真剣に聞いてもらえればと思います。

一学期 終業式 校長講話

《2023年7月19日 一学期終業式 校長講話》

 

教育モットー「他者のために生きる人」の提唱から50年を迎えて

 

1 イエズス会学校共通の教育目標“Men for Others”と“4C‘s”
 本日、1学期の終業式後のホームルームで「他者のために、他者とともに(”For Others, With Others”)」という冊子を配布します。“Men for Others” 「他者のために生きる人」がイエズス会学校で提唱されて今年で50年になることを記念して、初めてこの言葉が使われた講演(演題“Men for Others”)の原稿を新しく訳し直した冊子です。
 「他者のために生きる人」(“Men for Others”)が、六甲学院だけでなく世界のイエズス会学校の教育モットーであることは、六甲学院で学んでいる誰もが知っていることでしょう。そして、その「他者のために生きる人」の具体的な人間性として、共感する心を持っていること(Compassion)、良心に照らしてすべき行いを見極められること(Conscience)、有能であること(Competence)、現場に献身的に深く関われること(Commitment)の4C‘sをバランスよく養成することも、世界のイエズス会学校で共通の教育目標になっています。世界には71ヶ国に830校ほどのイエズス会学校があり、約86万人の生徒たちが、同じ目標を共有して、他者のために、他者と共に生きる人(”For Others, With Others”)に成長することをめざして、イエズス会学校で学んでいます。
 世界中にそれだけの同じ方向性を持つイエズス会学校があることについては、六甲学院で学校生活をしている中では実感がわかないかもしれませんが、今年の春休みには日本の鎌倉・広島・福岡のイエズス会学校の姉妹校の生徒たちや、ニューヨークの複数の姉妹校の生徒たちと、六甲学院の生徒たちとが出会って交流しています。この夏休みにはカンボジアのザビエル学院の生徒たちに20名ほどの六甲の生徒たちが会いに行きます。同世代であること以外に、何かしら通じ合うものを感じることがあるとしたら、おそらく同じ目標をめざして歩んでいるからなのではないかと思います。
 今日は、目指す目標として“Men for Others”を提唱したペドロ・アルペ神父と、彼の意思を受け継いで、より明確に伸ばすべき人間性を4C’sで表現したコルベンバッハ神父について、話したいと思います。

 

2 “Men for Others” の提唱と社会変革をめざす教育改革
 “Men for Others”を最初に唱えたのはペドロ・アルペというスペイン人の神父でした。1907年生まれで1940年に日本に派遣され、第二次世界大戦中も含めて日本で長年宣教師として働いた後に、全世界のイエズス会のリーダーである総長に任命されました。その総長時代の1973年に、スペインのイエズス会学校の卒業生に向けた講演会の中で使われたキーワードがこの“Men for Others”でした。今回、新しく訳されたものを講演から50年を機に配布するのは、この講演が契機で始まった学校の改革を振り返り、新たな気持ちで原点に立ち返って学校改革に取り組むためでもあります。
 アルペ神父は、スペインの卒業生に向けた講演の中で、イエズス会学校がこれまでは弱い人たちの側に立って社会を変革してゆく「正義のための教育」を十分にはしてこなかったという振り返りを初めに伝え、イエズス会教育の改革を訴えました。聴衆のイエズス会学校の卒業生たちは、それまでエリートとしての優れた教育を受けて社会の中枢を担っているという自負があります。そのためアルペ神父の指摘した、これまでのイエズス会教育は「社会正義」という観点から見直すと不十分な面があり、今後本気で取り組んでゆく必要があるという主張に納得できず、自分たちが受けてきた教育を全面的に否定されているように感じました。講演の途中で席を立って外に出る人がいた程、アルペ神父の真意は伝わらず、聴衆にとって不評な講演会だったそうです。
 しかし、不思議なもので、難関大学に多くの生徒を入学させて経済的・社会的なエリートを社会に送り出すという点では伝統的な名門校として、世間的には何ら変える必要のない社会評価が定着していた世界のイエズス会学校が、この講演の内容を知って学校の在り方を謙虚に問い直すようになります。社会の中で弱い立場の人々に目を向けて具体的にその人々と関わりを持ち、そうした人たちと共により良い世界へと変えてゆく人間(“For Others, With Others”)を育てる学校へと、変革を試みるようになってゆきます。
 六甲学院の場合は、その講演があって5~6年後くらいには、社会奉仕委員会が立ち上げられ、インドのハンセン病の親を持つ子供たちへの生活と教育の支援として全校生が取り組むインド募金が始まります。同時に3学年全員が夏期休暇中に近隣の福祉施設に奉仕作業をしに行くという社会奉仕プログラムが始まります。ボランティアとして希望者が行くのではなく、学校の教育として全員が経験するところに特徴がありました。街頭募金も含めて全学年の全生徒が、何らかの形で一年に一回は奉仕活動を体験する学校になりました。日本のイエズス会学校の中高一貫校として最も歴史の古い伝統校でありながら、社会正義・社会奉仕の面では最も機敏に本気で取り組み始めた学校でした。

 

3 生き方で“Men for Others”を示したアルペ神父
 アルペ神父のスペインでの講演会の話が、歴史の中で消えてしまわずに、後に世界中のイエズス会学校が改革を試みるほどの大きなうねりとなったのは、世界全体が戦争・紛争・環境破壊・貧困・飢餓・難民・人種差別などの問題に直面しており、社会を変革する担い手を求めていたという背景があったからだと思われます。もう一つは、提唱したアルペ神父の言葉には、彼の生き方に裏付けられた説得力があったからなのではないかと思います。
 アルペ神父は、1945年に終戦を迎える第二次世界大戦中は、広島の郊外にある長束の修道院で暮らしていました。今年の3月にカト研の生徒たちが行き、いくつかの学年が宿泊した修道院です。アルペ神父は、原爆投下を間近に体験していました。投下された原子爆弾一発の熱と爆風とで街は一瞬で火の海になり倒壊し、都市がまるごと瓦礫(がれき)だけの焼け野原になり、推計約14万人もの人々が亡くなった現場を、身近に知っています。アルペ神父の住んでいた修道院は爆心地からは少し離れていたために、命は助かり、修道院の建物も屋根の一部が吹っ飛んだものの、倒壊しないで済みました。
 アルペ神父はまず自分が何をすればいいのかを祈り、病院も薬もない中で、仲間と共に救える命を助けるために壊滅的な惨状の町中に行くことをすぐに決断したそうです。彼自身は、神父になる道を選ぶ前に医師になるための勉強と実習を数年間してきていたので、応急手当は施すことができました。約200人を修道院まで運んで献身的に手当をして、多くの命を助けました。その後も、アメリカ合衆国などで原爆がどれだけ残酷な兵器であるか、その時の街の状況はどれだけ悲惨であったかを人々に伝え続け、原爆時に直接広島にいた人間としては、最も世界に影響力の強かった人物のうちの一人だと言われています。
 “Men for Others”(“For Others, With Others”) の“Others”というのは、社会の中で最も困難にある人、苦しんでいる人のことなのですが、アルペ神父にとって、この時には被爆して命の危険にある目の前の負傷した人々が、その“Others”でした。
 アルペ神父の行動を4C’sの観点から振り返ると、一つ目として、広島の街の惨状の中で深刻な怪我をして苦しむ人々(Others)の悲惨な姿にまず共感したことが行動の出発点でした。[Compassion・共感がすべての出発点にあります。] 二つ目として、祈りの中で何をすべきかを良心に照らして選び、薬などが不足する中でできることは限られていても、仲間とできる限り救援することを決断します。[Conscience・良心に照らして行動を決断しています。] 三つ目として、助ける手だてが十分でないとしても、怪我人を手当てするだけの知識と技能を医学生時代に身に着けていたことも、行動に向かう後押しをしたのだと思います。[助けるだけの知識と技能を身に着けていることはCompetence・他者への奉仕に役立つ有能さの一つでしょう。] そして、実際に焼け野原となった街に入って仲間と共にケガ人を修道院まで運び手当をするという献身的な行動をします。[Commitment・困難な状況にある人々のもとに行って、献身的に人々と深く関わる行動を取っています。]
 アルペ神父は、確かに4C’sの四要素がバランスよく統合して有機的に働くことで、具体的な行動ができたともいえるでしょう。危機的・絶望的な状況の中で、他者を救う活動へと駆り立て、実際に助ける働きができたのは、彼の人間性として“4C‘s”が深く根付いていたためでしょう。そして、アルペ神父自身が、バランスの取れた優れた人間性を持ち、“For Others, With Others” を実際に生きた人物だったからこそ、“Men for Others”を唱えた時に世界のイエズス会学校は、そうした生き方をめざす方向へと動いたと言えるのではないかと思います。

 

4 世界の危機的状況に立ち向かうための“4C‘s” の育成
 “For Others, With Others”として行動するために養うべき四つの要素“4C‘s”について言及したのは、アルペ神父の後に総長となって方針を忠実に受け継いだコルベンバッハ神父です。アルペ神父の“Men for Others”の講演があって20年後の1993年でした。
 コルベンバッハ神父が1990年代に、“Men for Others”の育成にあたってより具体的にイエズス会学校で学ぶ生徒の伸ばすべき人間性として、この“4C‘s”を挙げたのは、世界の歴史の流れの中で、イエズス会学校がめざすような人間の養成を世界中でより強く推し進めてゆかないと、世界がますます不公正で非人間的な世界、正義の実現から遠ざかる世界になるという危機感からでした。コルベンバッハ神父は30年前、「今日のイグナチオ的教育方法」という1993年の講演の中で次のように話しています。
 「根本的な問題は次のようなことです。ボスニアやスーダン、グァテマラやハイチ、アウシュビッツやヒロシマ、カルカッタのあちこちの通りや天安門広場に横たわる死体を目の当たりにしていて、神への信仰とは一体何を意味しているのか。アフリカで何百万人もの大人と子どもが飢えに苦しんでいる現実に直面していて、キリスト教ヒューマニズムとは一体何なのか。何百万もの人々が迫害と恐怖に襲われて生まれ故郷を追われ、異国で新たな人生を始めるように強いられているのを目撃しながら、キリスト教ヒューマニズムとは一体何だというのか。」
 描かれている現実は殆ど現代と変わりません。おそらくコルベンバッハ神父は、深い精神性の伴わないなまぬるい信仰や、実際的に救う手立てを持ち合わせない中途半端なヒューマニズムでは、戦争や貧困、虐殺や政治的迫害などの圧倒的に非人道的な深刻さを抱えた現実には太刀打ちできないことを伝えようとしているのだと思います。他者のために、他者と共に(“For Others, With Others”)生きることのできる人間の養成がこの時代に急務であり、苦しみの中にある“Others”に共感し、良心的で有能で現実と向き合って献身的に関わる人間を早急に育成する必要があるという提言は、こうした文脈の中で語られています。単なる抽象的な教育論ではなく、深刻な課題を抱える世界をよりよい方向に変える人間を育てるため、正義に根ざした教育に望みを託しているのでしょう。

 

5 “For Others, With Others”を生きる人へ
 ―授業・行事・課外活動での学びを通して世界的な視野に立つこと
こうしたことから考えると、六甲学院の私たちは世界的な視野に立ってこれまで起こってきたこと、起こっていることをより深く知り、他者“Others”として現在どういう人々が苦しみを抱え、どういう助けが必要なのかを、知る機会が必要ではないかと思います。これまでの歴史の歩みや現代社会の現実を、世界レベルで経験している人たちから聞くとともに、できる限り自分も世界の現場に行って、日本の中にいたのでは中々気づくことのできない現実を知ることは、大切なことです。
 一学期のOB講演会で来ていただいた海外経験の豊富な新聞記者でニュースメディアの専門家39期の山脇氏や、医療・外交の面で世界の大災害や紛争の現場に立ち会ってきた在ジプチ日本大使館医務官46期の後藤氏の講話は、そのためにも有意義なものだったでしょう。また、自分の生活圏の中だけの閉ざされた体験ではわからない現実があること、過去の歴史の傷を今も抱えている場合もあることを、人の話を通してだけでなく、この生活圏から外に出て、知る機会を積極的に作る必要があるように思います。
 今年、高校1年と2年で行われる社会奉仕活動はそうしたきっかけの一つになると思いますし、カンボジア研修旅行は、きっと参加する生徒にとって大きな体験になるでしょう。実際に6月に日本の生活圏から離れてシンガポール・マレーシア研修旅行に行った高校2年生も、貴重な学びや体験をしたと思います。例えば、私が聴講したシンガポール国立大学の学生とのセッションでは、人権(“human rights”)・多様性(”diversity”)・差別(“discrimination”)などをキーワードにして、過去の戦争時の残虐行為や人種・障がい・ジェンダーなどの人権の歴史を例に挙げながら、私たちの世界を多様性が受け入れられる社会にしてゆかないと、歴史上にあった差別や偏見に基づく悲劇を再び生み兼ねないことを、学生がプレゼンテーションを通して、生徒にメッセージとして伝えていました。世界全体がそうであるように、シンガポールは人種、民族、宗教、そうしたことに基づく習慣・文化や考え方・価値観の違う人たちが集まっていることを前提にしている国家です。日本の日常では実感しにくい多様性の中で暮らしているからこそ発せられる、貴重なメッセージが含まれているように思われます。
 授業での学びに限らず、講演会・研修旅行・フィールドワーク等、行事や課外活動の学びを通して、視野を広めてこの世界のことをより深く知るとともに、将来、自分が何をしたいか、何ができるかについて、一学期に学んだことを振り返り、夏休みの体験を通して、さらに考え続けてくれたらよいと思います。そうして、一歩、一歩、“For Others, With Others” を生きる人へと近づいてくれたらと願っています。

一学期始業式 校長講話

《2023年4月7日 一学期始業式 校長講話》

 

「天狗」の言葉と「固有の召命」

1 はじめに―朝ドラ「らんまん」の「天狗」の言葉から
新学期が始まりました。寒く長かった冬が終わり、本格的に陽気も春らしくなりました。草花や木々もそれぞれ様々な色合いの花を咲かせたり青々とした葉を茂らせたりと生命力を感じさせて、様々なものが新しい始まりを迎える季節になりました。

今週からはじまった「らんまん」というNHK連続テレビ小説のドラマを見ていましたら、5日の水曜日に次のような内容のセリフがありました。
「生まれて来んほうがよかった人は一人もおらん。いらん命は一つもない。この世に同じ命は一つもない。みんな自分の『つとめ』を持って生まれてくるのだ。おのれの心と命を燃やして、何か一つ、事をなすために生まれてくるのだ。」
ドラマの場面は、のちに植物学者になる少年槙野万太郎が、親戚のおじさんたちから「病弱なあの子は生まれてこなかった方がよかったのだ」と自分について言われているのを聞いてしまって、悲しみながら森の中の神社に行った時のことです。神社で万太郎が偶然出会った人に「自分は生まれてこなかった方がよかった」と言われたことを伝えた後に、その人が語った言葉です。5才の少年万太郎はその人が初めは神社の木の上にいましたので「天狗(てんぐ)」であると信じています。その「天狗」からは、次のような言葉が続きます。
「だれに命じられたことじゃない。己(おのれ)自身が決めてここにいるのだ。お前も大きくなったら何でもできる。望むものになれるんだ。お前の望みは何だ。何がしたいんだ。」
その後には、母親が神社に万太郎を迎えに来て、地面に咲く茎の細い小さな白い花を見つける場面が続きます。母親はその花を見つめながら「冬の間は冷たい地面の下でちゃんと根を張って、春になったら、こんなに白くてかわいらしい花を咲かせてくれる。この花はたくましい。命の力に満ちている。万太郎も同じだね。どうしてこんな花が咲くのか、不思議だね。」と万太郎に話しかけます。
ドラマは始まってから3話目の場面ですが、おそらく、この一連の万太郎に天狗だと思われている人の言葉と母親の言葉が、ドラマ全体の一貫したメッセージになってゆくのではないか、音楽でいえば基調低音のように物語の奥底で常に響くテーマになるのではないか、と思います。

 

2 各々が心と命を燃やして事をなす「つとめ」=固有の召命
この世に同じ命は一つもないし、みんな自分の「つとめ」を持って生まれてくる、というのは、そのまま、キリスト教のメッセージとも共通するものです。人間は誰もが、母親の胎内で命は宿され、10ヵ月間少しずつ大きくなってこの世に生まれてくるのですが、同時に神が一人ひとり大事に生命を与え育み、この世界に送り出した存在でもあること、そして誰もがこの世界にどうしても必要な存在、かけがえのない存在であることを信じています。また、一人ひとりに、この世界の中で果たしてほしい使命、さきほどの言葉で言えば「つとめ」があることを信じています。その、一人ひとりに与えられた使命のことを、少し日本語では硬い表現にはなるのですが、キリスト教の用語で「固有の召命」(Personal Vocation)と呼びます。
「固有の召命」とは、一人ひとりが、この世界に命あるものとして呼び招かれて、神からその人に託された、その人にしかできないような使命のことです。 先ほどの「おのれの心と命を燃やして、何か一つ、事をなすために生まれてくるのだ」という言葉の通り、この世界に自分が生まれ生きているのは、心と命を燃やして果たすべき使命が何かしら与えられているからだ、というとらえ方が、キリスト教の基本にもあります。

 

3 心の奥深くにある「望み」は何か?-「使命(召命)」を探し出す問い
そして、「固有の召命」を見つけ出すためには、自分の心の深いところにある、こういう人になりたい、こういうことをしたいという「強く深い望み」を見つめることが大切だと言われています。これについても、先ほどのセリフの中にある「お前も大きくなったら何でもできる。望むものになれるんだ。お前の望みは何だ。何がしたいんだ。」という言葉の通りです。自分の心の奥深いところにある、自分はこのようになりたい、こういうことをしたい、という望みや促しに気づくことが大切です。それがはっきりと見えてくるのは、子供のころか、中学生の時か、高校生になってからか、または大学生か、大人になってからかはわかりません。ただ、多くの場合は、自分の気づかないうちに、すでにその使命につながるような道を歩んでいます。少なくともそれにつながるような、人や出来事との出会いがあります。そして、それを自分なりに気づくためには、六甲では日常的にしている「瞑目」、静かに心を落ち着けて、自分のことを振り返り、心の中を見つめる習慣は、とても大切になってきます。

 

4 大切な人との出来事や出会い―使命に気づく原点
「らんまん」というドラマは、始まったばかりなので先は見通せないのですが、おそらく、植物学者になる万太郎にとって、天狗と信じている人物との出会いが後に大きな影響を与えるはずです。また、母親と神社で小さく可憐な白い花を見たその時が、植物学者になるうえでの原点になるでしょう。そして、どうして冬の冷たい地面から暖かい春を迎えるとこんなにきれいな花が咲くのだろう、と母と共に不思議に思ったことは、植物について知りたいという深く強い「望み」の始まりになるのではないかと思います。
誰にとっても、そうした自分の一生をかけてしたいことやする価値のあることを見つけるための、原点となる体験や使命に気づく大切な時というのは、必ずあるものだと思います。それは、静かに自分の心を深く振り返る中で気づくことができるものです。皆にとって、そうした出会いや出来事はこれから起こる場合もあるかと思いますが、自分の過去の記憶の中に、気づかないうちにすでに大切な「宝もの」のように埋まっている場合もあるでしょう。ぜひ、自分の使命・固有の召命に気づくために、沈黙の振り返りの中でそうした原点となる大切な出会いを探す機会は持つとよいと思います。

 

5 他者の幸せとつながる自分の「使命」と「瞑目」
さらにまた、その「使命」というのは、自分だけの幸せをめざすのではなく、他者の幸せにもつながるはずのものであるということが、キリスト教の基本にはあります。他者のために役立つからこそ、「使命」として受け入れ果たしてゆきたいと望む気持ちが生まれるのではないかと思います。イエズス会教育のモットーとして「For Others, With Others」をめざすのは、それぞれが果たすべき使命は一人ひとり違っても、本来的に「他者のために」という共通の方向性があるからです。そして、「他者とともに」とあるのも、お互いの役割や働きが組み合わされ協力する中でこそ、それぞれの使命も実現してゆくものだからだろうと思います。
学年の初めに当たって、自分たちが望まれて生まれてきたかけがえのない存在であること、それぞれにその人固有の使命があること、静かな沈黙の振り返りの時間を持って、その使命を探してほしいことを、まずは伝えたいと思います。また、日々ものごとの区切り目に行う「瞑目」を、心を落ち着けて次に向けての姿勢を準備するためにも、経験したものごとの意味を振り返るためにも、いつか自分の使命を見つけるためにも、大切にしてほしいと願っています。

六甲学院中学校 86期生入学式式辞 校長講話

《2023年4月7日 六甲学院中学校 86期生入学式式辞 校長講話》

 

「より広く、深く(Magis)」をめざして挑戦し成長する6年間に

 新入生の皆さん、六甲学院中学校へのご入学、おめでとうございます。
 保護者の皆様、ご子息の六甲学院へのご入学、おめでとうございます。
 3年間のコロナ感染拡大の中での小学校生活は、思い通りのことができずに、制約の多い日々を過ごしてきたのではないかと思います。様々な不安や辛い思いを日常的に経験しながらも、中学入試に向けて勉強してきた皆の頑張りは、それだけで十分意味のあることですしほめられるべきことです。こうして合格できたことを、改めて祝福したいと思います。
 六甲学院にとっても、このコロナ禍の3年間は授業も学校の日常生活も行事も、思い通りにはできないことが多くありました。しかし、この春休みの様子を見ると、宿泊行事を含めて、ほぼ予定していた行事をすることができました。泊りがけの行事としてどのようなことを皆さんの先輩たちは経験してきたのかを皆さんに伝えることが、六甲学院の活動の一端を知ってもらうことにもなりますし、その特徴を紹介することにもなると思いますので、希望者が参加した幾つかの行事について話したいと思います。

 1つめは、ニューヨーク研修旅行です。2013年から春休みに行われていたものですが、コロナ禍で2020年から行くことができなくなっていた海外研修プログラムを、今年は行うことができました。参加者は高校生18名です。ニュ―ヨークにあるイエズス会姉妹校や六甲学院の卒業生が勤めている会社を訪問して交流したり、美術館や大学や国連を見学したりします。姉妹校訪問では授業に参加したり英語で日本文化や六甲学院について紹介したりする機会もあります。姉妹校フォーダム高校の生徒とは貧しさに苦しむ人々の多い地域の福祉施設に行きました。セントピーター高校の生徒とは2001年に同時多発テロのあった地区に行き、倒壊したツインタワーの敷地の隣に新たに建てられた超高層ビル「フィリーダムタワー」のワンワールド展望台にも登ったそうです。姉妹校の生徒との交流を楽しみつつ、繁栄の陰で苦しんでいる人たちのいる格差社会の問題や複雑な国際関係の中での平和構築の課題について、海外の姉妹校の生徒たちと共有し考える機会を持つことができました。またニューヨークにいる卒業生たちも、勤めている職場に生徒を招き、学生生活や進路について考え新たな気づきを与えるワークショップ・プログラムを、後輩である生徒たちにしてくれたと聞いています。

 2つめは広島への「巡礼黙想」です。六甲学院には、自由参加ではあるのですが、学校の基礎となる精神をより深く知るためにキリスト教、カトリックの教えについて、毎週1回昼休みに学ぶカトリック研究会があります。私たちは略して「カト研」と呼んでいます。春休みの初めの3日間は「巡礼黙想期間」で、これまでは九州の長崎や島根県の津和野などに行ってきたのですが、今年は5学年のうち中2から高2までの4学年が、広島に行きました。六甲学院の創立母体であるイエズス会の修道院や教会に寝泊まりしながら、広島の街を歩きます。
広島は皆も知っているとおり、第二次世界大戦で原爆による大きな被害を受けた街です。それと共にあまり知られてはいないことかも知れませんが、広島が原爆投下の街として選ばれた要因には、アジアに軍隊を送るにあたっての、軍事拠点であった面があります。その両面を現地を訪れながら学びつつ、平和について考え、振り返り、祈る機会を持った学年がありました。また、広島の郊外の長束という所にある修道院のお聖堂で、六甲の6代目の校長先生だった清水神父様からお話を伺い、これまでの歩みを振り返りこれから進む路や生き方について考えながら、静かに黙想の時を過ごした学年もありました。そして、広島には広島学院という姉妹校が、六甲学院と同じように街を見渡せる丘の上に立っており、それぞれの学年が学校を訪問し、同じ学年の広島学院の生徒たちと楽しく過ごし親睦を深めるひと時も持ちました。

 3つめとして、六甲学院と同じイエズス会設立の上智大学と連携した2つのプログラムを行いました。1つは、東京の真ん中にある四ツ谷キャンパスで行われたSDGsアイデァソンというプログラムで、六甲学院から9名が参加しました。もう1つは神奈川県の秦野キャンパスで行われたISLFというリーダーシップ研修プログラムで、六甲学院から11名が参加しました。両方とも、日本のイエズス会学校の4校(栄光学園、六甲学院、広島学院、上智福岡)の生徒たちが集まって、学校の垣根を越えたグループを作り、大学生・大学院生たちが進行役になってプログラムが進められました。
 SDGsアイディアソンでは、この世界の環境問題や貧困の問題についての解決策のアイディアを考え合い、発表します。SDGsについては聞いたことはあると思います。国連が提唱する、世界の持続可能な開発のために達成すべき17項目の地球的課題です。環境問題にしても教育や衛生や男女間の平等の問題にしても、より弱く貧しく社会から仲間はずれにされがちな人たちが、ますます苦しむ世界の仕組みになっていることに気づき、そういう人たちがより安全で幸せに暮らせる世界に変えて行くためにはどうしたらいいのか、身近な生活の場からの解決策を、姉妹校の生徒たちと楽しみながらユニークなアイディアを考案し分かち合う機会になったようです。
リーダー研修プログラムでは、「共に生きよう」をテーマに東ティモールからの留学生や大学生・神学生の話を聞きつつ、グループに分かれて自分たちの学校生活での経験や思いを話し聞き合いました、その過程で、姉妹校4校の参加者は、イエズス会学校として共通の方向性を持っているという自覚も深まり、急速に親密になったそうです。自分と周りの人たちとの関わりを振り返る中で、様々な気づきを得て、視野を広げる貴重な機会になりました。プログラムの企画や進行役の中心には、20才台前半の3名の六甲学院の卒業生がいて、六甲学院からの参加者も各グループのリーダー役として活躍していたと聞いています。

 紹介したニューヨーク研修旅行、カト研巡礼黙想プログラム、上智大学と連携したプログラムの3つに共通しているのは、イエズス会学校として日本でも世界でも、姉妹校のネットワークがあり、ともに世界をよりよくするために、より深く考え合う「学び」の機会があることです。また、卒業してから学生や社会人として活躍する卒業生たちの姿と出会い交流することができる点でも共通しています。

 全世界のイエズス会学校では、この世界により大きく視野を広げてより深く学び考えるという、「よりもっと広く、深く」をめざす精神を、「Magisマジス」と呼んでいます。この国際的な幅広いネットワークがあることと、深い「学び」をする機会が日常の授業でも学校行事でもあることが、六甲教育・イエズス会教育の特徴でありよさの一つであると言ってよいと思います。そして、学びに深みを与えるのが、すでに入学オリエンテーションで始めている「瞑目」です。これから日々することになる「瞑目」と、経験と学びを「振り返る」時間をていねいに大切にしてください。六甲学院には、学内のクラブ活動や委員会活動ももちろんですが、生徒たちの様々な課外活動を通しての豊かな体験の機会があります。この6年間、自分が関心をもつプログラムがあれば積極的に参加の機会をとらえて、様々なことに挑戦し、成長してくれれば、と願っています。

六甲学院中学校 83期生卒業式 校長式辞

《2023年3月18日 六甲学院中学校 83期生卒業式 校長式辞》

 

Ⅰ はじめに-「新しい人」になることをめざす
 83期の皆さん、六甲学院中学校の卒業、おめでとうございます。
2022年4月の始業式では、1994年にノーベル文学賞を受賞した大江健三郎氏の次の言葉を紹介しました。
「『新しい人』になることをめざしてもらいたい。自分のなかに『新しい人』のイメージを作って、実際にその方へ近づこうとねがう。…そうしてみるのと、そんなことはしないというのとでは、私たちの生き方はまるっきりちがってきます。」
この1年を振り返って、どうだったでしょうか? いくらかでも「新しい人」になることができたでしょうか?
83期の皆にとっては中学を卒業し、これから高校に向かうこの機会に、高校3年間でどういう人になりたいか、自分なりにめざしたい自分の姿を想像して、「自分のなかに『新しい人』のイメージを作って」みるとよいと思います。そして、是非その「新しい人」をめざして下さい。

 

Ⅱ 興味の持てる課題を見つけて自分なりに探究する
 また、これまでの授業や行事や様々な活動の「学び」の中で興味を持てたことについては、自分なりにさらに探究する機会を持ってほしいと思います。今年、京都大学の総合選抜型入試(推薦入試)で合格した80期の生徒の中に、中学時代にSDGsをテーマにした授業で環境問題に関心を持ち、それを自分の課題として高校に入ってからも取り組み続けて進路を決めた卒業生がいました。上智大学等の推薦入試などでも、面接で志望動機を聞いてみると、ほとんどの生徒は授業や文化祭・クラブ活動・委員会活動等の取り組みの中で、大学で学びたい分野や関心事を見つけ出しています。学校生活を本当の意味で楽しむため、また将来自分のしたいことを見つけるためにも、高校入学後も授業や学校活動に前向きに積極的に取り組んで下さい。
 世界的なコロナ・パンデミックの中で、思うようにできないことの多い3年間であったことは確かなのですが、不自由で特殊なコロナ禍の体験も含めて、そういう時代に居合わせたからこそ取り組むべき課題やこの世界をより良くするためにもしてみたいことが、見えてくることはあるのではないかと思います。中学生時代の学びの中から生涯探究したい課題を見つけ出し、それを高校入学後の学習の動機づけにもしてきた生徒は、六甲学院の卒業生の中に数多くいます。もちろん、これからの高校の学習の中で興味の持てる課題や将来してみたいことを探すこともできるでしょう。

 

Ⅲ 「まなびほぐす」こと-「知る」から「分かる」へ
 朝日新聞の3月15日付けの「天声人語」では、3月3日に亡くなった大江健三郎氏を追悼して、次のように書き出しています。
 「『知る』と『分かる』はどう違うのか。作家の大江健三郎さんは『知る』から『分かる』に進むと、自分で知識を使いこなせるようになると定義した。その先には「悟る」があって、まったく新しい発想が生まれる、と。」
 「学び」を深めるとはどういうことかについて、考えさせられる言葉だと思います。
 最近、広島学院の卒業生で東大と東北大で教えておられた学者川本隆史氏を通して「まなびほぐす」という言葉を知りました。大江健三郎氏の言う「知る」ことから「分かる」へ、さらに「悟る」へと学びが深まることと関連しますので、その話をしたいと思います。
 「まなびほぐす」は、もともとは哲学者鶴見俊輔が、英語の動詞unlearnを彼なりに日本語に訳した言葉です。この鶴見俊輔という人物は若い頃日本の学校になじめず、1938年、(それはちょうど六甲学院が開校した年に当たるのですが、)16歳でアメリカのハーバード大学に留学します。17歳の夏休みにニューヨークの図書館にいたときに、幼いころに盲聾唖となった社会福祉事業家ヘレン・ケラーが手話の通訳とともにその図書館を訪ねてきて、彼女と出会い、彼女から聞いた話を紹介しつつ次のように述べています。
 「ヘレン・ケラーは『私は大学でたくさんのことを「まなんだ」が、それからあとたくさん「まなびほぐさ」なければならなかった』と言った。たくさんのことをまなび(learn)、たくさんのことをまなびほぐす(unlearn)。それは型(かた)どおりのスウェーターをまず編み、次に、もう一度もとの毛糸にもどしてから、自分の体型の必要にあわせて編みなおすという状景をよびさました。」
 のちに高名な思想家になる17歳の日本人青年が、80年以上も前にヘレン・ケラーとたまたまニューヨークの図書館で出会い、このような会話をしていることも不思議です。大江健三郎氏の言う『知る』から『分かる』、さらに『悟る』に進むようになるためには、このような『まなびほぐす』プロセスが必要であるように思います。鶴見俊輔氏は「まなびほぐさなければ、人生を生きる知恵にならない」「知識は必要だ。しかし覚えただけでは役に立たない。それをまなびほぐしたものが血となり肉となる」と述べています。

 

Ⅳ 例:「人権」を自分なりに「まなびほぐす」こと
 少し難しいかも知れませんが、例えば、「人権」という言葉を学んだとしても、身近な自分に起こった出来事や、人から聞いた自分も身につまされるような具体的な体験と言葉とが繋がらなければ、言葉として知っても分かったことにはなりません。深く傷つけられたり人から蔑(さげす)まれたりといった体験に裏付けられて、自分なりの言葉に言い換えられたとき――例えば「人権」とは「それを失うと自分が自分でなくなり、それを奪うと相手が相手でなくなるような大事なことがら」と言い換えて、自分の腑に落ちたとき――に、「分かった」ことになります。そうして初めて自分を大切にし、周囲の人を自分と同じように大切にする「人権」の考え方が自分のものとなり、それに基づいた行動ができるようになるのではないかと思います。それが「学びほぐす」プロセスの一つの例です。(川本隆史「人権をまなびほぐす」『福音と世界』新教出版社2023年3月号)

 

Ⅴ 自分の経験とつなげて「分かる」学び方を身につけることへ
 高校になってからも、様々なことを「学ぶ」ことと思いますが、ぜひ学んだことを知識にとどめずに、想像力を働かせたり、自分の体験や他者の体験と関連づけたりして、「分かる」学び方を身につけてほしいと思います。学んだことを振り返り、自分の体験との関連や意味を見いだし、「知る」から「分かる」ように学びを深めることは、そのままイエズス会教育のめざす学び方でもあります。知識を自分にとって意味があり役に立つ知恵としてゆくような学びの経験ができれば、学ぶことの面白さや歓びも知りますし本当に学びたいという意欲も沸いてきます。さらに、学び続けたい分野やテーマが見えてきて、自分のしたいことが次第に明確になることを通して、めざしたい進路も見えてくることもあるだろうと思います。

 先輩たちがこれまでも卒業式や講演会などの様々な機会に述べているように、自分が探し挑戦しようと思えば、高校時代には自分を成長させてくれる様々な学びと経験の機会があります。ぜひその機会を積極的に捉え活かしてほしいと願っています。

三学期 終業式 校長講話

《2023年3月18日 三学期終業式 校長講話》

 

Ⅰ コロナ禍の緊急事態から日常へ
 3年間コロナパンデミックの中で、あたりまえではない生活を過ごさざるを得ない状況が続いていたのですが、日常は戻り始めているようです。「緊急事態」の中で過ごしてきた私たちにとって、例えば、マスクを外して人と会って話したりすることに、かえって違和感を覚えたり本当に大丈夫なのかと心配になったりすることも、しばらくはあると思いますが、相手の表情がわかる中でコミュニケーションをすることに、安心感や喜びを感じられる日が、早く来ればよいと思います。
 3学期は、学年によっては発熱による欠席者が増加して学年閉鎖をせざるを得ない期間もありましたが、授業や中間体操、放課後の清掃やクラブ活動・委員会活動などもほぼ平常通り行うことができました。80期の卒業式も全校生徒が集まって祝うことが出来て良かったと思います。

 

Ⅱ 学校活動一つ一つの意味を問いつつ、心を込めて行うこと
 六甲学院の教育の特徴は、授業で知性や感受性や体力を鍛え育てるだけでなく、瞑目や中間体操や清掃などの日常の地道な生活習慣と、体育祭・文化祭・強歩会等や長期休暇中の行事を通して、全人的な成長をめざしていることだと思います。毎日の授業にも、日常的にしている瞑目や清掃にも、一つ一つの学校行事にも、それぞれに意味や目的があり、それを時に問い振り返りつつ、心を込めてしてゆくことが大切です。
 明日からの春休みは、カト研の合同広島巡礼や一日巡礼の企画、上智大学の四谷キャンパスではSDGsアイディアソン、上智大学の秦野キャンパスではISLFというイグナチオ的リーダーシップ養成のための集いも行われますし、3年間行うことのできなかったニューヨーク研修や、高校1年生は初めての企画である泊りがけの勉強合宿もあります。単にコロナ禍でできなかったことを再開するというよりも、姉妹校4校の合同プログラムも含めた新しい企画としての行事が多くあります。参加する生徒は、そうした行事が自分にとってどういう意味があったのかを振り返りつつ、周りの人たちにも感想を分かち合ってくれたらよいと思います。
 また、外に出かけてゆく行事ばかりでなく、地道に行事準備のために学校に通う生徒も多くいると思います。高校2年生の役員を中心に、体育祭に向けて総行進のデザイン作成や競技・行進のシュミレーションの準備を進めているでしょうし、高校1年生の中には、文化祭の準備を考え始めている生徒もいるでしょう。

 

Ⅲ ニューヨーク研修-バスの中でのリーダー会議
もう10年ほど前になりますが、2014年に72期・73期が参加した第2回目のニューヨーク研修を引率した時には、ニューヨークからボストンまで、5時間ほどのバス移動でした。そのバス内でのほとんどの時間を、73期のこれから高2になる生徒たちは、文化祭をどうしてゆくか、学年の中で誰がどういう役割を担ったらよいかについて話し合っていました。ニューヨーク研修がリーダー研修としての位置づけだったこともあり、実際に学年のリーダー格が集まって旅行に参加していたせいもあったかもしれません。確かにその時のメンバーがその後に生徒会長になったり、文化祭の中核を担ったりしていて、おそらくニューヨーク研修中の生徒たちの話し合いが、後の行事運営だけでなく学年の生徒の自主的な運営にまで活かされていたのだと思います。リーダー研修を意図していた研修旅行ではありましたが、生徒たちは教師側の意図を超えた意味のある時間の使い方を旅行中にしていました。

 

Ⅳ ニューヨーク研修の企画に至るまでの体験
 それぞれの行事が実施されるまでには、教師の側にも様々な意図や思い入れがあり、また準備のプロセスがあります。春休みに行われる一つ一つの行事も同じだと思います。今日は、明後日から生徒18名が行くことになるニューヨーク研修について、その立ち上げに至るまでの話を、少ししたいと思います。
 ニューヨーク研修を企画したのは、2007年の4月から12月まで私がニューヨークのマンハッタンの北のブロンクス地域で生活した体験があったことが一つのきっかけでした。イタリア人街の大学院生の寮で暮らしながら、そこから徒歩10分弱のフォーダム大学に通っていました。そのイタリア人街は19世紀に移住してきたイタリア人たちの集落から始まった落ち着いた街なのですが、その後ブロンクスには比較的新しい移民が次々に出身地ごとに集まって集落を形成し、社会の底辺を支える仕事をしている人たちが多く生活をしている地域もあります。高い柵に囲まれたイエズス会学校のフォーダム大学内の建物が、中世のヨーロッパの貴族が暮らす城のように壮麗で美しいのとは対照的に、そこから一歩街に出ると貧しく荒れすさんだような殺風景な地域も多く点在しています。
 勉学はそれなりに忙しかったので外出する機会は多くはありませんでしたが、住んでいたブロンクスから、月に1~2回、地下鉄を30分ほど乗って、週末にマンハッタンの図書館や美術館などに行くと、街の景色は別世界のように思えます。街並みは美しいですし、学生証さえあれば、世界中の傑作が並ぶメトロポリタン美術館は寄付金1~2ドルでも入れますし、ミュージカルも当日空きがある演目ならば半額近くで見ることができます。映画「ティファニーで朝食を」や「スパイダーマン」などにも出てくる市立図書館は、自分の住所宛に送付された封筒を受付に見せてニューヨークに住んでいることさえ証明できれば、容易に会員になれて自由に使うことができます。また一方で、2007年当時はマンハッタンの南部の同時多発テロがあった地帯は、破壊されたビルの瓦礫(がれき)が、すべては撤去されずに残されていて、出来事の悲惨さ、深刻さ、生々しさを伝えていました。
 通っていたフォーダム大学内には、フォーダム・プレップと呼ばれている名門高校があって、そこにも週1~2回通い、おもに宗教の授業を見学していました。優秀だけれど人懐っこい生徒たちが多く集まっていて、社会奉仕活動にも熱心な学校でした。年間70時間の課外奉仕活動を一人一人がすることになっていて、「奉仕(Service)」と呼んでいる授業があり、自分の行った病院や福祉施設での活動で考えたこと、感じたことを10数人のクラスメイトが毎週分かち合っていました。また。上級生が下級生のためにプログラムを作って、縦割りのグループで話し合いをし発表をするような企画行事もしていました。
 高度な学問のできる大学をめざす生徒たちであること、社会奉仕活動が盛んなこと、上級生が下級生を指導する行事があること等、六甲学院との共通点が多くて、この学校の生徒たちならば、六甲の生徒たちとも学校生活を話題として交流ができるのではないかと思いました。
 その後、マンハッタンの北側の移民が多く暮らすハーレム地域に、クリストレイという移民の子弟のための学校を設立した神父と知り合いになったり、六甲の卒業生が集まる伯友会があると聞き、国際的な会社の第一線で活躍している卒業生や名門コロンビア大学で研究している卒業生がいることを知ったりして、六甲生にぜひこういう人たちと出会い、こうした場所を訪れてほしいという思いが強くなってゆきました。
 マンハッタンとブロンクスの街の経済面・生活面での格差や、国連や同時多発テロの発生した場所での平和学習、姉妹校との生徒交流、ニューヨークならではの芸術作品鑑賞、アメリカの大学見学や福祉施設訪問、六甲の卒業生との交流等、六甲生にとって、六甲独自のユニークで豊かな体験のできるプログラムが作れるように思いました。

 

Ⅴ 東日本大震災直後の下見で経験したこと
 生徒を連れてゆくプログラムとして企画するに当たっては、普通に観光でニューヨークを巡るのとは異なる場所に行くプログラムが中心となりますので、その行程が安全であることを確認する必要はありますし、交流する学校でお世話になる先生や六甲学院の卒業生との打ち合わせは必要でした。伯友会の方々の中には生徒の行く行程にブロンクスが入っていることで、治安面も含めて心配される方もおられましたので、一緒にそのOBの方々と行程を回り、アドバイスも受けつつ、その心配を払拭する必要があるとも思いました。最初は個人的な思いからの発案で、実現できるかどうかわからないものでしたので、下見もまずは、企画として学校に検討してもらうための地ならしのつもりで行きました。下見の時期は留学から帰って3年後、ちょうど2011年3月、東日本大震災が起こった時で、航空チケットを購入した時には想像もしなかった惨事で、出発までの10日間、日本がこんな時に行くべきかどうかずいぶん迷いました。しかし、即座に自分が東北の被災地に行ってできることはないように思いましたので、結局予定通りにニューヨークに向かいました。
 行って驚いたのは、日本の地震や津波災害について心配してくれている人たちが大変多いことでした。ブロンクスの貧しい地域で炊き出し活動をしている知り合いのシスターは、勤め先の大学で、熱心に募金活動をしていて、大学中のあちらこちらに東北被災地の写真付きの募金箱がおいてあり、大学生は本当によく協力してくれていました。また、マンハッタンは公的な施設に入るときには簡易な荷物検査があるのですが、市立図書館の別館に行ったとき、肌が黒く大柄の見た目は大変いかついガードマンさんが、「日本から来たのか、たいへんだったなぁ、家族は大丈夫なのか、津波の映像を見るたびに涙が出てくるよ」と言いながら、本当に目に涙を浮かべていたことが、忘れられません。世界の大都会ニューヨークは一見冷たくよそよそしく時に怖くも感じる街ですが、実は人懐っこく暖かく優しい面があります。ニューヨークに限らず、この世界は実は本当はお互いを心にかけつつ、できることがあればするし、慰めや励ましの声をかける優しさを持っているのではないかと、そのときの出来事を思い出すたびに、思います。人はもともと優しいものであるという人間への信頼を感じさせる出来事でした。

 

Ⅵ 学校活動の目的・意図を振り返りつつ、体験を分かち合うこと
 帰ってきてからの一年間は、学校内の社会奉仕活動として東日本大震災の被災地に生徒と向かう奉仕活動に専念し、5月に津波被害の激しい塩釜・石巻・南三陸などを下見したうえで、夏休みに石巻、翌年の春休みには大船渡、陸前高田に生徒と共に被災地ボランティアに行きました。ニューヨーク研修については翌年の2012年度に一年をかけて準備をしたうえで、2013年の春休みに実施したのが第一回のニューヨーク研修旅行でした。回数は重ねて担当者が変わっても、基本的な理念は受け継がれつつ、それぞれの回の生徒たちが各々にユニークな体験をしていて、時には教師の意図していた以上の充実した経験をしてきていることを、文化祭などでの発表を見ながら知ることもありました。明後日からニューヨークに行く生徒たちも、ぜひ帰ってきてから自分たちの体験を他の生徒たちに伝えてくれたらよいと願っています。

 

 春休みは、行事に参加する生徒もいるでしょうし、学校内で行事準備に専念する生徒もいるでしょう。日常とそう変わらない生活をする生徒も、まずは勉学に取り組む必要のある生徒もいるでしょう。先ほども述べたように、学校の活動にはそれぞれに意味や目的がありますので、それを時に問い振り返りつつ、心を込めてしてゆくことが大切です。何をするにせよ、自分なりに目標を定めて、充実した生活を過ごし、元気に新学期を迎えてくれればと願います。

六甲学院高等学校 80期生卒業式 校長祝辞

《2023年3月4日 六甲学院高等学校 80期生卒業式 校長祝辞》

 

Ⅰ はじめに
 80期の皆さん、卒業おめでとうございます。保護者の皆さん、ご子息のご卒業、本当におめでとうございます。
卒業アルバムには、80期の卒業生に向けて、次のような「贈る言葉」を書きました。
「80期の皆さん、ご卒業おめでとう。中学から高校卒業に向けての頼もしく目を見張るような成長を見守ることができ、嬉しく思います。コロナ禍の様々な制約下での文化祭・体育祭の仕上げは見事でした。For Others, With Othersを生き方の軸に、幸せになってくれたらと祈ります。」 書いたのは数か月前ですが、思いは今も同じです。

 

Ⅱ コロナ禍の制約の中でベストを尽くし学校をまとめた80期生
 80期の高校時代は、コロナ・パンデミックに覆われた3年間でした。そして、最後の一年間は、ロシアのウクライナへの侵攻により、世界の平和秩序が大きく揺らいだ年でした。日常生活・学校生活に多くの制約が加わり、精神的にも不自由さや抑圧感や不安感の中で過ごさざるを得なかったと思います。それにもかかわらず、80期は様々な制約の中でやれる限りのことを、互いに協力しながら、また創意工夫をしながら、成し遂げることができた学年でした。またその中で大きく成長した学年でした。
特に文化祭と体育祭は、コロナ感染を広げないための様々な制約の中で、指導面では規律と約束事を守らせながら、相手の意図や思いにも配慮しつつ、できる限り自主的に動けるようにモティベーションを持たせてゆくという難しいかじ取りを、行っていたように思います。その結果、多くの生徒たちが文化祭や体育祭では達成感ややりがいを感じ、学校としてもひとつにまとまっていきました。

 

Ⅲ 互いに敬意を払いつつ切磋琢磨し成長した80期生
 行事に限らず、勉学でもクラブ活動でも委員会活動でも、それぞれの場で自分たちの責任の下に学校を引っ張ってくれていました。各活動の中に核になる生徒がいて、六甲学院の諸活動の意義を理解ようと努めながら物事を進めてくれていました。例えば、インド訪問には残念ながら行くことのできなかった学年でしたが、インド募金は六甲生が当然協力するべきものとして緩むことなく行われ続けていました。それは、心強いことでした。コロナ禍の影響で長い期間これまでと同様には行えないことの多かった清掃活動や中間体操も、その時その時の条件に対応しつつ、後輩指導をしてくれていました。学校活動の中心である勉学においても、多くの生徒がコロナ禍の環境の整わない中でも倦まず弛まず励んでいました。2年前、コロナ禍の1年目には、学年初めの2か月間の休校期間から始まって学校生活が正常に行われなかったことから、基本的には高1から高2への進級を認めることが3学期に発表されましたが、進級できることが決まっていても、勉学面での取り組みが大きく緩むことなく、当然すべきこととして進められていた学年でした。
 それは、社会奉仕活動や訓育活動や勉学に、日常的に本気で取り組んでいる生徒たちが一定数いて、お互いに切磋琢磨するような人間関係ができていたからかもしれません。ミッションステートメントの一番目に「①自分と他者の良さを認めて、互いに切磋琢磨して成長し合う人間関係を築きます」とありますが、その通りのことが実現していたのだと思います。本気で取り組むクラスメイトに敬意を払いつつ、その活動に意義を認めて、自分たちも同じように真面目に取り組む気風が自然に生まれていたのではないでしょうか。6年間、お互いにまだ精神的にも幼い時から一緒に様々なことをしてきて、卒業が近くなるにつれて、相手が人間的に成長しているのが分かって、それに刺激を受けて自分も成長していったのだと思います。一昨年文化祭後に文化祭役員が講堂に集まって振り返りの集会をしたときだったと思いますが、役員の一言ずつのスピーチの中で「一緒にいるうちに周りがだんだんと人格者になってゆくんです」という表現をしていた生徒がいました。その表現が大げさだとは思わないくらい、教師から見ても目を見張るほどの成長を感じていました。

 

Ⅳ 危機を乗り超えるための三つの「価値」について
 80期の皆それぞれがコロナ禍の中で過ごした3年間のうちには、クラブ活動や旅行や趣味を共有する友人との活動など、ぜひしてみたかったことやする価値があると思っていたことができなくなり、苦しくつらい時期はあったろうと思います。これからどうなるかもわからない中で、ふさぎ込むような気持ちや無力感や不安感に陥っていたこともあったでしょう。生活の中に喜びを見出せない、意味を見出せない、何をする意欲もわかない、という状況の中で、精神的に危機的な状況に追い込まれたときに、その危機とどう向き合ってきたのでしょうか? 卒業を機に、この3年間を振り返る中で、そうした危機を乗り越えるための心の手立てを見出すことができたら、それは今後にとっても、きっと役に立つことだと思います。もちろん、今後一生平穏無事な人生を過ごせたら一番よいのですが、予期しない災害、病気の苦しみ、不幸な出来事といった危機に向き合う必要が生まれたときに、一つの視点を与えてくれる考え方を紹介します。
 大事故・大災害・世界的危機が起こった時によく読まれる著書の作者に、オーストリアのユダヤ系精神科医で心理学者のヴィクト―ル・フランクルがいます。『夜と霧』や『それでも人生にイエスと言う』などが代表作です。第二次世界大戦中に、ナチスの強制収容所での生活を強いられて、いつ終わるか分からない過酷な労働と生活環境のなかで常に死と向き合っていた人です。その生活の中で彼が確信したのは「自らの人生に意味を見いだす人は、苦しみに耐えることができる」ということでした。逆に、苦しみの中で生きていることに意味を見出せなくなった人から、心が折れ体も病み衰弱して死んでゆくことを、収容所内の身近な体験として知ります。
フランクルは生きることに意味を与えるもの、人生の中で人が見出せる価値は3通りあると述べています。創造的価値 体験的価値 態度的価値の3つです。創造的価値とは何かを作り出すことです。(例えば美術作品を作る 詩や小説を書く などです。)
体験的価値とは芸術作品を味わったり仲間と一緒に何かをしたりすることです。(例えば音楽を聴く 映画を見る スポーツをするなどです。)
 この2つの価値については、六甲学院の多くの生徒は、コロナ禍でもそれなりに経験をしてきたのではないかと思います。体育祭の総行進を生徒全員で作っていくことや、文化祭の講堂やステージでの企画や展示作品を作っていくのは、創造的価値に当たるでしょう。体育祭で観客として騎馬戦・リレーなどの競技を見たり、文化祭で展示や発表を見たり、講堂・ステージでのパフォーマンスを見たりして感動すること、仲間と一緒に何かに取り組んで喜びを感じるのは体験的価値です。そうした大きな行事の中だけでなく、ささやかな日常の中で見出せるものもあるかと思います。
 もう一つの態度的価値とは、創造的価値や体験的価値を感じにくい状況の時にも、人間の態度のうちに感じられる価値のことです。ナチスのアウシュビッツ収容所にいたフランクルにとっては、どんなに悲惨な状況の中でも、自分のパンをより弱っている人に分け与える人がいたことを伝えています。そういう尊い行為をする人間がいることが救いであり励ましであり人生に意味を与えるものでした。
こうした「態度的価値」は他の2つの価値が生まれる状況にない厳しい場面でも見出すことができるものとして貴重なのですが、実は日常の中でも見出し得るものだと思います。例えば、今週の火曜日のことなのですが、六甲学院の生徒が、90歳代の高齢の方が通学路の松陰女子大前のT字路で転び怪我をしているところを見つけて助け起こし、救急車が来るまで現場にいた生徒の数人は、顔面を道路にぶつけて血を流しているその方に、ティッシュペーパーや替えのマスクを差し出したりしていたことが報告されています。たとえ些細なことと思われることでも、人を助ける行為が同じ学校の生徒にあったことを知って嬉しく感じたり励まされたりすることはあると思います。
 緊急時や切羽詰まった状況の中で人々が示す態度のうちに、人としての良さ、人間らしさが表れることがあります。ささやかな行為であっても、そこに人間としての尊さや美しさが感じられたりしたときに、人として生きることの意味を感じることはあると思います。それが態度的価値にあたります。

 

Ⅴ コロナ禍に国際的リーダーが示した態度的価値
 コロナ禍では、社会には自分自身が感染して深刻な状況になりかねない状況でも、自分の身を危険にさらしながら人のために尽くす人々がたくさんいました。また、そうした最前線で働く人々に感謝を伝え、励ましになる発言をするリーダーたちもいました。その中で私にとって特に心に残っているのは、感染拡大の初期にドイツのメルケル前首相の、医療従事者だけでなくエッセンシャルワーカーに向けても発せられていた感謝とねぎらいの言葉でした。メルケル首相が、2020年3月18日に行ったテレビ演説の中の言葉を幾つか紹介します。
 一つ目です。
 「何百万人もの方々が職場に行けず、お子さんたちは学校や保育園に通えず、劇場、映画館、店舗は閉まっています。なかでも最もつらいのはおそらく、これまで当たり前だった人と人の付き合いができなくなっていることでしょう。もちろん私たちの誰もが、このような状況では、今後どうなるかと疑問や不安で頭がいっぱいになります。」
メルケル前首相はこのように、まず、コロナ禍に入って生活が変わり人とのつながりも断たれてしまっているつらさや不安を、国民と同じ目線で伝えています。
 二つ目です。
 「多くの人が病気に感染し、そして亡くなってゆくことは、単なる抽象的な統計数値で済む話ではありません。ある人の父親であったり、祖父、母親、祖母、あるいはパートナーであったりする。実際の人間が関わってくる話なのです。そして、私たちの社会は、一つひとつの命、一人ひとりの人間が重みを持つ共同体なのです。」
メルケル前首相は、感染により大切な人を失ってしまった人々に対して、統計数値では測れない一人ひとりの悲しみを思いやり、命の重さを伝えています。
 三つ目です。
 「この機会に何よりもまず、医師、看護師、あるいはその他の役割を担い、医療機関をはじめ我が国の医療体制で活動してくださっている皆さんに呼びかけたいと思います。皆さんは、この闘いの最前線に立ち、誰よりも先に患者さんと向き合い、感染がいかに重症化しうるかも目の当たりにされています。そして来る日も来る日もご自身の仕事を引き受け、人々のために働いておられます。皆さんが果たされる貢献はとてつもなく大きなものであり、その働きに心より御礼を申し上げます。」
メルケル前首相は、医療従事者が自らも感染する危険性のある中で命をかけて、患者たちの命を守り救おうとしていることに感謝の気持ちを伝えています。
 最後に四つめです。
 「さてここで、感謝される機会が日頃あまりにも少ない方々にも、謝意を述べたいと思います。スーパーのレジ係や商品棚の補充担当として働く皆さんは、現下の状況において最も大変な仕事の一つを担っています。皆さんが、人々のために働いてくださり、社会生活の機能を維持してくださっていることに、感謝を申し上げます。」
メルケル前首相は、医療従事者だけでなく、目立たない仕事ではあるけれども、自分が感染リスクの高い危険な状況にありながらも休みなく職場に出て社会生活を支えてくれている人たちに気づいていて、心配りをし感謝の気持ちを伝えています。
 イエズス会教育の目標である『他者と共に生き他者に仕えるリーダー For Others, With Others』は具体的なイメージがわきにくいかもしれませんが、メルケル前首相のように多くの人々が見逃してしまいそうな陰で人々の生活を支えるために働いている人々に気づいて、ねぎらい感謝し励ますことのできるのは、その資質の一つではないかと思います。

 

Ⅵ コロナ禍で学んだ大切で普遍的な価値を振り返る
 ―他者の幸福に喜びを感じられるリーダーとなるために
 ミッションステートメントには、六甲学院の使命は「『過ぎ去るものの奥にある永遠なるもの』を探求し、『他者と共に生き他者に仕えるリーダー』を育てることです。」とあります。この3年間のコロナ・パンデミックは出来事として過ぎ去りつつありますが、その中で、私たちが今後に生かすべきこととして学んた大切で普遍的なこととは何だったでしょうか? 創造的価値・体験的価値・態度的価値を一つの視点として、不自由な生活の中で何に意味や価値ややりがいを見出すことができたかを、振り返ってみてください。この3年間で自分が大切だ・価値があると思ったことは、これからの人生の中で大事な物事を識別し選択する上での基準の一つになりうるだろうと思います。それと同時に「他者と共に生き他者に仕えるリーダー」とは、どういう人なのか、今日の話では、メルケル前首相を例に挙げました。自らも行動すると共に、目立たず普通には気づかれない人の姿に心を向けて、その人たちのうちに価値を見出し、その活動を言葉や行動で支えることのできるリーダー、他者が幸せになることに喜びを感じられる人間になってくれればと願っています。

三学期 始業式 校長講話

《2023年1月7日 三学期始業式 校長講話》

 

身近な人たちへの優しい心遣いから世界の平和を築く行動へ
- 人を人として大切にする校風を育てる一年に -

 

1 新年にあたって、この一年心がけてほしいこと
 明けましておめでとうございます。新年の始めに当たって今年の一年間で心がけてほしいことをまず伝えます。六甲の学校生活で大切にしてきたことは、新たな気持ちで大事に丁寧に取り組んで欲しいと言うことです。訓育面では特に「清掃」、社会奉仕面では「インド募金」を大事に取り組んで下さい。また、国際交流・国際協力の面も、実は六甲が創立され多国籍の宣教師たちが六甲学院の基礎を築いて以来、大事にしてきたことです。実際に海外に行く企画も、オンラインでの交流企画も充実させてゆきたいと考えています。日常的な英語の学習を初めとして、自分の視野を広め思考力を高める日々の学習活動を大切にしつつ、行事には積極的な参加をしてくれたらよいと思います。
そうした日々の取り組みの中で、身近な人たちへの心配りと共に、広く国際社会にも目を向けて欲しいと思います。どうしたら、周りの人たちが平和な思いの中で暮らせるか、どうしたら世界がより平和な方向へ進むか、考え行動し続けてくれたらよいと思っています。

2 生命を蔑み奪う残忍な行動と、生命を尊び救う人道的な行動
 この1年間の出来事で言えば、去年の同じ一年の初めの時期に、ヨーロッパで主権を持った国が隣国に侵略され、それまで平和に暮らしていた一般民衆が戦争に巻き込まれるような事態になることは、ほとんど誰も予想することができなかったと思います。その中で虐殺の事実まで報告されるような悲惨な出来事が起きるとは、想像もできませんでした。12月の終業式で話したように、横暴な権力者の判断一つで普通に日常生活を送っていた人々が苦しめられる理不尽な暗闇の世界は、遠い昔、例えば2000年以上前のイスラエルでヘロデ王によってベトレヘムの幼児が虐殺された時代から、21世紀のプーチン大統領が主導するロシアのウクライナ侵攻で、一般市民が虐殺されている現代まで、残忍さを持った人間の負の営みとして、時代を超えて続いています。
ただその一方で、例えば40年以上前のカンボジア難民の時も、今回のウクライナ難民の時も、周辺諸国へと逃れる人々の命を助け、生活を支えようとする人間の人道的な働きがあることも、見失ってはいけないと思います。世界を破滅に導きかねないような危険性のある戦争の中で、不条理な悲劇に巻き込まれた人々を救い平和をもたらそうとする動きも、絶望的な暗闇の中で輝く光のように存在することは、忘れてはならないと思います。

3 現場に入って平和を築く働きをする卒業生たち
 そして、六甲学院には、日本国内や世界中で、戦争による混乱や貧困や災害によって日常生活が破壊された現場に入って、直接そこに生きる人々とつながり関わる中で、地道に平和を築くために活動している多くの卒業生がおられることは、大きな希望です。戦争後の混乱した国に入って、秩序と平和をもたらすために法律づくりを初めとした国作りに貢献している人、日本では考えられない貧困に苦しむ人々の生活をより人間的な暮らしに変えようと様々な方策を試みている人、大規模な自然災害の中で健康を損なったり生活が破壊されたりした人々を医療面や法律面で支えている人など、何人もの卒業生の活動や生き方をこれまでの講話で紹介してきました。
そうした人たち自身もきっと、全ての物事が順調に進んできたわけではなく、生活面での困難さや、思い通りには行かないことの無念さや、善意でしたことが理解されない失望感なども経験していることでしょう。基本的には人間を信頼して物事を進めようとしても、人間の邪悪な闇の部分に出会うことは避けられないですし、精神的なたくましさや多少のことでは折れない柔軟な心(レジリエンス)を自分の中に育てることは必要なのだと思います。また、困難があったとしても、六甲学院で学んだ “For Others, With Others” の精神を基本に、他者のために自分にできることをしていく中で、支援する相手の喜ぶ笑顔を見て、また自分が他者に幸福をもたらすための役に立っていることを実感して、やりがいや生きがいを感じているからこそ、活動を続けられるのだろうと思います。

4 難民を救いたいという思いから始まった自発的な救援活動
 1970年代終わりから80年代初めにかけて、上智大学ではインドシナ難民の救援活動が活発だったことは終業式でも伝えました。この救援活動も実は最初から大学が中心となって動きをリードしたわけではありません。自然発生的に様々な学内のサークルがそれぞれに、自分たちに出来ることを考え企画し実行しました。募金活動や現地の現状を伝える報道写真展示や講演会やチャリティーコンサートなどが、自主的にあちらこちらで動き出していました。その後、イエズス会が難民キャンプ運営の一端を担っていたこともあって、カンボジアとタイの国境線沿いの難民キャンプに行くプロジェクトを大学としても企画し始めるようになってゆきました。最初にあったのは、惨状の渦中にある難民を救いたい、この状況をなんとかしたい、という学生たちの思いだったのです。

 5 人への心遣いがあってこそ成り立つ救援活動
 私自身は直接に難民キャンプには行かずに、日本に留まってできることをしようと思いました。当時ヨーロッパ在住の日本人作家が難民キャンプのボランティアに長期間関わっていることを知り、その方を招いて講演会を企画するようなこともしました。ヨーロッパで聖書学を学びつつ、日本では随筆家(エッセイスト)として知られていた犬養道子という方なのですが、その人の講演会でのお話は印象的で、今でも時々思い出す言葉があります。“自分のところでトイレットペーパーがなくなったときに、次の人のために新しいトイレットペーパーを入れ替えることをしない人が、難民ボランティアに行ってはいけない。そういう人が行っても足手まといになるだけだ”という話でした。それを聴いて、なるほどそうか、と思いました。次に使う人のことや周りの人のことを配慮して、自然に体が動くような人が集まる場だからこそ、救援活動が成り立つのです。

 6 ドアの開け閉めの心遣いから国際的な救援活動へ
 その話を聞いて、当時の上智大学で自然発生的に救援活動が起こった理由も理解できる気がしました。大学の校舎の出入り口の扉は手で押し開けてバネで閉まる仕組みのものなのですが、自分が出た後に前から入ろうとする人や続いて出ようとする人がいた場合、その人たちのためにドアが閉まらないように手で支えるのが、習慣になっていました。特にマナーとして決められたものではなくて、次に出入りする人への自然な心配りとして当たり前に行われていました。それだけのこと、と思われるかも知れませんし、今でこそ街中でも見かける光景になっていますが、当時の日本ではそうした心遣いは一般には広まっていませんでした。自分基準で動く人の多い粗野な公立高校から入学してきた私にとって、自然に人に対して心遣いをする文化が学校に根付いていることは、一種のカルチャーショックでもあり、新鮮で快さを感じるものでした。
もちろん上智大学では一般教養を初めとした授業の中に、一貫してキリスト教的なヒューマニズムの教育が行われていたことも、そうした校風が生まれるのに影響していたのでしょうが、普通の生活の中に人を人として大切にする雰囲気が自然に醸し出されていました。だからこそ、人を人として大切にされていない現実社会の悲惨な出来事に、一斉に敏感に反応し、自然発生的に様々な救援活動が始まったのだろうと思います。次にトイレを使う人のために、トイレットペーパーを入れ替えたり、ドアを出入りする人のために、2~3秒ドアを支えたり、そうしたごく小さな他者への配慮、小さな“For Others”が、国際社会の中で戦乱の中を逃げ惑う他国の難民の人々を協力して助ける動きに、つながっていたのではないかと思います。

7 学校の中に人への心配りを自然にする文化を根付かせること
 -まずは「清掃」と「インド募金」への積極的で丁寧な取り組みから
六甲学院が “For Others, With Others” の生き方を身につけた人間を育て続けるために必要なのは、実際にそういう生き方をしている人たちと出会うことと、当時の上智大学のように、自然に他者を気遣う心を育てる文化を学校に根付かせることではないかと考えています。
現在の六甲学院がそういう点で足りないかというと、必ずしもそうではないと思います。例えば教師が重いノート提出の束を抱えていたら、職員室や教室のドアを開けてくれる心根の優しい生徒たちは多くいます。震災や豪雨災害などにより国内外で苦しむ人々がいたら、機敏に反応して募金活動を始める気風が育っています。また、大学とは違う教育手段で、地道に他者へ配慮する心を育ててきたようにも思います。例えば、生徒がお互い同士で生活の場を快く過ごしやすいものにしようと気遣ったり、目の前にいる人だけでなく遠く離れたところで困窮している人たちに心を向けたりするための活動が、「清掃」であり「インド募金」なのだと思います。自分たちのクラスや他の生徒たちが気持ちよく翌日もその場を使えるように綺麗に掃除をすること、日常生活を送るために支援を必要としているインドの子どもたちへの募金活動に協力すること、そうした、六甲が日常生活の中で大切にしてきたことを、これからも大切に丁寧にすることが、日常の小さな平和にも、遠い国で暮らす子供たちの平和にもつながってゆくのでしょう。また、丁寧に掃除をしたり、インド募金に協力したりする日常の取り組みの積み重ねが、これまでの卒業生の生き方につながってきたし、皆が“For Others, With Others”へと育ってゆくことにつながってゆくのではないかと思います。

 新年を迎えるに当たって、人を人として大切にする校風を育て、優しい気遣いの出来る心を身につけてほしいと思います。そのために、最初に述べましたように、訓育面では清掃活動、社会奉仕面ではインド募金、そして国際的な視野を広め平和をもたらす思考力を鍛える勉学と行事に、積極的に取り組む一年としてくれたらと願っています。

二学期 終業式 校長講話

《2022年12月23日 二学期終業式 校長講話》

 

「光は暗闇の中で輝いている」(ヨハネ福音書1章5節)

―暗闇の中の光となるために、自分の使命(Mission)と天職(Vocation)を探す-

 

 (1)学校生活の体験と生きがいにつながる進路選び

 コロナ感染が治まりきらない状況は続いていますが、2学期は、文化祭や強歩大会が、平常に近い形で行われたことは、うれしいことでした。それぞれに思い出に残る体験ができたのではないかと思います。また、49期五百旗頭薫氏による講演会やビジュアルアートの先駆的グループを招いての芸術鑑賞会も、印象深く充実したものでした。そうした見聞や体験を通して感じた興味や充実感・達成感が、自分の将来の進路選択にもつながり、生きがいにもつながることを、卒業生の仕事や生き方を紹介しながら朝礼講話等で伝えてきました。

 来年からの学校行事も、少しずつ、この3年間近くコロナ感染のために思うようにできなかった分野を取り戻しつつ、より充実したものにしてゆければよいと思っています。海外研修は、その大切な分野の一つです。来年度からの高校の研修旅行は、海外に行くことを考えています。それも視野を広げる貴重な体験となり、生きがいのある進路選びにもつながり得るのではないかと思います。まず、この12月に研修旅行の下見で出会った二人の卒業生の話をします。

 

(2)シンガポールで出会った二人の卒業生について

 12月の始めに2名の教師と一緒に、研修旅行の訪問予定のシンガポールとマレーシアに行ってきました。それぞれの国をほぼ一日ずつの短い下見でしたが、得るものはありました。

 計画しているプログラムの一つに、シンガポールの企業や大学で仕事をしている六甲の卒業生との交流があります。夕食時に行う予定の交流会の打ち合わせをするために、二人の卒業生と会いました。

 一人は58期の教え子でもある吉田氏です。国際的な海上輸送・物流産業の会社で働いています。シンガポール滞在3年目とのことです。日本人社員がシンガポールに何十人もいる会社です。生徒の頃には、私の目からはそれほど国際的な関心が高いとは思われなかったのですが、大学に入って様々な経験をして視野を広めたのだろうと思います。学生時代にインドにも行って、コルカタのマザーテレサ設立の施設「死を待つ人の家」のボランティアを経験しています。一人旅でインドに行ったときに、ふっとマザーテレサの施設のことを思い出して、ボランティアに申し込む気持ちになったのだと話してくれました。もしかしたら、生徒時代にインド訪問をしたいという気持ちはあったけれども、できなかった体験の一つだったのかも知れません。

 今の高校生の中にも、インド訪問には行ってみたかったという生徒はいるでしょう。支援施設ダミアン社会福祉センターのある地域は、普通観光では行くことのないインドの東北部の田舎町です。数日間の滞在になりますので、コロナ禍の医療体制や衛生状況などの安全性を考慮すると、インド訪問の実現はもう少し先にせざるをえないかと思います。もしも六甲在学中に体験はできなくても、行きたいという思いが消えないようでしたら、吉田氏のように大学生になってから一人旅で、または仲間と誘い合って行くことを考えてもよいのではないかと思います。

 シンガポールで会ったもう一人は、57期の山本氏です。10年ほど前のニューヨーク研修の立ち上げ時にはニューヨークで働かれていて、卒業生との交流プログラムでは中心的に動いてくれた方でした。今はシンガポールにいて、来年度から研修旅行の世話をしてくれます。生命保険会社でニューヨークでは投資の仕事、今はアジア全体の統括の仕事で、仕事の種類としては全く異なるそうです。インドネシア・マレーシア・タイ・ベトナム・インド・ミャンマーなどのアジア各国を、日本であれば東京から地方都市に出張をするように、頻繁に飛び回っているようです。二人の話を聞いていると、アジアの金融・経済・貿易の中心はすでに日本ではなく、世界中の企業が戦略拠点を作っているのはシンガポールであることが、実感を持って伝わってきます。

 

(3)シンガポールの先進性と日本がこの国から学ぶべきこと

 山本氏からは、もう一人同じ時期にニューヨーク研修で生徒と会い話をしてくれていた56期の佐伯氏も、現在はシンガポールにいることを教えてくれました。10年前にはアメリカの名門イエール大学で脳の研究をしていました。研究者としてシンガポールの大学に招かれて、そこで教鞭を執りながら研究を続けているということです。シンガポール国立大学が、アジアの中で研究実績としてトップであることは、話したことがあると思いますが、シンガポールには世界の優秀な研究者を集めるだけの学問的な土壌があるということです。今回の下見で、シンガポール国立大学を見学したときには、確かにここならば、学生生活をしてみたいと憧れるだろうと思うような、美しく設備の整ったキャンパスでした。おそらく、研究者にとっても日本に戻って研究するよりも魅力のある環境が整えられているのだろうと思います。

 私の青年期は、日本がアジアの中で唯一欧米諸国と経済面で肩を並べ、先進国の仲間入りをした時代でした。その後に同じように経済面で成功したシンガポールに行って、生徒が目新しく学ぶ何かがあるだろうか、という思いが最初はどこかにありました。そのため、シンガポール国立大学の学生とのSDGsテーマの国際交流や、第二次世界大戦時のアジアの国の視点からの平和学習のプログラムを中に入れることで、六甲学院として意味のある研修旅行にしたいと考えていました。下見をしてみて、そうしたことに加えて、経済や学問において世界の人たちが集まるアジアの拠点に、なぜシンガポールがなっていったのかを探究することは、相対的に日本の弱点を知ることにもなり、研修旅行のテーマの一つになりうるように思いました。多民族、多宗教、多文化などの多様性を受け入れて活かす都市作りをしてきたことに、一つの鍵があるように思います。研修旅行では、街を歩く中でその多様性も実感してくれたらよいと思っています。

二学期 始業式 校長講話

《2022年8月29日 二学期始業式 校長講話》

 

前島の対岸の長島愛生園の夏祭りと『生きがいについて』

 

Ⅰ 夏休み中にいただいた「お褒めの言葉」 

 夏休み中に何回か、六甲学院の生徒について「お褒(ほ)めの言葉」をいただくことがありました。

 1つ目は、報徳学園の校長先生からのお電話でした。毎年明石球場で行われている全国高校軟式野球大会で、兵庫県代表として出場した報徳学園の試合に、六甲学院の生徒8名がメガホンを持って制服姿で、自分の学校を応援するかのように一生懸命応援してくれたのが、大変うれしかったというお話でした。試合の相手は昨年の優勝校栃木の作新学院で、報徳は敗れてしまったのですが、六甲の生徒たちの声援が本当にありがたかったと、校長先生が話して下さいました。

 2つ目は、夏休みにおこなった国際交流プログラムの一つなのですが、「大学コンソーシアムひょうご神戸」の「英語村」に中1から中3の生徒の希望者が参加しました。海外からの留学生とのオンライン交流2回、インドからの英語講師を六甲学院に招いての文化交流を1回しました。スタッフの方々から、六甲の生徒たちは他国の文化への関心が高く質問も知的で、中学生の国際交流としてはとても高度で充実したものでした、というコメントをいただきました。講師であったインド人の先生からも、六甲生との交流が楽しく有意義に感じられたようで、六甲生とプログラムを行えたことに、とても感謝して下さっていました。

 3つ目は、現在30歳を少し過ぎた66期の卒業生からのお手紙です。すべてを引用することはできないのですが、大阪で見かけたある六甲生の様子を次のように紹介していました。「8月のある日に現役生のきりっとした姿を見かけ、嬉しく思うことがありました。大阪の市営地下鉄の東梅田駅に着き、乗客がぞろぞろと降りる中、遅れて電車から飛び出し人混みの隙間をしゅっとかけていく学生がいました。彼は私の横を通り抜け、数歩先にいた老夫婦にカバンの忘れ物を手渡していました。ユニクロのTシャツに体操用の短パンというラフな服装でしたが、「ROKKO」と書かれた懐かしいカバンを肩に掛けていたので後輩だとわかりました。短髪に眼鏡、よく日に焼けた彼はあっという間にひょこひょこと急ぎ足で行ってしまいました。その姿を見て、私は深い安堵(あんど)を覚えたのです。それは、今も六甲の生徒が大衆に埋もれることなく紳士的な振る舞いを身に着けていること、その事実に安心しました。」とありました。手紙の終りの方には、「在校生に伝えたいのは、君達のまっすぐな振る舞いを見ているよ、という事です。君達の現在と未来を信じています」というメッセージが添えられていました。

 4つ目は、中学1年生の前島キャンプで、スタッフの方が、いかだ漕(こ)ぎの帰りがかなりの逆風の中、これまでの経験ではこうした風が吹いていると、中学生が漕ぐいかだは出発した桟橋(さんばし)までたどり着かないものが続出するので、エンジンを付けたボートで引いてゆくつもりでいたところ、ほとんどのいかだが自力で帰ってきたことを、感心されていました。そのそれぞれのグループが協力して漕ぐチームワークと体力と、逆風の中をあきらめずに漕ぎ続けた粘り強さと気力とを、褒めていただきました。

 他校を自分の学校のように必死で応援したり、他の国の文化に知的好奇心を持って英語で対話したり、地下鉄で老夫婦が鞄を忘れたことに気づくとさっとそのカバンを手渡しに行ったり、逆風に負けずにチームでいかだ漕ぎをしたり、それぞれに内容は違いますが、六甲学院の学校生活の中で、他者を思って自然に行動に移せる心も、自分の視野を広げようとする知性も、チームで何かを成し遂げる気力や体力も、成長している姿が感じられてうれしく思います。それと同時に、六甲学院の生徒たちを温かく見守って下さり、プラスのメッセージを伝えて下さる方々の存在が何よりもありがたいと思います。こうして私たちに贈られた言葉を励(はげ)みにしつつ、これからも知性・体力・チーム力を必要とする文化祭を初めとした2学期行事に、前向きに取り組み、さらに一回り成長してもらえたらと願っています。

 

Ⅱ 中1前島キャンプで聴いた隣島の花火の音

 私はこの夏期休暇には中1の前島キャンプの後半に付き添ったのですが、個人的に様々なことを考えるきっかけになった出来事は、キャンプファイヤーの最中に前島を隔てた対岸の島から聞こえてきた、打ち上げ花火の音でした。中学1年生はキャンプファイヤーの出し物を見ることに一生懸命でしたので、隣島の花火の音に気づかない生徒は多かったかもしれません。花火大会をしていたのは、私たちがいた前島の北東にある島の一つ、長島です。3年前までは六甲学院が、毎年十数人の生徒を連れて社会奉仕活動に行っていた島です。

 どういう施設があるかというとハンセン病の療養施設「長島愛生園」があります。私たちの月々のインド募金の送金先ダミアン社会福祉センターが、世話をしている患者の方々と同じ病気です。日本では国の政策として、この病気を患(わずら)った人は青少年でも成人でも、それまで一緒に暮らしていた家族と別れ、故郷を離れて本土と離れた島に収容されます。国としてはこうした隔離政策によって、伝染する可能性のある病気の地域での感染を食い止め、患者を一つ所に収容して治療したり、後遺症で体が不自由になった方々の世話をしたりするという目的はあったのですが、病気に罹(かか)った人たちの立場からすると、本人の意思と関係なく病気だとわかるとすぐに家族と故郷から引き離され、一生涯一般社会とは隔絶した島で暮らすことを強いられるという、当事者にとっては不条理な出来事でした。

 インドと同じく日本でも、ハンセン病と分かると家族までもが差別を受ける時代が近年まで長く続いていましたので、家族との関係を断つために氏名も変え、子どもを産み育てることも許されずに、生涯この島の中で暮らさざるを得ませんでした。人権の観点からも問題の多い政策が行われていたと思います。日本には現在、青森から沖縄の宮古島まで国立ハンセン病療養施設が13箇所あり、かつては10,000人以上の人たちが療養し、長島愛生園には小中学校もありました。今は13施設全体を合わせても療養者は1,000人以下になっています。

 

Ⅲ 長島愛生園での社会奉仕活動と「夏祭り」

 六甲学院では、インド募金が始まるのと同時期、40年以上前から宿泊の社会奉仕活動として、生徒と共にこの島を毎年訪れていました。この島で療養している人たちは、すでに病気としては治っているものの、後遺症のために手足が不自由だったり目が見えなくなってしまっていたりする人たちです。そうした人たちの家を訪れたり、島の中の教会で数人の方々と会ったりして、お話を伺い交流してきました。奉仕作業としては、初めのころは園内の草むしりを中心にしていたのですが、まじめな働きぶりと継続的な訪問によって療養者の自治会に信頼されたためでしょうか、毎年夏まつりの盆踊り会場のやぐら組みや高いところの提灯(ちょうちん)の設営をまかされることになりました。初めのころは前島と同じように船で長島まで行っていたのですが、1988年に内陸とつながる橋が架かり、自動車やバスで行き来ができるようになります。開園して58年目で、当時、ハンセン病の施設のある島と自由に行き来できる橋が架ったのは、日本社会として差別克服の一歩を示す画期的な出来事でした。

 会場設営を手伝った夏祭りも、当時毎年のように継続的に行っていた私の印象なのですが、初めのころの参加者は園内の元ハンセン病患者と世話をする職員、看護師、医師が中心でした。それが、美しく迫力のある打ち上げ花火が間近で見られることもあってか、しだいに職員の家族や一般の方々も集まるようになりました。まったく社会とは隔絶した空間のような施設だったところが、園内の療養者と町の人たちとが同じ空間に集まり、六甲の生徒たちを含めて元気な人たちは盆踊りをしたり、祭りの屋台で欲しいものを買って食べたりして、にぎやかな祭りの雰囲気を味わえるようになりました。そして、施設に収容されて療養する人たちも、その方々の世話をする人たちも、街から橋を渡ってくる町民の方々も、皆で打ち上げ花火を見て楽しむようになっていきました。お祭りの会場設営が社会奉仕活動の内容ではあったのですが、自然な形で長い年月の間続いていた差別を、一つ乗り越えるような「場作り」の手伝いをさせていただいてきたようにも思います。

 対岸の花火の音を聞き遠くで開く花火を見たりしながら、コロナ禍でできなかった長島愛生園の夏祭りが今年はできるようになったのだという喜びと共に、今年は六甲学院からは手伝いに行くことができなかった残念さを感じました。これまでの六甲生の中には、インド訪問と同様に長島愛生園でも、弱い立場の方々との出会いの中で様々なことを深く考えたり、そうした立場の方々から不思議と生きる糧や指針となるものを伝えていただいたりした貴重な経験があったからです。社会奉仕の面でも、泊りがけの企画が実施できる状況に1年でも早くなることを願います。

 

Ⅳ 長島愛生園で医師として働いた神谷美恵子の著作から 

 最後に、この長島愛生園と関りのある著書を紹介したいと思います。長島愛生園で療養する方々に寄り添って関りを続けてこられた精神科医に神谷美恵子という方がいます。『こころの旅』や『人間をみつめて』という名著の著者ですが、長島愛生園の人たちとの関りの中で思索した内容を著(あらわ)した『生きがいについて』は、特に読む価値のある本だと思います。次のような文章で始まります。

 「平穏無事なくらしにめぐまれている者にとっては思い浮かべることさえむつかしいかも知れないが、世のなかには、毎朝目がさめるとその目ざめるということがおそろしくてたまらないひとがあちこちにいる。ああ今日もまた一日を生きて行かなければならないのだという考えに打ちのめされ、起き出す力も出て来ないひとたちである。耐え難い苦しみを悲しみ、身の切られるような孤独とさびしさ、はてしもない虚無と倦怠。そうしたもののなかで、どうして生きて行かなければならないのだろうか、なんのために、と彼らはいくたびも自問せずにいられない。」

 こんな言葉で書き始められる本です。六甲学院の生徒は心も体も健康で、こんな思いにはなったことがないという人がほとんどであればそれほど心配ないのですが、長いコロナ禍を過ごす過程でなんとなくこれに近い思いになったことがあるという人がいれば、読んでみるとよい本だと思います。筆者はすぐ後に次のように述べています。

 「いったい私たちの毎日の生活を生きるかいあるように感じさせているものは何であろうか。ひとたび生きがいをうしなったら、どんなふうにしてまた新しい生きがいをみいだすのだろうか。これはずいぶん前から私の思いの中心を占めて来たことがらである。しかしこれを一つの課題として或る衝撃とともに受けとったのは、九年前に瀬戸内の島にある、らい(ハンセン病)の国立療養所長島愛生園に滞在していた時であった。」

 「わざわざ研究などしなくても、はじめからいえることは、人間が生き生きと生きて行くために、生きがいほど必要なものはない、という事実である。それゆえに人間から生きがいをうばうほど残酷なことはなく、人間に生きがいをあたえるほど大きな愛はない。」

 

 本書のはじめ数ページの間に、このような言葉が綴(つづ)られています。長島愛生園の中で出会った人たちを通して、自分の体験とも照らしながら思索した内容が書かれているのですが、不条理な境遇に陥(おちい)って生きる意味を見失った人が、どのように自分と対話し周囲とつながる中で、生きる意味・生きがいを見出し得るか、それは単に長島愛生園の療養者だけの課題でなく、例えば突然平和で平穏だった生活が壊されて戦場となったウクライナに暮らす人々や難民の方々の現在の苦しい思いとも共通することかと思いますし、一生の中でおそらく誰にとっても、どこかで直面する普遍的な課題でもあるのではないかと思います。また、コロナウィルスとの関りも長引き日常化してゆく中で、人間が生き生きと生きること、生きがいを持つことは、改めて着目されるテーマとなるのではないかとも思います。2学期は、こうしたテーマについても、心に留めてもらえたら、と考えています。